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街中の鳥たち 〜 オナガガモ、サギ、鳩、アオクビアヒル 〜 [環境・自然]

近くの貯水池
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冬になると近所の小さな貯水池にも、毎年オナガガモがやって来る。
埼玉県南西部の川では、オナガガモ、ヒドリガモ、コガモ、バン、キンクロハジロ、マガモまで、けっこうたくさん見られたけれど、今はどうなのだろう?
歩いてすぐの狭い貯水池でオナガガモの姿を見られるだけでもよしとしないと。

カモの中では私はこのオナガガモが一番好きだ。
首の白い模様がなんとも優美で、ほっそりした首を長く見せ、グレーと茶色の羽がとてもきれいだ。大きさはカルガモより少し小さい。

この2,3年、池のオナガガモの数が減ってきた。
以前は6〜9羽来ていたのに、最近は2〜3羽になり、それもこの冬は来るのが遅く一月になってやっと、良い場所が見つからなくてしぶしぶ、という感じでオスが2羽やってきた。(以前は12月には姿を見せていた。)
それからしばらくして別のオス1羽が加わったが、そのうちに最初の2羽は姿が見えなくなった。
今は1羽だけで、池の主の4羽のアオクビアヒル(2組のつがい)に遠慮しながら暮らしている。(オナガガモは『危急種』で数が減っているらしい)

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どんどん住宅が建っているおかげでそれまで姿を見せなかったサギたちもこんな所にまで脚を伸ばしている。
シラサギの方は夜になると近くの川岸にある桜の木に止まって寝ている。はじめてこの光景を見たときはびっくりした。
夜、交差点わきの川沿いの木に、大きな綿アメのようなものがいくつもぶら下がっているように見えた。よ〜く見るとサギだった。

まるでサギの花。

大きな真っ白な花が咲いているようで、この風景を見るのはいつも楽しみである。最近は7〜8羽のサギがいる。去年はもっと多かった。

桜が満開になったときに見に行ったら、白い桜に埋もれてやはりサギは大輪のようにそこにいてきれいだった。交差点だけど、気が付く人はあまりいないのではないかと思う。



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さて、やっとオナガガモが来てくれたので嬉しくてパンくずをやってみた。
パンくずをやっていると、鳩もやって来た。
6羽から20羽ぐらいの群れで、どこからともなくやって来る。
鳩は2日くらいで手から食べるようになり、
5回目くらいになると手に止まり、6回目には頭やら背中にまで止まるようになってしまった。そして人の身体の上でつつき合ってケンカしている。

鳥の記憶力というのはあなどれない。
池に毎日行くわけでもないけれど、一週間ぶりに行ってもちゃんと覚えている。
鳩が私の回りに来ると、その回りにはスズメたちが2mくらいはなれて半円になりジッとおこぼれを待っている。
ヒヨドリもやってきて、ムクドリも来て、セキレイも見に来る。
カラスも来るけれど、さすがにこの鳥たちの集団の騒ぎには怖れをなして、近づいて来ない。
ヒヨドリはピーヨピーヨ、とやかましいだけの鳥、と思っていたが、近くで見ると意外にきれいな緑灰色をしている。フライングキャッチの名人でパンを投げると空中でサッとくわえてしまう。
IMG_1588.JPGヒヨドリ

鳩が私の回りに平気で集まるうちにヒヨドリもスズメもすごく近くに寄って来るようになった。そのうち手から餌を食べるようになるかも。
そう言えば、用心深いスズメもロンドンでは人の手から餌をもらっていた。住む場所で鳥の性格も変わるのかな。


最後にこの小さな貯水池の主、アオクビアヒルのこと。
IMG_1594.JPGアオクビアヒル

一年中そこにいるので珍しくもなく気にもしていなかったが、時々餌をやっている人の姿を見かける。
この子たちも大変かしこく、4羽で横に一列に並んでパンくずを待つ。
私が、「モルテン!」とか「アヒル君!」とか呼びながら、順番にパンくずを配っていると、次の番のアヒルは「今度ボクでしょ。」と首を伸ばし、尾を振って、まるで飛び上がろうと羽を動かしたりするので、とても可愛いく思えてきた。
餌をくれる人の車の音もちゃんと覚えていて、その車が駐車すると騒ぎ立てて喜ぶ。

眠れない憂うつな夜、近くであの子達も眠っているんだな、と思うと、ちょっと慰められるのです。

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都知事選の結果 [雑感]

都知事選は心配していた通りの結果に・・。
せっかくの「脱原発」へのチャンスがまた消えて、さらに後退した感じ。
投票率が46.14%と低かったのは選挙に何かを期待する人が少なかった、ということでしょうか。

得票を見ると、都民(有権者)の5人のうち1人が原発推進に積極的に賛成、ということになります。
そして、福島は安全、核燃料の処理も何も困る問題はなく、今後も原発を使い続けていって大丈夫だ、などと演説していた人を支持したのは、都民の17人に1人!
これはかなり厳しい状況です。

こういう状況を、自分には関係がないと言ってすませられるならいいけれど、
これから自分が直面しなければならない現実に大きく関わってくるから困るのです。


都知事選の前日に大雪が降って、いろんなものがキャンセルになり、家でオリンピックの開会式を観ました。(全部ではないけれど)
スポーツにはほとんど興味がないのでオリンピックもあまり観ませんが、雪景色に誘われて、夏より冬のオリンピックの方が親しみやすい感じです。

ソチオリンピックの開会式はちょっと見てみようかな、と思いました。
何と言っても開催国はロシア。クラシックバレエの本家です。アトラクションの音楽や踊りがどんなものか楽しみでした。

選手入場はいろんな国の人々が、みんな楽しそうに笑顔でいるのに妙に感心して、
でも、そういう笑顔の人たちに、「原発問題についてどう思いますか」とか質問したら、どんな答えが返ってくるのかな・・?などとつい考えてしまうのが、自分でも情けない・・。

アトラクションは「ロシアの夢」という、ロシアの国の歴史を物語にしたものという説明を聞いて、意外に思いました。国の歴史などというものを物語にして音楽やバレエで表現などできるのだろうか?!(そんなことをよく思いついたものだ)とちょっとびっくり。

さて、演じられた映像と音楽とバレエの世界はとても美しく、ああ、なるほど、こういう風にまとめるのか・・と思いました。
人間の世の、醜いところや悲惨な所はカットして、きれいな部分(悲しい部分もちょっぴり入れて)だけを、大ざっぱに掬い取ってまとめるとこんな風なメルヘンみたいな感じになるんだな〜、と思いました。
ロシアには偉大な芸術家や文豪がたくさんいるので、メルヘンにもある重しがかかって、立派な作品にまとまっていました。


国の歴史や、様々な出来事は、どういう風に捉えるか、によってまったく異なる風景が見えてしまいます。
大変な面というのは、見ないようにするとか、忘れてしまうとかし、良い部分だけを見ていた方が精神衛生的にも良さそうです。

でも、精神的には楽かもしれないけれど、現実というものは消えないわけで、いつどんな形で自分の身に降りかかってくるかわからない。
現に今、災難が降りかかってしまっている人たちのことを放っておいて「景気」のことばかり口にしていていいのか、と思います。

何が「景気」なのか、よくわかりませんが、
生活のレベルをほんの少し下げればすむことも、たくさんあるのではないかと思います。

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都知事選について [社会]

今回の都知事選は、「原発」か「脱原発」かが争点になっている。
都知事選の意義は大きい。

それにしても、福島原発の事故がそのまま放置されて(解決法が見つからないのだろう)いるような状況で、<「原発」か「反原発」か>が、<「景気」か「反原発」か>という言葉に簡単に置き換えられて考えられてしまうようになったのがとても不思議である。
「景気のためには原発も受け入れざるを得ない」という考え方は、つきつめれば「命より金」という発想なのだが、つきつめないで中間当たりにいたい、というのが日本人的な考え方の特徴のような気がする。
「原発はいずれなくす方向で・・、しばらくは原発利用を続けながら一方で自然エネルギーの開発もして・・」という、もっともらしい考え方。

こういう、中間的な立場にいたいという考え方は、当分は自分が安全な場所にいる、という見込みがあるからである。自分が危険な場所に立っていたら、「中間」なんてものはふっとんでしまう。

TV討論会で、福島は危険なことは何もなく、全てが風評である・・と、めちゃくちゃなことを主張している候補者がいたが、こういうことを平然と演説するのが目的で立候補したのだろうな、と思った。

そういう見方をすると、細川・小泉が都知事選で「脱原発」を政策の最優先課題に掲げて声を上げたことは、大きなことだったかもしれない。
真面目に、「福祉」や「貧困問題」と同列に「反原発」を掲げても、それだけでは、今の日本では「原発」に焦点など当たらなかっただろうという気がする。
「脱原発」を訴える人は多ければ多いほどいい。


