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新年に 〜2016年1月4日〜 [雑感]

新年の幕開けは厳しい・・。
ツイッターを見ていたら、目を疑うようなツイートがあった。

初詣に行った神社に、憲法改正賛成ののぼりが立っていたり、賛成署名用紙が置いてあったりした、というツイートだった。

これはあまりにもひどい新年の幕開けだ。ひどすぎる。
多くの人が集まる初詣の人に向けて、憲法改正反対の署名活動をする市民団体がいるのはわかるが、
神社そのものが、境内に「改正賛成のぼり」を立てたり、社務所に「賛成署名」が置いてあったら、大問題ではないか。
大問題などという生やさしい言葉では言い表せない。本当にショックだ。


なぜここまでひどくなってしまったのか、数年前までは「九条を守ろう」という運動を冷ややかに、あるいは無関心に見ていただけだった人が、公然と「愛国心(と呼べばいいのか)」をむき出しにして行動し始めた気がする。

前々回のブログにもかいたけれど、「教育基本法改悪」の影響がここまで大きく世の中を動かしたのだと思う。「公共の精神」「我が国と郷土を愛する態度」が、新・教育基本法の目標の中に入れられることによって、与党の後押しをする人たちは全くの勘違いをした。
「公共」とは「与党政府が目指す社会」のことであり、「我が国と郷土」とは、「与党政府が支配する国と郷土」という風に。

だから公民館などで、憲法の学習会というと公民館を貸さないようにしたり、憲法9条という言葉が入った俳句を排除しようとしたり、公務員(特に教員)に「君が代・起立斉唱」を監視してまで強要したり、ということが平気で行われるようになった。
「公共」「我が国」というのは与党政府が握っているもので、下々はそれを敬い、その下僕としてふるまうのが当然と思っているようだ。

神社はこうなると「神」を祀る場ではなく、与党政府の掲げる『神のようなもの』を祀る場になったのかもしれない。もっとも神社とて営業しているわけだから、地元の議員からたくさん寄進があったりすれば、そういう人たちの喜ぶようなことをするだろう。それでも以前は、そこまであからさまなことはしなかった。完全にたががはずれてしまっている。
もちろん立派な神社は多く、「憲法改正賛同署名」を置いておくような神社は少数であることを願うが。


一方、『赤旗』には長野市の善光寺の白蓮坊住職の言葉が紹介されていた。

{「これまで自民党支持だったが」と切り出したのは、善光寺白蓮坊の若麻績住職。「戦時中、仏教界は戦争に反対するどころか荷担し、内外で多くの命が奪われた。仏教精神に反する。命を大事にする政治を」と戦争法(安保法)反対の意思を表した。}

善光寺はがんばっている。
IMG_7332.jpg善光寺
北京オリンピックのときにも善光寺が長野での聖火リレーの出発点に決定していたが、チベット問題に対する抗議表明で、出発点になることを返上した。

いろいろな立場の人が、いろいろな場面で「政治的中立」という態度で済まそうとするが、戦争が推し進められようとしているまさにその時に、「中立である」ということの意味は一体何だろう。
戦争に関しては、反対するか賛成するかのどちらかの選択肢しかない。真ん中のどっちつかずという立場はあり得ない。
戦争には反対である、という事をなぜ堂々と言えないか。言わないのは賛成だということだ。

社会では、仕事上や付き合い上で、政治についての話題は避けてしまう傾向が強い。
かくいう私も政治に関しては人を選んで話しをしている。
そうしないと、回りじゅうが私の敵だと感じてしまうことになり、いろいろめんどうくさい。自分と考え方(特に戦争、平和、人権などに関して)が違う人間とは付き合いたくない。

私は友人があまりいないことをそう残念だとは思わない。(思わないようにしているといってもいいが。)ともかく、安保法案に賛成するような人と仲良くすることに何の意味があるか、と思っている。

そうは言っても生活していく上では考えの違う人ともある程度の付き合いが必要なこともある。自分の政治についての考えは隠して他の所で(つまりたわいのないことで)話を合わせるようにしている。

でも、もうそんな悠長なことを言っている時期ではなくなったのかも知れない。
むしろ積極的に話題にしていく必要がある時になったのかもしれない。
といっても普通の市民がやれることは、署名活動やデモや集会に参加することしかなく、回りの人間に議論を持ちかけても嫌がられるだけで思うようにはいかないのである。

(週末に善光寺に初詣に行こうと思う。)

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政府とマスコミ [雑感]