いよいよ選挙活動が始まって、「脱原発」で候補者統一できないだろうか、と知識人や著名人の運動があって、昨日の毎日新聞の夕刊にもそのニュースが載っていた。

都民ではないけれど、2007年の都知事選のときも、心配で胃が痛くなった。
あのときの都知事選では、現職知事の再選を止めるために、現職知事に対抗する候補者を何とか一本化できないかという話が盛んに行われていた。

候補者を統一する、というのは選挙に勝つためには絶対に必要なことだと思うけれど、そうはならなかった。個人の意思だけで選挙活動が行われるわけではないので、そういう方向になるには選挙のかなり前の段階でなければむずかしいだろう。
だが、「原発を止める」というのは、「国民の命を守る」という根源的な課題だ。
他の点での政策の違いなどと並べようもない問題だ。


統一候補はならなかったが、「原発をすぐに廃止」してほしい私は、何とか「脱(反)原発派」に勝ってほしい。
もし、負けるとしても、「脱原発」を主張する候補者(複数)への投票数が、「原発OK派」の得票票を上回ってほしい、と願っている。


「東京」という世界の大都市の知事選の行方は、日本だけではなく世界においても大きな意味を持つことになるのではないか、と思う。

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雪景色〜2014年1月 [雑感]

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雪景色というのは毎日見ても飽きない。
山では毎日少しずつ雪が降るのでいつもきれいなままの状態が続く。

こういうきれいな景色を毎日眺めていたら、人の精神にも何かしら影響があるのではないかと思ったりする。
寒さの厳しさは、雪の中だとさほど気にならない。
晴れていると、目にしみるような青空、真っ白な雪、黒々とした冬の木々、というものに囲まれ、うきうきしてくる。

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夕方には、夕陽が青と白と黒の世界をピンクやオレンジ色に染めて、もったいないような色合いになる。

そういう日の夜は、満天の星。
何分間、寒さをがまんできるかな、と思いながら、びりびりした空気の中で空を見上げる。
視界はところどころ林の木々に遮られるが、ほんの少し歩き回ると、地平線上のほとんどの星を見ることができる。

気温は、というとマイナス13度位・・たいしたことないな、と思う。
むしろ、この星空をマイナス13度で見られるなんて贅沢な気がする。

寒い場所での生活は、雪景色や星空を思う存分楽しめるということだ。
長野県は長寿だというけれど、きれいなものを日常見ているというのは大きなことではないか、という気がする。

やっかいなのは雪だけれど、
主要道路は除雪車がきれいにしてくれる。
大雪のときなど、明け方の3時すぎには、除雪車のゴーッという音が聞こえ出す。
たいていの家は小さな除雪機で自分の家回りの雪かきをしている。

ずっとそこで暮らしていれば毎日雪かきはできるけれど、2週間とか、3週間とか、間があいてしまうと、雪かきも大変な作業になる。
雪かきというのは激しい運動で、5分でハアハア言い始め10分で汗びっしょりになり、15分で、腰やら腕が痛くなり、顔をあげると、「まだこれっぽっち?」とガッカリするのである。

家にスムーズに出入りできるくらいの細い歩き道と駐車スペースをつくり終えると、もうグッタリしてしまう。
暖房を付けてもすぐには室温はあがらないけれど、雪かきのおかげで身体はほかほか。
そのうちにだんだん家が暖まってくる。
家が暖まると、屋根の雪がなだれ落ちてそれがまた山のようになる。
また雪かきである。

このくり返し。
日頃の運動不足が一気に解消してしまう。そう思えば雪かきも楽しくできる。
でも、健康でないとむずかしい・・

昔の人はじっと雪にうもれて春を待っていたのだろうか。
山に住む動物はみなとても元気そうだし、何と言ってもどんな動物も単独で行動している所がすごい。カラ類などの野鳥は混群をつくるが、別に協力し合って、という風でもない。
こんな寒いところで、その身のままで生きられるというのに感心してしまう。

年始めには、イノシシ(そんなに大きくなかったから多分、子供だろう)に出会った。
車の前にトコトコ出てきて、そのまま一生懸命、車の前を走って行った。イノシシを見たのは初めてだったけど可愛かった。

動物に会うのは何やら啓示的な気がしてしまうから不思議である。
今年もたくさん、野生動物を見ることができますように。

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言葉の価値の変化 [雑感]

安倍首相が靖国参拝というニュースがくり返しくり返し流れていた。
日中、日韓の関係悪化への懸念もさかんに報道される。
またか、という思い。

こういう報道を聞いても何も感じなくなってきた。
この人は靖国参拝をしたい人なのだからそれはどうにもならないことだ。
それにたいして中国や韓国が反発してもそれもどうにもならない。

安倍内閣を支持する人が5割もいるのだから、安倍首相の行動が間違っているだの何のいっても始まらない。
中国や韓国との関係悪化を心配する人もいるが、中国や韓国は嫌いだという人もたくさんいて、そう思う人たちをどうすることもできない。

政治家の顔をニュースで見るとうんざりするので、なるべくテレビを見ないようにしているが、悪い政治家(私から見て)がいるのは仕方がないことだと思うようになってきた。
一人の政治家が問題なのではなく、そういう政治家を支持する人たちが問題なのだと思うから。


この年は、これまでで一番ニュースやら世の中の流行やらを見ないようにしたが、そのせいで、いつもかなり時代に取り残されている感じがする。
まるで浦島太郎になったような・・。

今年の流行語候補30だか50だかを新聞で見たときも、知らない言葉がたくさんあり、聞いたことはあってもこれは流行語じゃないだろう?と思う言葉ばかり。
何が流行っているのか、それはどこで流行っているのか・・ほとんどわからないので、さすがに一瞬、これではまずいかな、と思ったほどだった。

でも実際のところ、こんな流行語(どれもすごく下品・・使いたくないです)を知らなくても、どうということはないのだ。
世間で何が流行っているか知らなくても、世の中が危ない方向へ向かっていることは感じる。

そしてまた、こういうばかげた言葉が流行っているのが世間だとしたら、世間というのは何と幼稚になってしまったのだろう・・と、そっちの方が気になる。
テレビの影響が大きいのだろうか、それとも雑誌だろうか・?


新聞を読むかぎり、ある流行を作り出すこととは無関係に見える。
ただし、「これが今年の流行語だ」と新聞に載せたりするから信用できない。
そういうものにすり寄って紙面に載せないと、部数が伸びない?
以前、AKBとかの国民投票なんて記事を<天下>の毎日新聞が扱っていたのに仰天した。なんかAKBを知っていることが当たり前という前提だった。
知らない人は人並みじゃないみたいな・・。

世の中、AKBニュースや流行語に対して、積極的に、またはすんなりと受け入れる人たちと、そういうものにまったく疎くてくだらないな〜と思うタイプの人たちと、興味はないけれど特に反発心も持たないでふ〜んと通りすぎてしまう人たち・・と3つのタイプがあるようだ。

そういえば、政治界のことでも芸能界のことでも、わりと下世話な裏話をけっこう知っている知人がいて、不思議に思ってその知識の出所を聞いたら、電車の中につり下がっている雑誌の広告だということだった。
私なんか、どぎつい見出しが目に入ったらもう見ないようにしてしまう方だけれど、そういうものを見ていると今何が話題になっているかが一応わかるらしい。
雑誌というのはけっこう影響力を持つもののようだ。

中国や韓国のことを悪く言う人がいて、「一体、そういう話(他国の悪い噂みたいなもの)をどこで仕入れてくるのか」と聞いたら、雑誌の知識だった。
一つの雑誌を鵜呑みにしないほうがいいよ、と言ったけれど、どっぷりはまっている感じだった。


私に言わせれば、今世間で何が話題になっているか、なんてどうでもいいことに思えるので、たまに、そういうことにくわしい人に聞いてすませている。
だから数ヶ月おくれの情報だったりする。

でも、今の時代は、現在ある情報が、次の別の情報にすぐに取って代わられてしまうので、情報というほどの意味もなくなってしまったようだ。

安倍首相靖国参拝のニュースがくり返し報道され、そしてこの人の口から出る「二度と戦争の惨禍があってはならない」とうもっともらしい言葉も同時に何度も流された。
平和を考えてくれている人なのか、と勘違いする人だっているだろう。


「本音と建て前」という言葉があるけれど、今の政治界はそんなものとっくに通り越して、もう「ウソと本当」の時代になっていて、いくらでもウソをついてもいいことになっているかに見える。
何を言っても許されてしまうのだから。
居直って「そういう意味ではありません」と言えばそれで終了。

もう言葉の価値が変容してしまったのだ。
逆に言うと、いくら大事なことを伝えようとしてもそれは伝わらない、ということにもなる。
言葉がフワフワしていては、その言葉を用いて何かを伝えたり議論したりということは、ほとんど不可能のように思えてくる。