4月28日の朝日新聞の一面の見出しは『自衛隊の米軍支援拡大』『日米防衛指針18年ぶり改定』というもので、頭がクラクラした。
日頃ニュースをざっとしか見ていないので、私が知らないうちにそんな事が決定されてしまったのかと、愕然とした。
記事の小見出しには、『集団的自衛権を念頭』、次に続く<解説>では小さめの見出し(大見出しの3分の1くらいの小ささ)『安保条約の枠超える』とあった。
さらに2面の大見出しは『既成事実化急いだ政権』とあり、小見出しが『安保法制の国会論戦に先行』。

見出しだけ見ると、「自衛隊の米軍支援拡大」がすでに国会で決まったことのような感じだ。
国会でも論議されていないことを平気でアメリカで演説するということは、ひどいというより常軌を逸した行動としか思えない。
大体においてアベ首相が連発する「積極的平和主義」という言葉が、まったく胡散臭い。
言葉をでっちあげて、武力行使が正論である、と見せかけている。
難儀ではあっても、戦いを避け、あくまでも話し合いで物事を解決しようとするのが本当の「平和主義」ではないか。戦争を前提にしてしまったら、それはもう「平和主義」ではない。


「積極的平和主義」などという言葉を用いて、武力拡大を目指したがる首相を持ったことは、本当に悲劇である。
どうやってこの悲劇をうまくおさめるか、手立ては簡単に見つかりそうにない。
個人の発言などよほどの幸運(そういう声が集まって大きな力になるという幸運)がない限り、埋もれたままである。
新聞やテレビやラジオなどのメディアに期待するのは無理なのだろうか。
政治家ではなく、マスコミに期待を寄せる?・・なんだか倒錯している。
それでも、ニュースを報道するということに大きな責任を持ってほしいと思う。
マスコミが権力の広報マンになってしまったら、報道は簡単にゆがめられる。
そうなったら、民主主義というものは崩れ去ってしまうだろう。マスコミを味方につけた政権ほど怖いものはない。

4月1日から朝日新聞の購読を始めた。ずっと毎日新聞だったが、新聞販売員の勧誘に負けて3ヶ月だけ朝日新聞を取る契約をした。従軍慰安婦の間違い取材記事が問題になるよりもずっと前の事だった。

アベ首相が朝日新聞の批判を始めたときで、販売員の人は「どんどん購読者が減っているんです。お願いします!」と悲壮な感じ(ふり?)一応なぜ購読者が減っているのか尋ねたら、新聞が左がかっているといううわさがあるんです、との返事。
つい意地悪く、「それは逆でしょう。朝日新聞は以前はもっと権力にしっかり批判的な立場を取っていたのに、最近はどんどん権力よりになってきているんですよ。」と言った。
「え、そうなんですか。」と若い販売員は不思議そうな顔。
ともかく、つい気の毒になって契約をしてしまった。

4月1日、新聞を眺めたら、何か記事の印象が曖昧で雑然として何を書こうとしているのかはっきりせず、気持ちが悪い。(あ、新聞が変わったんだ・・)
一週間ほどこんな状態が続いて後悔していたが、中旬には良い記事もあった。
そしてまた、今回の釈然としない記事である。
新聞社の方針がはっきり定まらず、まるで「まだら」のような印象を受ける。

記事の内容で多少批判的な事を述べていても、読者を惑わすような大見出しをつけては、何を言いたいのかわからない。
見出しと内容がちぐはぐなのは、政府にもいい顔を示したいためだろうか。

今の政府は、憲法も国会も知事の意見も何もかも無視して、やりたいことをどんどん既成事実化して強引に進める酷いやり様である。
その政府をマスコミが後押ししていてはどうしようもない。
大半の人々は、テレビを見たり新聞を読んだりして、ああこうなったのか、と思ってしまうに違いない。一度決まったことは簡単には変えられないだろうな、と考えてしまうに違いない。



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桜の季節 [雑感]

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IMG_5284.JPG4月4日

今年の花見の季節も無事に終わりそう。
外出のついでに足をのばし、草加市の葛西用水路沿いの桜をわざわざ見物に行った。
前日の強風で桜の花がだいぶ散っていて、川は花びらで埋めつくされ、ストロベリーシェークみたいな色に染まっていた。
曇り空だったけれど、土曜日なので花見の人がけっこういて、みな食べたり飲んだりしていた。
おじさんバンドが元気よく賑やかに演奏していた。

以前の私なら、花見でちょっとしたおいしい物を食べたりお茶を飲んだりするくらいは許せるけれど、
大きなテーブルを広げたり、ゴミを持ち帰らないためにゴミ箱があふれていたり、風で色々な物が汚らしく散らかっていたり、カラオケやらが大音響を出していたり、という光景を目にするのが我慢できなかった。
極力人混みには近づかないようにしていた。