情報過多と、言葉の意味がどんどん薄まっていること・・これが、とても危険なことだという気がしてならない。

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2013年の12月 [社会]

2013年も終わりつつある。
ここのところ12月がわびしい。
すべての人が心安らかに暮らしているわけではないのに、ボーナスだ、クリスマスだ、正月だ、と上っ面の華やかさを押しつけられるので、12月はわびしさが際だってしまう。


思えば7年前(2006年)の12月に、「教育基本法」が改定されてしまったのだった。
寒い中、国会周辺は連日大きなデモがあって、全国から集まった人々が懸命に改訂反対を訴えたが、強行採決された。
このときも安倍政権。

安倍政権が倒れ自民党政権が倒れ、やっと民主党という新政権が誕生したと思っていたが・・。
昨年12月6日に衆議院選挙で自民党が圧勝。
わずか3年足らずでまた自公政権にもどり、あろうことかまた安倍内閣になってしまった。きな臭い動きが強まった気がしていた。

そして今年の12月。
イヤな予想通り「特定秘密保護法」が成立してしまった。

安倍政権は、教育基本法を改悪したくらいだから、多数の後押しがあれば、この際やれることはどんなことでもやるだろうとは思っていた。
昨年12月の絶望感は、この予感だったのだからおどろきはない。

それにしても、安倍政権というのは何を目標にこういうことをやろうとしているのだろうか。政治家の考えていることというのが、私には突拍子もないもののように感じる。

国民が主人公であり、「政治には透明さが必要」ということが国民の声としてますます大きくなりつつあるこの時代に、「秘密保護法」などというものは、明らかに時代の流れに逆行するものだと、誰もが思うのではないだろうか。

教育基本法改定の時と状況がよく似ている。
国民からの要請もないのに、法を変える、法を作る。
法案を成立させるために、民主主義国として守るべきルールを平然と無視する。
教育基本法のときは「やらせミーティング」が大きな問題となった。

今回の秘密保護法でも、形ばかりの「公聴会」が問題となった。

さいたま市大宮区での公聴会は、前日になって突然開催が決まり、前日の午後10時に何の突然の前触れもなく意見陳述人に決まったという弁護士さんの話が新聞に載っていた。
傍聴席は、政党に割り当てられた傍聴券がないと入れず。
用意された50席も30席しか埋まらず、会場周辺にか大勢に市民が集まって法案に反対する声を上げていた。70代の女性が、午前の国会中継で公聴会開催を知り、県庁や参院に電話をして議員の事務所の連絡先を調べ、ようやく開催場所がわかったものの、会場に入ろうとすると「何党ですか」「党の紹介がない人は入れません」と言われたという。(毎日新聞)

これだけのシャットアウトぶりを聞いただけで、これは、よほど悪いことを決めようとしているのだ、という印象を持つ。
国会での、与党のめちゃくちゃな強引さは本当にあきれるほどひどいものだった。

民主主義という言葉には、国民一人一人が国権の主体であるという意味だと思うが、主体であるということは尊重されるという意味も付随しているものだ。
尊重どころか最低限の礼儀もなし、というのはどう考えても、民主主義国家とは言えないのではないだろうか。

なぜこの法案なのか、ということが一般国民には伝わらない。
わからないけれども、特に自分に被害がすぐに及ぶというものでもなさそう、政府が必要と思っているのだから、それなりに何かしらのメリットがあるのだろう、ぐらいで、深く考えずに受け入れていく人がほとんどなのではないだろうか。
一部の良心的な人たちが、いくらその「危険性」を訴えても、政府は平気でそんな声は無視できる。なんといってもこの政府を支持しているのがわりと多くの国民なので・・。手慣れたものである。


教育基本法が変えられてもう7年になるが、はたして教育内容に変化があったのだろうか。
仰々しく言葉を連ねた新教育基本法になっても、抽象的な言葉での変化なので、現場ではたいした違いはないだろう。(幸いなことに?)
ただし、数10年後にどうかといえば、それはわからない。

この間ある本で、ほんの40年前はまだ、パーソナルコンピューターという概念がほとんどなかった・・という文を読んだが、なるほどそういえばそうだった。
それを考えると、30年、40年という歳月は、何かを劇的に変えるのに十分な長さなのである。
私たちには30年後の社会を十分に予測することは難しいのである。
だから、近い将来、今の比較的平和に見える社会が根本的に崩れてしまう、ということも十分可能性があるということになる。

その第一歩になるのが、教育基本法改定であったり、特定秘密保護法案であったり・・ということはあり得るだろう。

目に見える危険性に対しては、人は十分に警戒心を持つことができる。
ところが、30年先に起こるかも知れない不測の事態に対しては、警戒心を持つことは難しい。そういうことを考えながら今を生きることは難しい。

戦後ずっと人の暮らしは、豊かに、そして便利になってきたので、「世の中というものは時が経てば経つほど自然に良くなっていくものだ」という漠然とした期待を人々は持っている。その楽観性が覆されるときは来るかも知れない。

実際、福島ではそういう楽観性は覆されたのだが、ある地域のこととしてほうむられていきそうな気配がある。沖縄がそうであるように。

多数は少数を踏みつけにして平気でいられるのだ、という政治のあり方や世相に、より寒さを感じてしまう12月である。

<覚え書きとして(毎日新聞より)>

『特定秘密保護法の重大な欠陥』

1,恣意的で膨大な秘密指定
2,チェック機能の不全
3,情報公開は政府任せ
4,国会の権利を行政が制限
5,国民の「知る権利」を阻害

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山の動物たち [環境・自然]

まだ秋ですが・・、
長野市の天気予報ではもう雪マークが。

山の中にいる、回りの環境に異変がないかどうか、とても気になる。
鳥は元気か、川のイワナは元気か?といつも気になってしまう。
いろんなことのバロメーターになる。
山の中では鳥(ゴジュウカラ、シジュウカラ、ヤマガラ、コガラ、ヒガラなど)、リスやイワナがけっこう親しい友人みたいに思えるので、気にかけるのが習慣になっている。

10月下旬に、そろそろ冬支度をしなきゃと思い、まず巣箱をはずした。
巣箱は3年も使っているのでさすがに傷みが目立ってきている。

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巣箱の一つに枯れ葉がこんもり入っていた。多分ヤマネ君が入ったのだろう。
この巣箱は屋根がひび割れていたので修理しないと。
直して使うか、新築にするか、ちょっと迷う。鳥も新しい方が好きなんじゃないかなぁ、と思ったりもする。

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この巣箱には卵が残っていた。

この巣箱のある場所は何がいけないのか、毎年不運続きだ。
一昨年は蛇が入ってしまった。
去年は追い払っても追い払っても猫が巣箱によじ登っていて、親鳥の姿を見かけなくなったので心配になり巣箱をのぞいてみたら、巣の中で親鳥が死んでいて、9個の卵が残っていた。
今年も猫に襲われたのだろうか。それとも巣箱を放棄したのだろうか。

木の回りに蛇よけを巻いたり、根元に猫よけの臭い薬を置いたりしたけれど、あの臭いを鳥がきらいだったら元も子もない。かなり強烈な臭いだから。

巣箱はどれもフンワリずしりと苔がきれいに敷き詰められていて、動物の茶色っぽい毛が敷いてある巣もある。あんなに苔を集めるのは大変だろう、と思うがいつの間にか巣作りをしているのがすごい。

去年、巣箱を冬の間もつけっぱなしにしておいたら、一つの巣箱の巣穴が大きくなっていた。どうもヤマゲラらしい。冬のねぐらにすることがあるそうだ。今年の春にカラ類用の穴の大きさに直しておいたが、冬も巣箱は利用されているみたいだ。


イワナは今年は小さいのが多かった。
小イワナがたくさんいるということはちゃんと産卵して無事に育っているということだから、それはそれでいいのだけれど、大イワナを見かけないのは淋しい。
釣られてしまったかと気にもなる。

秋になって川辺の草が枯れ始め見通しが良くなったので、ちょっと川沿いを歩いてイワナ探索をしたら、いつもいた場所から80mくらい上の淵にちゃんといた。
夏の間は草木が生い茂っているため、熊が怖くてあまり歩き回れなかった。

去年、長野市ではプラットホームにクマがいたとか、町中に出たとかのニュースが多かった。私も散歩中にすぐ近くの茂みでガオーッ、と吠え声を聞いて青くなったけれど。。。
今年はあまり熊についてのニュースは話題にのぼらなかった。

ところが私自身は8月に2回も間近でクマに出くわしてしまった。(幸い車の中だったけれど)
5mくらいしか離れていない所を横切っていた。一回目はピョンピョン、うさぎみたいに走っていて、一瞬「可愛い」と思ってしまった。黒くて丸々とした大きな頭、ぬいぐるみのようだった。
二回目もやはり5mくらいの近さで、このときはのんびり車の前を歩いて横切った。