今年は花見をする人びとを見てもあまり腹立たしくはならなかった。

そんなことに一喜一憂している時代は過ぎ去ってしまった。
花見客のだらしなさなどを気に病んでいるようでは、今の日本ではとうてい生きていくことなんかできないのだ。

静かに普通の生活を送りたいと思っても、「原発問題が片づいていない」「基地問題は理不尽でめちゃくちゃ」「集団的自衛権やら何やら、きなくさい事がどんどん進められ、それを止められない」という現実をつきつけられていては、日常的に神経がかなりのストレスを受けている状態だ。
心おたやかに過ごすことなどとうていできないものである。

だから、花見のばか騒ぎなんかに目くじら立てる余裕はすっかりなくなった。
これまで、いろいろな絶望感、挫折感は味わってきたけれど、こんなに社会的危機を感じることはなかった。また危機を前にしてこれほどの無力感を感じたこと、もなかった気がする。

どう考えても許しちゃいけないでしょう、と思うことが素通りして行く。

現政府の暴走を何とか止めなくてはと誰しもが感じているはず、と思っていたら、それはとんでもない間違いで、「こんなひどい事が・・」と話題にすると、

「え〜っ、そうなの?」と初めて聞いたような返事だったり、
「そんなにひどいとは思わないな〜」というような反応だったり、

大方の人は、今の社会について特に心配はしていないようだ、ということがわかってきた。自分の身に直接ふりかかってくること・・給料が安い、労働環境が悪い、生活がしんどい、という不満はあっても、それは政治とは無関係に感じる事で、政治が変われば、という意識にはならない人が多いようだ。

もちろん、政府のせいで戦争にまきこまれそうになっている、などと考えている人はとても少ない。
むしろ、政府は「国際情勢における不安要素をとりのぞこうと強い姿勢を示してくれている」などと、私とは正反対の受けとめかたをする人の方が多いようだ、と最近わかってきた。

これじゃ、政治が変わるわけはないなあ・・という気持ちが強くなり、
同意見の人たちとたまに話したりすると、ちょっと元気にはなるものの、
少数意見ではどうしようもない。

というわけで、逆境に耐える姿勢を少しずつ身につけた私にとって、
今年の花見は苦痛のかけらもなく、何でもなかった。
人は見ずに、ただ桜だけを眺めていられた。

葛西用水路は1590年に徳川家康が進めた利根川東遷事業で作られてきたもので、埼玉東部から東京東部を流れる。(同じく埼玉・東京を流れる見沼代用水、愛知県の明治用水とともに、日本三大農業用水とよばれる)

用水路沿いの桜は古木が多いが、それでもずっしりと花をたくさんつけていて見事だった。

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「花子とアン」にえがかれる戦争 [雑感]

第二次大戦の時代を背景にしたドラマは多いが、「純情きらり」は音楽家、画家への弾圧がえがかれていていい作品だと思った。
「花子とアン」も、やはり戦争が時代背景となっている。
いつも見ているわけではないが、135話、136話は、戦争に対して人々がどのような感情を持ち、どういう立場をとり、どう行動するかが、わかりやすく(誠実に)えがかれていた。
ドラマのセリフを拾い出すと、

<なぜ危険なことをするのか(反戦争という思想)、という花子の問いに、れんこが答える。>

れんこ
「(龍一さんは)間違ったことはしていない。誰よりも子ども達の将来を考えている。
だから今の国策にがまんができないの。

<花子はラジオの子供の新聞という番組の語り手をしているが、子供たちに楽しいお話を聞かせたいという思いはかなわず、戦争のニュースばかり伝えてことに悩んでいる。>

はなこ(ラジオで)
「みなさんは戦地の兵隊さんが安心して戦え、誉れの凱旋ができるよう、おうちのお手伝いをしてしっかりお勉強いたしましょう。」

れんこ
「まるで、みんながんばって強い兵隊になれと言っているように聞こえたわ。」
ーーー(あれは、といいかける花子)

「花子さんも誰かに読まされているんでしょう。
そうやって、戦争をしたくてたまらない人たちは国民を扇動しているのよ。
あなたは本当はどう思っているの。ラジオのマイクの前で、
日本軍がどこを攻撃したとか、占領したとか、そんなニュースばかり読んで、ああいうニュースを毎日毎日聞かされたら、純粋な子ども達はたちまち感化されてしまうわ。
お国のために命をささげるのは立派だと思ってしまう。」

はなこ
「私だって戦争のニュースばかり伝えたくない。
でも、こういうときだからこそ、子ども達の心を明るくしたいの。
私の『ごきげんよう』を待ってくれる子ども達がいるかぎり、私は語り手を続けるわ。」

れんこ
「そんなのは偽善よ。
やさしい言葉で語りかけて子ども達を怖ろしいところに導いているかもしれないのよ。」

はなこ
「私一人抵抗したところで世の中の流れを止めることなんかできないわ。大きな波がせまってきている。その波にのみこまれるかのりこえられるか、誰にもわからない。
私たちの想像を超えたはるかに大きな波なんですもの。私もすごく怖ろしい。
でもその波にさからったら今の暮らしも何もかも失ってしまう。大切な家族すら守れなくなるのよ。」

れんこ
「私は時代の波に平服したりしない。世の中がどこへ向かおうと言いたいことを言い、書きたいことを書くわ。」

「あなたのようにひきょうな生き方をしたくないの。」

はなこ
「私たち生きる道がちがってしまったわね。」


<この段階では、二人とも戦争に反対の気持ちを持ちながらも、その立場は微妙にずれ分かれることになる。その後、はなこはラジオの語り手を辞めるのだが>

一方で、戦争を賛美する声として

宇田川

「私はペン部隊の一員として、わが皇軍将兵の勇戦敢闘ぶりを、この目でしかと見てまいりました。
私は心の中で叫びました。『遠き故国日本の母よ、姉よ、かくまた恋人よ。あなたがたのいつくしんだ人たちは、今破竹の勢いで猛進撃を続けております。これをあなたがたがごらんになれば、きっと涙にむせびつつ、同時に誇らしく思われることでありましょう。』」


こういう意見の食い違いというのは、昔も今も、人間の間の超えられない溝のようなものを形づくっているような気がする。
花子、れんこ、宇田川に見られる三者三様の考え方は当時を代表するものだったのだろうと思うが、今でもさまざまな場面で見られるように思える。

そして「現代」の特徴を現すのは、このような考え方のさらにその上に「あらゆることにおいて目先の経済発展こそがなによりも優先」という考えが君臨していることだと思う。
それが今もっとも幅をきかせている考え、行動、であるならば、それに対抗するのは非常に難しい事だという気がしている。


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7月も終わり・・ [雑感]

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7月1日に「集団的自衛権」が閣議決定という事態になり、こういう状況はどうすれば変わるのだろうと、個人が考えてもどうしようもないことを考え落ち込んだりしているうちに、7月も終わってしまう。

6月28日の毎日新聞に「集団的自衛権」閣議決定に対する何らかの反対表明を出した地方自治体についての記事があった。6月28日の時点で137の市町村名が反対または慎重に、の立場をとり、137のうちの35市町村は長野県(私の出身地)で、長野県はなかなかがんばっているなと思った。その中でも生まれ故郷の市は「強く反対」を表明、と地方ニュースで報道され、ちょっとうれしかった。
7月になると反対する市町村はさらに増えたが、そんなことはお構いなしの閣議決定である。アベ内閣の支持率は下がりつつあるけれどまだまだ独走を止めることはできない。

なぜこんな独裁政治がまかり通るのか不思議なのだが、国会での答弁やテレビ番組のインタビューなどアベ首相や幹部らの発言を聞くと、明らかにある特徴がある。
どんな質問に対しても、<「集団的自衛権」によって戦争につき進むようなことは決してない>、<抑止力はこれによって高まりこれまでよりもっと安全になる>、の二つを、さも確信ありげに堂々と言い切っていること。

これを聞くと、いくらかの不安を感じた人も、そうか、まさか戦争になることはないだろう、と納得してしまう。
世論調査では、「集団的自衛権」の閣議決定に対しては、反対もしくは懐疑的という人の方が多いようだが、大方の人は(賛成派反対派ともに)、「まあ、すぐにどうこうならないだろう」「簡単に戦争になるということはあるまい」という楽観的気分が強いのではないだろうか。
政府の公報活動は巧みで、NHKも総力あげて政府の後押しをしているようだから、知らず知らずのうちに「今の時代は『集団的自衛権』も必要なのではないか」という考え(というより気分)が広がっていくのも無理はないと思う。
いろいろな場面で、自民党のいろいろな立場の人が世間に聞こえのいい言葉を無責任に発しているから、漠然と聞いていたら、問題点などさほどないように見える。