近所の人は誰もクマを見たことはなく、私だけどうして2回も?と思う。
ともかく家の回りはクマが普通にいる場所だということがわかった。歩くときは見通しの悪い場所には近づかないようにした。
クマも人間は怖いはずで、いきなり鉢合わせするとパニックになり人を襲うこともあるのだろう。

それにしても二度目に見たときは車が近づいてものんびり歩いていて、クマも、こういう環境に慣れている、という風だった。
近所の人にクマのことを伝えたが、みんな「そうですか〜。やっぱりいるんですね。」とか「もともとクマが先に住んでいた場所だからね〜」と、いたって気楽な受け答えなのである。
<ちょっとちょっと、貴方の家の庭(というか畑)に入っていったんですよ〜!>

冬になればクマの心配はしなくてもいい、と一応思っている。ただし、何事も「絶対」はないので。

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秋の味覚 [雑感]

IMGP4283.jpg10月24日頃

夏の暑さや冬の寒さの厳しさなんてたいした問題じゃないな〜、と思わせるようなひどい世相。
「正義」という言葉がとっくにどこかに飛んで行ってしまい、悪いのが当たり前、悪いことを受け入れるのが大人の選択、というのが今の風潮で、「正しいこと」を見つけることはストップしてしまったような感じ。

そんなんで、秋の素晴らしさも心ゆくまで味わわずに通り過ぎてしまいそう。
それでも身の回りに目を向ければやはり秋はいい。

今年は10月に台風が多く、山の天気も安定しない感じで、たまの晴天はとても美しく感じられた。
台風による災害が日本各地を襲ったけれど、北信濃のこの辺りは平年より雨が少なく、川の水も少なく、きのこ類は不作だったらしい。

山栗もキノコも10月の中旬が旬で、20日すぎるともう遅すぎる。
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山栗が拾われずにたくさん落ちていてもったいなかった。試しにゆでてみたら、まだ美味しいのもあったが、半分くらいはもうだめだった。
栗の本場の小布施の人に聞いたら、今年は豊作だったらしい。


この秋は葡萄をたくさん食べた。今まであまり食べなくて損だったな〜という気がする。
巨峰は値段は高く大味、というイメージがあり、これまであまり食べなかったが、今年は美味しいと思った。
子供の頃は何と言ってもデラウエァが一番で、紫色やうす緑色の葡萄は見た目はきれいだけれど、味はサッパリだった。
今年は紫色の葡萄は美味しかった。特にスチューベンという種がとても甘くて気に入ってよく食べた。しかも山の直売所で買うと安い。

IMGP4270.jpgスチューベン

食べ物は、美味しくて安いことが大事で、安いと美味しさもよけい増すものだと思う。
というより、安くなければ美味しいと言われても私は買わないから。
同じ物が、都会のスーパーで倍くらいの値段売られていると、食べたくても買う気にならない。

リンゴなんかは長野にいるとどこに行ってもおすそわけでもらうので、珍しくもなく、食べようとも思わなくなっている。
たまに食べると、やはりリンゴの美味しいのにおどろくのだけれど。
どんどんいろんな品種ができているけれど、新しいものを食べてみるというのが面倒だ。もとから好きだった紅玉は自分で買ったりする。
一昨年あたりに、おすそわけでもらったシナノゴールドというのがとても美味しく、それも買うようになった。

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シナノゴールド(左)とシナノドルチェ(右)

昔、黄色いインドリンゴというのがあったけれど、とてもリンゴの味とは思えなかった。青リンゴと呼ばれていた夏の盛りに出回るリンゴもあった。小さくてすっぱくて固くて、夏のプールの行き帰りに歩きながら食べるのにちょうど良かった。
シナノゴールドは少し緑がかった黄色で、甘さと酸っぱさと身の堅さが理想的。シナノドルチェも同様に美味しい。リンゴの味もずいぶんと洗練されたものだ。こういうのは日本だけじゃないか?と思う。

リンゴは美味しいのにあまり食べないのは、一人で一個は大きすぎるから。
4分の1くらいで十分なので、あとは取って置かないとならない。
その点、柿はちょうどいい大きさで、出かけるときに持ち歩ける。ちょっとのどが渇いたり甘い物がほしくなったとに、丸かじりできる。
丸かじりしていたら、関東のある地域で、すごく珍しがられ、4,5人に「丸ごと食べるの?」と聞かれ、私の方がびっくりしてしまった。
「どこから採ってきたの?」なんて聞く若い人もいて、もしかして八百屋さんに柿が並んでいるのに気付かない?

果物は食べる習慣がないと食べずじまいだ。特に若い人はあまり食べない。
理由を考えてみると、果物を食べるには時間がかかるからじゃないか、と思う。
いつ食べたらいいか、なかなかいい時間が見つからない。
食後はお腹がいっぱいなのでそうは食べられないし。
おやつの時間なんていう優雅な時間を持てるのは小さな子供とお年寄りだけだ。
栗だの、ぶどうだの、リンゴだの、洗わなきゃならないし、皮をむいたりするのに時間がかかるし、咬むのにさえ時間がかかる。
食べることにも不真面目になってきている昨今なのだな〜、と感じる。



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忘れてはいけないこと [社会]

麻生副総理の「ナチスの手口に学べ」発言を知り、新聞が届かない場所にいたので、わざわざ8月1日の新聞を買いに行った。信濃毎日新聞だったが「斜面」には書いてあったけれどニュースとしては出ていない。
31日の毎日新聞には出ていなかった。では翌日だろうかと思ったが買い忘れた。
気になって、テレビでNHKのニュースをずっと追っていたが、何にも報道していない。民放では大きく取り上げていたけれど。1日の夜になってNHKでもやっとニュース報道されていた。メディアは報道を控えたのだろうか?

確かに聞いて困ってしまうような発言だ。
誰かが非常にまずい発言をしたとき、聞いた人は腹を立てるし、「それは問題発言である」と批判する。ところが、非常に非常にまずい発言(口にするのもはばかれるような発言)に出会うと、かえって言葉が出てこない。
誰から見ても非常識だとわかる問題については身内が責任を取らせるのが一番だ。(それとも身内はみな同じ姿勢?)身内がそしらぬ顔をしていたら、まわりが批判追求しなければならなくなり、それは大きな時間の浪費だ。
批判し合うことで何かが生まれてくるような場合なら、批判も役目を持っていると言えるが、「ナチスに学べ」では、どうにもならない・・。


民主党政権のとき、福島を「死の街だ」と言って辞めさせらた大臣がいた。悲惨な状況を伝えるのに「死の街だ」という表現はもっともわかりやすいと思うが、福島の人々を傷つけたという見方をされたのだろう。
「死の街だ」という言葉は福島を傷つけるのだろうか?と思う。
真実をオブラートでつつんで受け止めやすくしていたら、本当の復興はいつまでも進まないにちがいない。真実を述べるのに住民への配慮に欠けていた(と思われた)発言と、今回のような悪質発言と、どちらがひどいのか?


何かあまりにも大変な事が起きると、なんとなく批判を手控える力が働くような気がする。悪いとわかっているものをわざわざ「悪い」と批判すると、批判する方が攻撃されることがある。(正義をふりかざす人間はなぜか嫌われることが多い。)

福島原発事故が発生したとき、こんなときに原発を批判するのは・・というような雰囲気があったように記憶している。まだ批判のときではない、ある程度事故が収束してからだ、という考え方もあっただろう。
実際に、切羽詰まった状況の中にいて、「やはりそれは間違っていた」という主張を持ち出すのは時期として不適当かもしれない。何といってもその事故への対処が緊急になる。
かといって、何も言わずに見守っている、というのも間違っていると思う。
物事は刻々と変化していくし、人の考えが変化の方向を誘導していくのだから。
誰もが礼儀正しく(?)客観的な立場に立とうとして、何も言わなかったら、とんでもないことになるのではないか。

もし、近い将来に第二の福島事故が起きてしまったら、人はどうすべきなのだろうか。「やはり原発は永久排除すべきだった。すぐにそうしよう」ということは、しばらく言わないでいるのだろうか。
「いつまでも嘆いても仕方がない、過去は忘れて、前向きに進もう」という考え方がある。そういう考えのもと「原発事故は不運だった、これからはもっと安全に原発事業を進めよう」という風に原発は受け入れられていく。
いつまでも嘆くことは良くないのだろうか?
私には、ちゃんと嘆かないから、同じようなことが繰り返されるのだと思える。

戦争のことも、まだ嘆き足りなかったのか、という気がするほどだ。
今現在、「紛争が起きたら武力解決もやむを得ない」と思っている人達は、戦争というのが一日や二日で終わるものではなく、何年もあるいは何十年も生き地獄のような生活が続くことになるかもしれないということを考えていないのではないか。