これまで65年間も戦争をしていないので「戦争」がどのように始まるものなのかを意識しない人も多いだろう。
「平和ぼけ」という言葉があるが、これまで平和を謳歌できたのはなんと言っても「平和憲法」のおかげだと言える。
それが「平和憲法」の実績というものだ。

「集団的自衛権」がこれからどういうことをもたらすのかの十分な検証・国民的論議もないまま、これまでの「平和憲法」の実績をまったく無視して、別の方向に無理矢理に舵取りしようとする内閣はまったく信用に値しない。

国民の安全や暮らしを守る、と言いながら、いまだ福島原発事故は収束もできないまま、これまで自民党が推し進めてきた原発の事故の責任も取らず(あやまってもいないのではないか)、まだ原発を経済政策の一つとして捨てようとはしない政府。

集団的自衛権の閣議決定の次は、実力行使による沖縄辺野古への基地移設。
貴重な生物の宝庫である辺野古の海を平気で破壊し、その理由は「危険な普天間基地を一刻も早く他に移すことが重要だ」と強調するばかりで、なぜ同じ沖縄県内に移設なのか、なぜ新たな環境破壊までして辺野古に基地を移すのか、については一言も答えず知らん顔だ。

誰がどうみたってひどすぎる話だ。
それなのにその暴走をとめられない、というのはどうしてなのだろう。
こういうことをずっと考えくよくよしていた7月だった。


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桜のシーズン [雑感]

IMG_1779.JPG葛西用水
川沿いの桜並木は相変わらず立派。

桜というのはなぜか胸をざわざわさせるところがある。
見慣れた変哲もない日常風景の中に、突然わぁっと桜が咲く。
そこだけがあまりにも華やかで回りの景色とそぐわない感じで落ち着かない。
それも10日ばかりの短さで消えてしまうので、何かせかされるような気分になる。

子供の頃の田舎での桜はそうではなかった。
桜が咲くと、家族親戚連れだって、近くの「東山」という山に出かけた。
やっと雪が溶け山に遊びに行ける暖かさになった、ということの象徴が桜だった。
山の中で見る桜は他の木々に混じって柔らかな美しさだった。
相撲の土俵があり素人相撲大会が行われた。土俵の回りは山の斜面を利用してすり鉢のような観客席がうまくできていた。気をつけないと下にすべり落ちてしまうのだった。
立派な茶店が出て、花見のときだけ売られていた揚げ(天ぷら)まんじゅうがあり、一年に一回だけ食べることができた。

花見は山でするもの、と思っていたので、東京に住むようになったとき、町中での花見には本当にびっくりした。
こんな家やビルなどに囲まれた場所で花見?という感じで興ざめだった。
もう慣れたけど、晴れ晴れと桜を楽しむことはなくなった。
写真を撮ろうとすると後ろの建物や家や何かの看板や電線がじゃまになる。
切り取ったようにそこだけが美しいというのはもの哀しさがある。

今年は好天続きのせいで、どこに行っても桜が目についた。
ソメイヨシノは咲く時期も咲きっぷりも同じなのであちこちで目にしているうちに何だか疲れてくる。

桜もだんだん散りかけてきて新葉の茶色とまざり汚れて見えるようになってきた。花が全部散って若葉が出そろうと、すっきりと淡い緑色になりまたきれいになる。

IMG_1774.JPG近くの公園
4月6日、まだがんばって咲いている。

IMG_1785.JPGサギの花
桜の木で寝るサギたち。綿アメのよう。いつも8羽くらいいる。

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スポーツについて [雑感]

サッカーのJリーグの浦和レッズの試合で、一部のサッカーファンによって「JAPNESE ONLY」と書かれた横断幕が掲げられ、そのまま試合が行われるという事件があった。その差別行為(差別的ではなく差別でしょう)の罰として観客なしの試合(3月23日)が行われたというニュースがあった。
新聞で、がらんとした球技場の写真を見てさっぱりしたな、と思った。
はっきりとペナルティを与えることで、「差別を断じて許さない」というメッセージをきちんと伝えることができたので良かったと思う。

ネット上で、横断幕がなぜいけないのか、そんなに大騒ぎすることか・・などの考えを目にした。
「Japanese Only という言葉は大きな差別だ」という非常に基本的なことから議論を始めなければならないとしたら大変なことだ。今の日本はそんなに大変な状況になっているのだろうか。

ネットは、他者を「攻撃」「軽蔑」「差別」するのに手軽なようだ。
人の心の中にあるイヤな部分、よく考えれば言葉にするのを自制するような考えや気持ちを、軽い調子で(2,3行の文で)ポンポン出している風に見える。
そして、それに対して同じような意見が手軽に寄せられ、安心感と共に、ある種の世界を作ってしまうのではないか。
攻撃的、差別的な者同士、まとまりやすくなったのだと思う。