そういう苦しみに思いをよせられない政治家が多い。麻生副総理の「ナチス発言」をテレビで見たら、そのときの聴衆がみな笑っていてぎょっとした。
あの発言をジョークとしてとらえる下地があればこその発言だろう。
あの演説は支離滅裂な感じがあるが、ナチスの手口を学んだらどうか、という一言は「そういう意味」しかない。

ところで、発言というのはいつから簡単に撤回できるようになったのだろう。
発言は撤回はできないのだ。命令は撤回することはある。その命令に不服従を示す人が多ければそういうことはある。また、勘違いや誤解を正す、ということもある。
しかし、その人が普段から思って口にした言葉を撤回はできない。
政治家が公の場でした発言が、謝罪だけではすまないのは、国を代表する立場にあるからだ。国を代表しているからこそ政治に関わることもできる。
代表者としてふさわしくない政治家は、辞めてもらうしかないのである。
静かに、これ以上「日本の名誉」(あえてこう表現するが)を汚さないように退場してもらいたい。


原爆症認定について、政府が積極的に認定を進める方針を表明する方向で調整している、とのニュースがあった。
爆心地から3.5キロ以内での被爆者や原爆投下から100時間以内に2キロ以内に入った入市被爆者のうち、がんや白血病になった場合は全員救済、入市被爆者について甲状腺機能低下症などの疾病も積極的に認定、など。
当たり前のことばかり。それなのにすでに戦後68年にもなってやっとである。
「苦しみは一生続く」という原爆被災者の言葉は、遠い昔の話ではなく、現実そのものなのである。
 
戦争が終わって68年も経つのに、今でも戦争の被害から救われずに置き去りにされている人々がいる、戦争とはそれほど酷い影響を人間社会に及ぼすものだ、ということを忘れてはならないと思う。
それを忘れるから、また新たな過ちを簡単に犯すようになる。
「ナチスの手口の学べ」など、血迷ったことを軽々しく言い放ち、それを回りで聞いた政治家たちが笑っている、などということが起きる。

どんなに悲惨な出来事でも、当事者でないかぎり、長い時間がたてばたつほど、忘れていくから、よくよく気をつける必要がある。
過去の悲惨な出来事は忘れてはいけないのだ。特に国の政治に携わる人間は、過去を忘れることは許されないと思う。

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参院選が終わって [雑感]

(ちょっと古い話題ですが)昨年12月にアイフォンに変えたら、パソコンの前に座ることがめっきり減ってしまいました。

携帯電話を買うのも人より遅かったし、持っていても身内以外には番号を教えなかったし、そのうち友人に「緊急のとき以外に電話しないでね」と念押しして番号を教え・・とどんどん進んできて、いまでは、メールが簡単にやりとりできる便利さにどっぷり浸かっています・・。

携帯メールを始めた頃のある日、妹や姪と外に食事に出かけ、料理を待つ間にちょっと用事のメールを送っていたら、他のみんなも携帯を出していっせいにメール(?)をしている・・長いな〜、何をそんなに書くことがあるのかな〜?と思っていたら、メールではなくゲームだと聞いて絶句・・。
思わず「それは、すご〜い時間の無駄遣いだね〜!」と言うと、みなちょっとビックリした顔をしていた・・。

物を調べるのにインターネットというのは大変便利で、こういうものが無かった時代というのをもう忘れかかっています。
ネットショッピングなんて怪しいものはとんでもない、と思っていましたが・・けっこう買いました。

アイフォンは、そのパソコンと携帯電話が一緒になっているので、もうパソコンはいらなくなってしまいました。

天気や路線を調べるとき、知らない言葉にぶつかったとき、コンサート情報を調べたいとき、持ち歩いていつでも調べられるというのは本当に便利で、おまけに、読書もできてしまう、音楽も聴ける・・という具合に何でもできてしまうので、これさえあれば、という感じ。(なかったときの事はすでに忘れかかっているのが怖い)

携帯電話を購入した頃、ある人が「落としたり無くしたりしていま一番困るのは財布ではなく携帯電話だ」と言うのを聞いて、不審に感じました。携帯が一番大事というのは一体どういう人か?・・電話やメールのやり取りが異常に多い人なんだろうか?・・と、なんだか自分とは違う人間、という気がしていました。

それが今では私自身、見事変わってしまって・・・。
人間なんて全くあきっぽく変わりやすいものだと、身を以て感じています。

そういうわけでパソコンに向かわないからブログも更新回数がどんどん減っています。

(今日は参院選の感想をごく短く)

選挙が終わってせいせいしている。
わかりきった結果だったため、失望感は衆院選のときよりは少なかった。
何よりも野党内部のゴタゴタやもたつき、やたらに行われていた世論調査の報道が、ぐんと少なくなったのですっきりした。

自民党が十分に勝ったので、今後は自民党がどういう政治をしていくのかだけを、じっくり見ていけばいい。おかしな事を始めたら、野党をあてにせず、国民が直接に抗議の声をあげていけばいい。

と、私が言ったら、そんなにうまく行くかな、おかしな方向に進んで行くスピードが速かったら・・?と、心配する人がいたけれど、そうなったらそうなったで仕方ない。
長らく続いてきた自民党政権が築いた世の中のいろんな深刻なほころびを、どう繕っていくのか、そもそも繕うことができるのか、を見ていくしかない。

福島復興はちゃんと進められるのか。
原発はどうするのか。
沖縄基地問題はどうするのか。
平和をどう守っていくのか。
国民みんなが安心して生活できる社会を作っていけるのか。

この5つが私の最大の関心事です。
ねじれ解消した与党は、大きな責任を持つことになりますね。

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競争社会 [雑感]

内田樹の「街場の教育論」という本に、学力について、競争は集団の学力を高めることには決してならない、ということが書かれていて、まったくその通りだと思った。
その中に、塾に通って学校の授業内容を先に学んでしまった子供は、他の子供が学ぼうとするとき、大声で話したり動き回ったりして、他の子供がちゃんと学習できないようにじゃまをする。それは、学習内容がわかっているために授業にたいくつしているからではなく、無意識のうちに他の子供の学力をつけさせまいとしているのだ、とあった。

それはどうなのかな、無意識にしてもそんなことまであるだろうか、と思ったが、こういう不平等な競争社会の中に生きているのだから、無意識の力が働いて他人の足をひっぱる、ということは十分にありそうなことだ。

塾に通うということは、人よりも良い成績を取りたいためである。親がわが子に集団の上位にいてほしいと望むからだ。あるいは、上位ではなくてもせめて人並みに授業についていってほしい、という気持ちもあるだろう。
学校での成績にこだわるのは、将来、世の中の格差の少しでも上の部分にいるようにしたいためだ。

自分が上に登るためには人を蹴落とす。それは無意識に行われる。
この残念な現実は、自然界で生物が生きのびるために環境に適応していくことと同じことかもしれない。

人の場合は「自然界」ではなく、自分たちが作っている「社会」という界の中で適者生存が行われるわけだ。
私たちにとっては、「日本という社会」の中で。

技術の発達のおかげで、ずいぶん人の生活が豊かになり寿命もどんどんのびている。これほど便利な世の中になるなんて、私の子供時代でさえ想像もしていなかった。
では、「社会全体の幸福」という観点から考えたらどうなのだろう。

格差社会という言葉が使われるようになってかなりになるが(15年くらい?)、生活苦にあえぐ人の数はいっこうに減っていないし、格差はますます拡大し労働する環境も劣悪になっているようだ。
むしろ、この社会では、格差があるからこそ上位集団の豊かさが保たれている、と言えるのではないか。

資本主義、自由主義、の社会では、富を得ることが適者生存となる。
人はみな少しでも多くの富を得るように努力するし、つまりは、それは他人の富を奪うことに努力する、ということになってしまう。
「みんなで豊かに」というのは競争社会ではあり得ない目標となる。

この行き過ぎた「競争社会」を変えることは可能だろうか。
社会の仕組みを変えるには、政治しかないのだが、今行われている政治すら、何が行われているのかはっきりしないことだらけである。

なぜあの人は間違ったことを言ったわけではないのに世間の批判を浴びたのか?
どうしてこの人は「裏切り者」呼ばわりをされているのか?
もともとの悪者の方がよかったというのか?
なぜあっちの党よりこっちの党が支持されたのだろう?
なぜまた原発再稼働という方向が出てくるのか・・などなど。


新聞を読んでもテレビの報道ニュースを見ても、わからないことが多い。
明らかに正義に反すると思うようなことが平然と進められたり、それに賛成する人が多いようであったり。
不平等や差別は100万語を費やしても変わらず・・という状態が続くと、もう世間の動きというものにウンザリになってしまう。
ウンザリしてしばらく報道から遠ざかっていると、ますます世の中で何が起きているのか、分からなくなってくる。ニュースで使われるいろいろな短縮語も何のことか理解できない状態になってしまう。