これまでの人類の長い歴史を見れば、いさかいや戦争がずっと続いてきていて、もしかしたらそれが人間の性かと思ったりする。だとすれば、その性に逆らって「平和」を目指すことにはかなり高度なテクニックが必要だということだ。
短い軽い言葉では、とても「平和」については語ることはできない。


また今回の問題は国際サッカー連盟が控えているからきちんとした対応がなされたのでは、という気もする。日本国内だけの問題だったなら、どうなったかわからない。
一般の人々ではなく国民の代表である政治家が差別発言をしても、すんなり通ってしまう国である。普通の人が「このくらいどうってことない」と差別行為をしても不思議はないと思う。

さて、サッカーの試合のニュースを目にする度に、どうも「ああ、サッカーってイヤだな〜」と感じてしまう。何がイヤと言って、あの大げさな熱狂的応援ががまんできない。
応援席で知らない者同士、大声で叫び一体となって(?)応援している様子がたまらなくイヤなのである。感動を大勢で分かち合うのが最高だと思う人もいるだろうが、私はダメ。(子供の頃のサッカー遊びは楽しかったですよ。)

みんなで盛り上がることにも節度ある規模というものが必要なんじゃないかと思う。町内会くらいの規模とか・・。

サッカーだけではない。
ほとんどのスポーツは、多かれ少なかれ見たくない部分がある。
「体育会系」という言葉があったが、私はそれがそもそもすごく嫌いで、自然とスポーツは見なくなってしまった。
本当にそのスポーツが好きな人ならば、多少の難点があっても楽しもうとするのだろうけど。

オリンピックなどはスポーツにつきものの問題点に加えて、国の威信をかけたり、メダル争いばかり強調する報道だったり、政治利用されたり・・と、あまりに問題が多いため、オリンピックアレルギーを持ってしまうほどだ。
この間のソチ・オリンピックは、2020年のオリンピック東京誘致の問題も重なり、ほとんど見なかったという知人がけっこういた。

私は珍しく今回はちょっと見た。たまたま最初に見たのが「スキーの滑降」で圧倒的な迫力に目を奪われた。それからスノーボード。これまでオリンピック観戦をあまりしていなかったから、見たことのない競技ばかりで面白く、その技に恐れ入り「人間はすごいことができるんだな〜」と感嘆しながら見た。
そういう話を回りにしても見ていない人が多いので張り合いがなかった。あんなにすごい技を見ないなんて、なんだかもったいないような気もした。
(私は2020年のオリンピック東京誘致には反対で、オリンピックそのものにも賛成できないことの方が多いと感じていますが。)

スポーツ一つ楽しむにも、複雑な感情があって簡単なことではないようだ。

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都知事選の結果 [雑感]

都知事選は心配していた通りの結果に・・。
せっかくの「脱原発」へのチャンスがまた消えて、さらに後退した感じ。
投票率が46.14%と低かったのは選挙に何かを期待する人が少なかった、ということでしょうか。

得票を見ると、都民(有権者)の5人のうち1人が原発推進に積極的に賛成、ということになります。
そして、福島は安全、核燃料の処理も何も困る問題はなく、今後も原発を使い続けていって大丈夫だ、などと演説していた人を支持したのは、都民の17人に1人!
これはかなり厳しい状況です。

こういう状況を、自分には関係がないと言ってすませられるならいいけれど、
これから自分が直面しなければならない現実に大きく関わってくるから困るのです。


都知事選の前日に大雪が降って、いろんなものがキャンセルになり、家でオリンピックの開会式を観ました。(全部ではないけれど)
スポーツにはほとんど興味がないのでオリンピックもあまり観ませんが、雪景色に誘われて、夏より冬のオリンピックの方が親しみやすい感じです。

ソチオリンピックの開会式はちょっと見てみようかな、と思いました。
何と言っても開催国はロシア。クラシックバレエの本家です。アトラクションの音楽や踊りがどんなものか楽しみでした。

選手入場はいろんな国の人々が、みんな楽しそうに笑顔でいるのに妙に感心して、
でも、そういう笑顔の人たちに、「原発問題についてどう思いますか」とか質問したら、どんな答えが返ってくるのかな・・?などとつい考えてしまうのが、自分でも情けない・・。

アトラクションは「ロシアの夢」という、ロシアの国の歴史を物語にしたものという説明を聞いて、意外に思いました。国の歴史などというものを物語にして音楽やバレエで表現などできるのだろうか?!(そんなことをよく思いついたものだ)とちょっとびっくり。