理解できないことだらけになったら選挙にだって行く気は起きない。
何が正しいか正しくないかが、曖昧な社会では、人に語りかけても無駄な気がする。
こういう感じを持つということは、「経済至上主義であるこの日本社会」の、下の方にいるということだな、と思う。

政治や選挙などに対して、半数の人が感じる、「選挙なんかに行ってもしょうがない」「政治家なんてみんないいかげんなことばかり言っている」という、ウンザリな気持ち(私自身そうなのだが)は、今の政治がよく理解できないからなのだ。
なぜよく理解できないのか。
それは競争者として上位を勝ち得て社会の実権を握った者が、下から這い上がろうとする者を、蹴落とそうとしているからなのではないか。

社会のことをよ〜くわかっている上位集団は、社会の仕組みを、他の人間によくわからなくさせ、現状維持でよいと思わせるように、何らかの力を発揮しているのではないか。
「政治には期待できない」という失望感も、「やはり景気が一番大事」という無責任で情けない雰囲気も、気がつかないうちに、誰かに巧妙に押しつけられたものなのではないかという気がしている。


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「憲法改正問題」について [社会]

参院選が間近になってしまい、その結果どうなるのかを考えて、今から嫌な気分になっている。
原発が自民党によってどんどん力で押し進められていく今の状況を見れば、参院選の結果で自民圧勝となった場合、一体どんな世の中になってしまうのだろうと思う。

教育基本法改定のときは、まだ「憲法」があると思っていたが、その「憲法」が変えられてしまうとなれば、もう手の打ちようがない感じがする。

日本が世界に誇れるのは、経済活動ではなく、「平和憲法」のおかげでこれまで軍事活動というものをしてこなかった事ではないかと思う。
国際的に見ても治安の良さは優れている方だと思うが、これも「平和憲法」が持つ力の一つ(側面)のおかげではないか。
「平和ボケ」という言葉がある。あまりに「平和」が当たり前で「平和のありがたみを忘れてしまう」という意味だろうと思うが、「平和に慣れすぎて、今迫り来る脅威に無頓着すぎる」という意味に使う人がいる。
こういう人には「平和ボケで何が悪い」と言いたくなる。迫り来る脅威を武力をで制するというのは、時代逆行もはなはだしい。

暴力はいけない、もめ事を暴力で解決してはならない、という感覚は多くの日本人がごく自然に持っている感覚だと思う。
そこら辺にゴミは捨ててはいけない、と言う感覚と同じようなものだ。
(もちろん、そういう感覚を持っていない人だっているけれど)
そういう気質は「平和憲法」によって根付いてきたのだと思う。
戦前は、暴力も大儀のためにはやむを得ず、人の命も国家のためなら喜んで投げ出すのが正しいとされてきた。それが日本人だと言われていた。

「平和憲法」は戦後、私たち日本人の血となり肉になってきたのだ。
そうして、こういう私たちは、一人一人尊重されるべき存在であり、自由に物を考え、自由に表現、発言し、自由に生きる権利を持っている。
自由と言っても、「平和憲法」があるから、他人への暴力は許されない。
社会の仕組みは、人に命令されるのではなく、こういう私たちが主体となって変えていくものなのある。社会の仕組みは、いっときの与党政府がどさくさまぎれに変えていいものではない、ということだ。

「平和主義」「基本的人権の尊重」「主権在民」

この3本柱を持つ日本国憲法はとても良くできている。
一部の人間が(最近はかなり多くの人?)金儲けだけに走っても、この憲法がある限り、まだ希望は持てる。

さて憲法が改正されてしまったら?

自民党や維新の会は、憲法を変えやすくするために「憲法第96条改正」を唱える。
「平和主義」を変えて軍事活動をできるようにしたい、「人権尊重」より、国家を優先するようにしたい、主権は国民にあると見せかけ、さっさと政治家主導でいろんなことをしたい・・。
ただし・・と憲法改正をめざす政治家は言う。

国民の意向は大事だから、厳格さも必要で国民投票のハードルは高くすべきだ、と。だったら96条をそのままにしておいて何が問題なのか。

つまりは、いったん憲法を変えてしまえば、その後はどうにでもなる、と思っているのが見え見えの発言なのである。急にあれもこれも変えると批判されるから、少しずつ、いずれ10年くらいのうちには変えられると思っている。
TPPもそう。一応これは例外にするからと言って始めてしまえば、頃合いを見て他の部分を変えることはいくらでもできる。

今までもすべてそうだった。
安全ですよ、と言って安全ではなかった。でも、失敗しても時が経てばみんな忘れていく。
君が代は強制はしませんよ、と言って、強制が始まった。いくらそんなはずではなかった、と言ってもどうにもならないのである。
世間をあざむくのも政治だと思っているにちがいない。

自民党が衆参院で圧倒的多数を占めるということは、これまでかろうじて残っていた「良き日本」(という言葉で表されるようなもの)がなし崩しになくなっていく、ということだと思う。

原発事故という大事故の処理も進まないうち(進められないのだが)、反省もきちんとせず、アベノミクスというおかしな言葉をさも大事そうに持ち上げ、憲法9条も捨て、基本的人権もけずっていっていいよ、というのが世論とはとても信じがたい。
きっと何かの間違いでしょう。



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山の6月 [環境・自然]

IMGP3591.JPG6月中旬

5月始めは足元の茂みもまだ枯れたままで、見通しがよく何処でも歩けた。
回りの木々もほとんどが枝ばかりで、中にほんの少し若葉をつけ始めた木々がが混じっているだけだったが、5月末には、どの木もにぎやかに若葉でかざられ、そこらじゅうが柔らかい緑一色に包まれる。

6月中旬(2週間ぶり)に行ってみたら、あっという間の夏の顔。
茂みは行く手をはばむほどあちこちに伸び盛り、頭上の木の葉はしっかりと日陰をつくってくれる。
この成長の速さにはいつもながら驚いてしまう。
じっと見ていたら葉や茎が成長していく様子が目で見えるのではないかという気がするほど。

カラ類の巣箱は、というと、もうまったく静まりかえっていた。
朝4時頃、シジュウカラたちの声が聞こえるだけで、日中は鳴き声も聞かれない。妙にシーンとして春ゼミの鳴き声だけがやかましい。
これは、鳥たちが巣箱の中で卵を温めているからである。

卵を温めている間は、蛇や猫に襲われrないように、慎重に慎重にしているようで、巣箱の出入りさえもほとんど見ることはない。
昨年は6月中旬は子育て真っ最中だったが、今年は巣箱の取り付けが遅れたため、まだ抱卵中のようだ。

以前、あまりに静かなので巣箱はからっぽなのだと思い、下の扉を開けたら中ではシジュウカラが卵を抱いていてあわてた、ということもある。
また、巣箱のある木を猫がのぼって巣箱の屋根の上に座っていたこともあり、心配になりそっと中を覗いてみた。
可哀想に中に親鳥が猫にひっかかれて死んでいて、卵が9個もあった。
その後は、木の下の方に猫避けネット(登りにくいギザギザが付いている)をまきつけている。
猫の嫌いな臭いを出すという製品もあるが、猫よけになる臭いが鳥にはどういう影響を及ぼすのか、説明書にはないのでわからない。

私は猫も鳥も好きでどちらも身近にいてほしいが、山は、もともと猫が住んでいた場所ではないので、猫を外に出すのはやめて欲しいと思う。
もともと山にはキジ、リスやオコジョ、テンといった動物が住んでいる。
人が家を作って犬や猫を連れ込んでくるが、目的なしの野放しはだめなんじゃないかな、と思っている。(畑を猿の被害から守るために犬を放すということはある。)

6月14日、2つの巣箱でシジュウカラは餌を運んで行く姿を一回ずつ確認。
巣箱から出るときにフンをくわえて運びんでいた。
いよいよヒナが孵ったようだ。
ヒナが孵ると、親鳥は、天敵に見つからないように隠れているわけにもいかず、せっせと巣箱を行ったり来たりするようになる。
ヒナが成長するにつれますます忙しく餌を運ぶ。

子育ては16日間〜19日間というので7月始めが巣立ちかもしれない。
ちょうど巣立ちの日に居合わせるというのはなかなか難しいものだ。

夏を告げる、ホトトギス、カッコウの声がよく聞こえていた。

IMGP3597.JPG
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『国家の意思』とは何をさすか [社会]

前回に続いて橋下発言について。

わざわざこの発言を取り上げるのは、この人の発言が、差別意識、優越意識、ごまかし方、責任のがれ、など政治家の悪いところをすごく明確にしてくれるからだ。

発言の中に「国家の意思として強制があったかどうかはわからない」というのがあった。「証拠がないではないか」というあの説である。
「国家の意思」とは一体何を指しているのだろう。
政治家がよく使うし、誰もがなんとなくわかっているつもりのこの言葉・・実はすごくあいまいなのである。