さて、演じられた映像と音楽とバレエの世界はとても美しく、ああ、なるほど、こういう風にまとめるのか・・と思いました。
人間の世の、醜いところや悲惨な所はカットして、きれいな部分(悲しい部分もちょっぴり入れて)だけを、大ざっぱに掬い取ってまとめるとこんな風なメルヘンみたいな感じになるんだな〜、と思いました。
ロシアには偉大な芸術家や文豪がたくさんいるので、メルヘンにもある重しがかかって、立派な作品にまとまっていました。


国の歴史や、様々な出来事は、どういう風に捉えるか、によってまったく異なる風景が見えてしまいます。
大変な面というのは、見ないようにするとか、忘れてしまうとかし、良い部分だけを見ていた方が精神衛生的にも良さそうです。

でも、精神的には楽かもしれないけれど、現実というものは消えないわけで、いつどんな形で自分の身に降りかかってくるかわからない。
現に今、災難が降りかかってしまっている人たちのことを放っておいて「景気」のことばかり口にしていていいのか、と思います。

何が「景気」なのか、よくわかりませんが、
生活のレベルをほんの少し下げればすむことも、たくさんあるのではないかと思います。

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雪景色〜2014年1月 [雑感]

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雪景色というのは毎日見ても飽きない。
山では毎日少しずつ雪が降るのでいつもきれいなままの状態が続く。

こういうきれいな景色を毎日眺めていたら、人の精神にも何かしら影響があるのではないかと思ったりする。
寒さの厳しさは、雪の中だとさほど気にならない。
晴れていると、目にしみるような青空、真っ白な雪、黒々とした冬の木々、というものに囲まれ、うきうきしてくる。

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夕方には、夕陽が青と白と黒の世界をピンクやオレンジ色に染めて、もったいないような色合いになる。

そういう日の夜は、満天の星。
何分間、寒さをがまんできるかな、と思いながら、びりびりした空気の中で空を見上げる。
視界はところどころ林の木々に遮られるが、ほんの少し歩き回ると、地平線上のほとんどの星を見ることができる。

気温は、というとマイナス13度位・・たいしたことないな、と思う。
むしろ、この星空をマイナス13度で見られるなんて贅沢な気がする。

寒い場所での生活は、雪景色や星空を思う存分楽しめるということだ。
長野県は長寿だというけれど、きれいなものを日常見ているというのは大きなことではないか、という気がする。

やっかいなのは雪だけれど、
主要道路は除雪車がきれいにしてくれる。
大雪のときなど、明け方の3時すぎには、除雪車のゴーッという音が聞こえ出す。
たいていの家は小さな除雪機で自分の家回りの雪かきをしている。

ずっとそこで暮らしていれば毎日雪かきはできるけれど、2週間とか、3週間とか、間があいてしまうと、雪かきも大変な作業になる。
雪かきというのは激しい運動で、5分でハアハア言い始め10分で汗びっしょりになり、15分で、腰やら腕が痛くなり、顔をあげると、「まだこれっぽっち?」とガッカリするのである。

家にスムーズに出入りできるくらいの細い歩き道と駐車スペースをつくり終えると、もうグッタリしてしまう。
暖房を付けてもすぐには室温はあがらないけれど、雪かきのおかげで身体はほかほか。
そのうちにだんだん家が暖まってくる。
家が暖まると、屋根の雪がなだれ落ちてそれがまた山のようになる。
また雪かきである。

このくり返し。
日頃の運動不足が一気に解消してしまう。そう思えば雪かきも楽しくできる。
でも、健康でないとむずかしい・・

昔の人はじっと雪にうもれて春を待っていたのだろうか。
山に住む動物はみなとても元気そうだし、何と言ってもどんな動物も単独で行動している所がすごい。カラ類などの野鳥は混群をつくるが、別に協力し合って、という風でもない。
こんな寒いところで、その身のままで生きられるというのに感心してしまう。

年始めには、イノシシ(そんなに大きくなかったから多分、子供だろう)に出会った。
車の前にトコトコ出てきて、そのまま一生懸命、車の前を走って行った。イノシシを見たのは初めてだったけど可愛かった。

動物に会うのは何やら啓示的な気がしてしまうから不思議である。
今年もたくさん、野生動物を見ることができますように。

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言葉の価値の変化 [雑感]

安倍首相が靖国参拝というニュースがくり返しくり返し流れていた。
日中、日韓の関係悪化への懸念もさかんに報道される。
またか、という思い。

こういう報道を聞いても何も感じなくなってきた。
この人は靖国参拝をしたい人なのだからそれはどうにもならないことだ。
それにたいして中国や韓国が反発してもそれもどうにもならない。

安倍内閣を支持する人が5割もいるのだから、安倍首相の行動が間違っているだの何のいっても始まらない。
中国や韓国との関係悪化を心配する人もいるが、中国や韓国は嫌いだという人もたくさんいて、そう思う人たちをどうすることもできない。

政治家の顔をニュースで見るとうんざりするので、なるべくテレビを見ないようにしているが、悪い政治家(私から見て)がいるのは仕方がないことだと思うようになってきた。
一人の政治家が問題なのではなく、そういう政治家を支持する人たちが問題なのだと思うから。


この年は、これまでで一番ニュースやら世の中の流行やらを見ないようにしたが、そのせいで、いつもかなり時代に取り残されている感じがする。
まるで浦島太郎になったような・・。

今年の流行語候補30だか50だかを新聞で見たときも、知らない言葉がたくさんあり、聞いたことはあってもこれは流行語じゃないだろう?と思う言葉ばかり。
何が流行っているのか、それはどこで流行っているのか・・ほとんどわからないので、さすがに一瞬、これではまずいかな、と思ったほどだった。

でも実際のところ、こんな流行語(どれもすごく下品・・使いたくないです)を知らなくても、どうということはないのだ。
世間で何が流行っているか知らなくても、世の中が危ない方向へ向かっていることは感じる。

そしてまた、こういうばかげた言葉が流行っているのが世間だとしたら、世間というのは何と幼稚になってしまったのだろう・・と、そっちの方が気になる。
テレビの影響が大きいのだろうか、それとも雑誌だろうか・?


新聞を読むかぎり、ある流行を作り出すこととは無関係に見える。
ただし、「これが今年の流行語だ」と新聞に載せたりするから信用できない。
そういうものにすり寄って紙面に載せないと、部数が伸びない?
以前、AKBとかの国民投票なんて記事を<天下>の毎日新聞が扱っていたのに仰天した。なんかAKBを知っていることが当たり前という前提だった。
知らない人は人並みじゃないみたいな・・。

世の中、AKBニュースや流行語に対して、積極的に、またはすんなりと受け入れる人たちと、そういうものにまったく疎くてくだらないな〜と思うタイプの人たちと、興味はないけれど特に反発心も持たないでふ〜んと通りすぎてしまう人たち・・と3つのタイプがあるようだ。

そういえば、政治界のことでも芸能界のことでも、わりと下世話な裏話をけっこう知っている知人がいて、不思議に思ってその知識の出所を聞いたら、電車の中につり下がっている雑誌の広告だということだった。
私なんか、どぎつい見出しが目に入ったらもう見ないようにしてしまう方だけれど、そういうものを見ていると今何が話題になっているかが一応わかるらしい。
雑誌というのはけっこう影響力を持つもののようだ。

中国や韓国のことを悪く言う人がいて、「一体、そういう話(他国の悪い噂みたいなもの)をどこで仕入れてくるのか」と聞いたら、雑誌の知識だった。
一つの雑誌を鵜呑みにしないほうがいいよ、と言ったけれど、どっぷりはまっている感じだった。


私に言わせれば、今世間で何が話題になっているか、なんてどうでもいいことに思えるので、たまに、そういうことにくわしい人に聞いてすませている。
だから数ヶ月おくれの情報だったりする。

でも、今の時代は、現在ある情報が、次の別の情報にすぐに取って代わられてしまうので、情報というほどの意味もなくなってしまったようだ。

安倍首相靖国参拝のニュースがくり返し報道され、そしてこの人の口から出る「二度と戦争の惨禍があってはならない」とうもっともらしい言葉も同時に何度も流された。
平和を考えてくれている人なのか、と勘違いする人だっているだろう。


「本音と建て前」という言葉があるけれど、今の政治界はそんなものとっくに通り越して、もう「ウソと本当」の時代になっていて、いくらでもウソをついてもいいことになっているかに見える。
何を言っても許されてしまうのだから。
居直って「そういう意味ではありません」と言えばそれで終了。

もう言葉の価値が変容してしまったのだ。
逆に言うと、いくら大事なことを伝えようとしてもそれは伝わらない、ということにもなる。
言葉がフワフワしていては、その言葉を用いて何かを伝えたり議論したりということは、ほとんど不可能のように思えてくる。

情報過多と、言葉の意味がどんどん薄まっていること・・これが、とても危険なことだという気がしてならない。

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