例えば、職場やら学校やらスポーツクラブで体罰、セクハラ、パワハラがあれば、それはそれを引き起こした当人がまず責任を取らされる。
それが蔓延しているようなひどい事態ならば、その組織のトップも当然責任を取らされる。組織を把握していなかったこと、管理者としてそういう行為を未然にふせげなかったこと・・などなど、さまざまな理由が挙げられるだろう。

戦争時の軍というものは組織中の組織(がんじがらめで風穴がないという意味で)であると言えると思う。
そうすると、慰安婦のいる慰安所を設けたのが、軍の中のどういう立場のどういう人間達であっても、総責任者はあずかりしらぬ、では通せるはずがないのである。

慰安所をつくるような命令書がのこっているかどうかなど、どうでもいいことなのだ。
当時はそういうことがあっただろう、と誰もが考えることに対して、当然、軍の最高責任者たち、当時の政府、には責任が生じる。
「軍」とか「国家」と言う言葉は下々よりちょっと上からず〜っと上の人たちを指すことが多いようである。(もちろん下々にも悪い奴はたくさんいる。)
「強制したという事実は疑わしい」など言えるはずがないのである。

もしかして、強制を命じた人がはっきりしない、ということで責任逃れをしようとしているのだろうか。
軍隊ともなれば命令系統は複雑で、上から下へ下へと降りていくから、もはや、どこでどこの部分で、ということは非常にわかりにくいかもしれない。
「私が○○の命を受けてやりました」と自白する人はほとんどいないだろう。

そのわかりにくさは、敗戦国の女性を慰安婦にしたという事実を否定することにはならない。わかりにくいなんていうのは単なる内部事情であり、それは被害者には関係なく、何の弁解にもならない。

まして、「他の国もそうだった」などという発言は、小、中学生のレベル(それも自分勝手な小中学生ね)で、こういう発想は非常に幼稚なのだが、政治家はこれをしばしば使う。良い例を取り入れるのはそれでもいいが、大体は悪いことをするときに使う。

所詮は、高校生相手に議論して勝つこともあるくらいの弁舌の人だと思っていたが(この人のツイートには『バカ』とか『頭悪い』とかの言葉が出てくるそうだ)、このような人がなんで政治家になれたのだろう。
政治家がたいしたことない能力の持ち主、ってことなんだろうか。

真面目で誠実で、人権を尊重する政治家がたくさんいるといいのだけれど。

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千客万来〜山の春〜 [環境・自然]

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5月13日ヤマザクラがやっと開花を始め、15日に満開になった。16日には花の下に葉が出始めた。連休中の低温がうそのように一気に気温が上がり、信州新町では10日は最高気温が31度で最低気温がおよそ1度と、一日の気温の高低が30度もあったそうだ。

実際、標高1100mの場所ではこんなことはしょっちゅうで、朝晩ストーヴをつけ、日中は暑くて半袖になったりし、気温に身体がついていくのが大変だ。

冬の間中、コガラ、ヒガラ、ヤマガラ、ゴジュウカラが餌台に来ていた。
いつもは3月に中旬に巣箱を取り付けるのに、今年は取り付けが4月になってからだったため、「入居者募集」しているのにさっぱり鳥が入らなくてガッカリしていた。(例年は3月には巣箱の下見にやって来ていたのでたぶん遅すぎたのだろう。)
みんなもう巣作りをどこかで始めてしまったのだろう、と思っていたら、最近になってコガラ、ヒガラ、シジュウカラの3つがいが巣に入ってくれ、せっせと巣作りのための材料を集め出した。(巣箱取り付けが遅かったせいで屋根の裏に穴を開けられてしまい、シジュウカラが入っていた!)

4月末からベランダの餌台にイカルが姿を見せるようになり、毎日のお客さんになった。アカゲラも樹を降りてたまにベランダに止まるが見物にでも来るのだろうか。人を見るとあわてて血のように紅い頭と下腹を見せてバサバサ飛び去っていく。

それからカワラヒワが4羽くらい一緒にやって来る。他の鳥はヒマワリを加えるとさ〜っ、と樹に上に飛んで行って、そこでヒマワリの種を割って食べているが、カワラヒワたちはなぜかベランダの床を好み、用もないのに佇んだり、ウロウロしたり・・。
「何してるの?」と聞きたくなる。

家の北側の地面に、アオジ(あるいはノジコ?)と黒ツグミが来ていた。カラ類ばかりが目立っていたけれど、今年はけっこうな賑わいだ。

ヒマワリの殻が散乱しているのはリスのせいだ。リスはその場でヒマワリを食べるものだからそこら中がヒマワリの殻だらけ。
鳥は陽差しが当たり始めてから本格的に活動するが。リスは行動が早く、明るくなってすぐに餌を食べに来て餌台をからっぽにしてしまう。

IMGP3359.jpgIMGP3360.jpgイカル

IMGP3445.jpgIMGP3444.jpgカワラヒワ

IMGP3424.JPGIMGP3431.JPGリス君


最後に、イワナの稚魚の写真
IMGP3558.JPG

この川の主のイワタロウが昨年秋に産卵行動をしていた辺りで見つけた。
体長2㎝。お腹にタマゴ(栄養分)がついていた窪みがまだ見えるから、孵化してまだ日が浅いようだ。5月なのに少し成長がおそすぎるようだが、孵化のためには水温10℃で累積50日間と決まっているそうだ。
今年はやはり川に住むイワナにとっても厳しい寒さだったのだろう。
元気に育って欲しいけど、この稚魚が成長する確率はすごく低いんだろうな・・。

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『慰安婦必要』発言について [社会]

公職に就いているものがこういう発言をしたら当然のことながら懲戒処分、と思っていたら、まだ首にもなっていない。そこが何とも不思議である。
気持ち悪いけど、また細部を忘れてしまわないために書いておきます。

<橋下発言>
「銃弾が飛び交う中で命をかけて走っていく時に、精神的に高ぶっている集団に休息をさせてあげようと思ったら、慰安婦制度が必要なのは誰でもわかる」(13日午前)
「軍の規律保持のために、慰安婦制度は当時は必要だった」(13日午後)
「風俗業は必要だ。・・そういうものを活用して真正面から活用してもらわないと、海兵隊の猛者の性的エネルギーはコントロールできない」(13日午後)
「今の視点で慰安婦が良いか悪いかと言われれば。良いことだとは言えない」(14日午前)
「国を挙げて韓国女性を拉致して強制的に売春させた事実の証拠がないことも、厳然たる事実」(14日午前)

あげくの果てに、

「大誤報をやられた」「慰安婦を容認したことは一度もない。メディアは一文だけ聞いてそこだけ取る。日本人の読解力不足だ」「必要だったから皆やってたんでしょ。(自分が)必要と認めたわけではない」(17日)

と支離滅裂である。

戦争は過去も現在も同じ。過去の戦争に慰安婦が必要だった、と認めるなら、今現在も軍のあるところ慰安婦あり、ということになる。
お仲間も「軍に売春婦はつきもの」と言っているではないか。

この人たちがこういう体質であることは分かりきったことだったが、それをひどいとは思わず、なんとなく威勢のいい物の言い方に惹かれ、「この人達なら何か思いきった政治改革をやってくれるかも知れない」と期待していた人も多かった。このような支持者というのはやはり本質において似かよった部分を持っているのではないか、という気がする。
体罰も慰安婦問題も、暴力も戦争も、根っこは同じ。
それが悲しい現実だと思う。

「慰安婦必要発言」は、女性蔑視というだけでなく、男女含めて人権蔑視そのものの考え方なのだ。「軍」というものはそうしたもので、だからこそ、「軍」を持たない、「戦争」はしない、ということになるのではないか。

一文だけ取り出して報道された、などという言い訳が通用するかのようにふるまっているのはお笑いぐさだ。「当時は慰安婦は必要だった」というその一言だけで、十分、公人としての資格はないことを示している。(no more human ! )
君が代斉唱のときに起立しない学校公務員を懲戒する、などと言っている人達が、こういうことを言っても何にも罰せられない、というのは本当におかしな話だ。
「人権蹂躙」は本質的な罪であり、誰かが都合上決めた「服務規定」などいうものに違反する、というようなこととは、比べることのできない『本物の罪』だと思う。

こういう事を平気で言う政治家が出てきた、ということは怖ろしい。
こういう発言が報道されることによって、日本人のモラルのハードルが一気に下がってしまうようで不安になる。

戦時中は、軍の一部どころか、軍の大部分、国民の8,9割は、みなこういう考えだったのではないか?
従軍慰安婦の強制など、当たり前に行ってきたのだろう、ということがかえって良くわかったではないか。
「日本だけじゃない」などと恥ずかしい居直りを平気でしているのを見るのが、すごく恥ずかしい。

なんとかならないものか、どうしてくれよう・・・難しい・・!

(追記)
「誤解を生むような発言をしたことは申し訳なかった」(19日)だそうで。

誰も誤解はしないでしょう。とてもわかりやすい発言の数々で・・。

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「憲法」について考える [社会]

音楽評論家で世界最年長のディスクジョッキー(クラシック音楽の)であった吉田秀和の著書『千年の文化 百年の文明』という本をよんでいる。
吉田秀和氏の文体というのがあまりに素晴らしいので、今読んでしまうのはもったいない、何かの時に読もうと、書棚に飾っておいた。
第一章「昨日より今日、明日へと、自己改革をつづける日本の文明」の最初に、小題<青丹よし寧楽の都の>という文がある。
その中の始めに、『日本の社会に無理はないか』という小見出しで、「憲法」の話が出てくる。

すこし長く抜粋すると・・

「日本の社会、日本の文明のは、根本的なところで、何か大きな無理をふまえて、はじめて成立するようなものがあるのではないか。 ー略ー 
憲法改正の問題一つとってもそうだ。この頃になって。騒ぎが下火になったように見えるけれど、憲法をきめた当時の事情などという裏話を、雑誌や新聞で。小出しによまされたころ、私などまったく気持ちが悪くなった。あの制定当時の自分の態度について一貫した責任のある説明を与える政治家の何と少なかったことだろう。私にはひどくわからないことだらけだ。政治で本当にイニシアティヴをとっているのは、一体誰なのだろう?
政権をとっていた側は、占領軍に強制されたからだというふうにいっているようだが、そうすると強制されなければ、どうしたのだろうか。占領政策の行き過ぎを直すというが、行き過ぎるどころか、行かなすぎるとばかり考えている人たちも少なくないなかで、何が行きすぎで、何が中正かをきめられてしまうのは、私たちにはひどく不安だ。 ー略ー 」

この文は1958年に「音楽芸術」の二月号に載せられたもので、ああ、憲法はこのように、はるか以前から、気にくわないから変えよう、としてきた人いて、それでも守られてきたのだなあ、と感慨深い。

アベ首相が「国民の6,7割が憲法改正をすべきだと思っているのに、国会議員の3分の1は反対したら憲法を改正できないというのはおかしい」と言っているのを見て、私はびっくりしてしまった。
国民の6,7割が憲法改正に賛成などといつのまにそういうことになったのだろう。
一体どういう世論調査だったのだろう?日頃ニュースをていねいに見ていないから、そういうことも私にはわからない。
改正してもいいか、という問いが「憲法というものを変えてもいいか」という根本的なものなら、それは当然変えてもいいということになるだろう。国民の大多数がこうしたい、と思うなら、憲法といえども変えることになるはずだ。(もっとも戦時中は、国民の大多数が戦争するぞ、という気分であったことを忘れてはならないのだが)

ただアベ首相の、「国民の6,7割が望むなら、国会議員の3分の2ではなく過半数で改正できるようにする」という考えは、まったく論理的に破綻しているではないか。国民の大多数が望むようなことは、国会議員も大多数が賛成の立場をとるだろう。だって国民の代表なのだから。
3分の2なんて厳しくもなんともない。ただの過半数なんて、あまりの軽さにお話にならない。

原発については国民の7割以上が反対と言っていたのに、「原発続行」にしてしまったのは一体だれ?
まったくご都合主義のアベ政権である。
最近の国会予算委委員会などを見ていると、野党がもっともな質問や追求をすると、終始、「ごもっともです。そういうご意見を受け止め、わたくしどもも、そのように努力してまいりたいと思います」と、するりするりとその場をかわしていく術が、以前にくらべてずいぶん長けたものだ、と、あきれて(半ば感心して)見ていた。政権側としては何とか参院選までは国民にそっぽを向かれないように、苦心しているのだろう。

それでもやはり、ボロは出るものだ。
「国民の6,7割が改正に賛成しているのに・・・」発言の数日後、今度は「(改正かどうか)まずは、国民のみなさんがじゅうぶんに納得できる議論をすることが大事だと考えています」と、ニコニコ顔で弁明しているアベ首相だった。

戦前戦後の社会で一番大きく変わったのは、「日本国憲法」が三本の柱としている、
基本的人権の尊重・国民主権(主権在民)・平和主義(戦争の放棄)である。

つまり、国家ではなく、個人一人一人が、最大限、尊重されるということである。
こういう根源的な態度をもっていると感じられない政治家はまったく信用できないし、信用できない人間に「憲法改正」など、とてもまかせられる問題ではないと思う。

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天気と世の雰囲気 [雑感]

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寒さが終わりかけと思ったらすぐ花粉症のつらい季節に入り、桜の季節もいつの間にか終わり、芽吹きの美しい時期になった。
最近の天気は寒暖めまぐるしく変わり、風もどうしようもなく強い。
そう言えば、桜の季節は空はいつも曇っていて、「青空に映える桜」というのをほとんど見なかった。この2,3年そんな感じ?
まだ4月末だけれど時折の陽差しは厳しい暑さを予感させるので、はやくもウンザリしてしまう。気持ちのいい天気などめったにないものだなぁ、と思う。

人が生み出す「社会の雰囲気」というのもお天気と同じで、どうにもならない感じだ。
安倍政権が発足して4ヶ月。この政権はまだ具体的には何にもやっていないが、「景気をよくする」「医療、福祉に力をいれる」「女性に活躍の場を」・・と調子のいい言葉を並べ立てている。
唱え文句だけ聞けば政府は国民のために働いてくれるように思える。

その一方で憲法改正をして、個人を軽視し、政府(権力者)に都合のよい憲法をつくろうとしている。
でも、日常生活の中で、憲法を意識している人は少ないだろうな、と思う。
現憲法のおかげで日本は64年もまがりなりにも平和の中で、便利で快適な生活を営んできたのだけど、皮肉なことに、そのせいで、憲法の大切さを忘れて暮らしていられるようになっていたのかもしれない。
10年後20年後の社会がどうなるかを本気で心配して考えている人は少ない。ほとんどの人は今日明日のこと、1,2年先のこと、たとえ10年20年先のことでも、それは自分の生活の経済的な心配であったり、健康のことであったり・・である。それが人間というものだと思う。

平穏に見えるこの国の今の表の顔の陰に、危険に直面している人々、どうにもならない苦労を強いられている人々が大勢いることは忘れられて、というより話題に上らないようにされている気がする。

4ヶ月前、アベ政権が発足したとき、予想はしていたが、NHKの報道は、まるで恭しいことを発表している雰囲気で、民主党の発足時の扱いとはずいぶん違うと思った。内閣の面々を紹介する報道の声からしてまったくちがった。
やはり、NHKだの、財界だの、日本を牛耳っているような立場にいる者にとっては、自民党というのは特別なつながりのある党なのだな〜と感じた。
報道の仕方で、世の「雰囲気」も変わる。

福島の原発事故のことは、報道されても、もはや切羽詰まったニュースではなくなったような雰囲気だ。私が読むのは毎日新聞で、夕刊の特集ワイドは論理的で説得力のある文学者や学者の記事が載っていて、それを読むと安心するのだが、どうもそういう新聞記事とは無関係に世の中の雰囲気はあるようだ。
私は今ではNHKニュースを見るのも不快、という感じだが、安倍内閣の支持率は68%位あるらしく、一体どうしてそうなるのか不思議でならない。

人は、原発事故についても沖縄の米軍基地負担についても、「ひどいことではあるがそれはそれとして・・」という風に思考停止をしてしまうのだろうか。
一度、大きな思考停止をしてしまうと、もう思考停止は『癖』になってしまうのではないだろうか。原発が怖くないなら、もう怖いもの無し、ということだ。
自分が、今をそこそこ楽しく生きられるだけ幸せと考えればいい、ということになる。とても他の人のことまで心配することはできない(同情はするが)、ということになる。

景気には「雰囲気が大事」なのだ、そうだ。
そりゃ、雰囲気だの、明るさだの、楽天性など、そういうものは人の気持ちには大切なものだと思うが、政治を考えるに、そういうふうなものに頼るというのでよいのだろうか。
「雰囲気」というのは本当に場当たり的なもので、いつどうなるかわかったものではない。
いろいろな甘言を並べ立て、参院選までつないで、その後は約束した公約はできませんでした、ごめんなさいということになって終わるのだろうか。
円相場が変わって儲ける人は十分に儲けてしまったから、この後の不景気はどうということはないのだろう。多分、今の政権がつぶれても、また次に儲けさせてもらいますから、という仕組みになっているのだろう。

私が政治家に一番求めるのは、「弱者の側に立って物事を判断し政策を行う」ということだが、そんなことは求めていないという人のほうが大勢を占めているようで、何より経済(景気)が大事という「雰囲気」が社会に広がっていて・・・。

「雰囲気」というのは「天気」と同じくらい、どうにもならないものなのだな、と感じている。


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