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情けない新聞報道 [社会]

今日(9月7日)の毎日新聞のオピニオン。
8月30日の国会前大集会のニュースを翌日(8月31日朝刊)各紙がどう扱ったかという記事だった。

私は毎日、読売、東京新聞を比べて見たが、正直言ってとてもガッカリした。
私が購読している毎日新聞は一面を半分ほど使っての記事だったが、トップ記事ではなかった。
トップ記事は「訪日客向け『民泊』拡大」という見出しで、なぜそれが安保法案反対の最大規模の集会の記事よりも大事なニュースであるのか全く理解できなかった。
新聞社の中にもいろいろな部署があり、報道部がいかにがんばってこの大事態を報道しようとしても上のどこかで止められてしまうのだろうか。
今回ばかりは、もう新聞は止めようかと思った。「特集ワイド」でいくら識者の素晴らしい意見を載せてくれているとしても、安保法案に反対する必死な人々の思いを大切にしないような新聞はもう読みたくない。

朝日を購読している知人が、朝日も同じような感じだ、と言っていた。
どうせそうだろう。

読売新聞なんか、ニュースがどこにあるのかなかなか見つからず、やっと一番後ろの社会面にほんのちいさな記事。問題外。悪意を感じるのみ。

東京新聞だけが、大集会の報道に一面全部を使い、紙面いっぱいに国会前に押し寄せた人々の写真を載せていた。
国会前のあの写真は非常にインパクトがあるので、あれを大きく載せるかそれとも小さなサイズにして載せるかは、ものすごい違いになってしまう。

その8月30日、私は大集会が終わる3時頃国会前に行った。
抗議表明をするために出かけていくのだから、時間は自分の都合のつく範囲に出かけることにしている。どこの団体に参加するとかは関係なく、できる範囲で参加する。
一ヶ月ほど前に行ったとき、みんながんばっているな〜、特に若者が目立つな〜、という感想を持った。
でもまだまだ集まる人が少ないと感じたし、この10倍(10万人)くらい集まればいいな、と思った。

でも実際に10万人集会の規模になると、参加するのも容易ではない。
何回目かの集会に友人が出かけたときはかなりの人出で、「身の危険を感じるくらいで、早々に退散した。」と言っていた。
私も人混みは大の苦手で、人がぎっしり集まり身動きできない状態というのは、考えるだけで怖ろしく、それで8月30日も時間差で参加した。
大集会は散会していたが、私と同様に遅い時間にもどんどん人は集まって、スピーチ、シュプレヒコールが行われていた。
私が行ったとき、スピーチ、シュプレヒコールの中心になっていたのは、SEALDs(?)だったが、中年の人、年配の人、一人静かに離れたところに立っている人・・など、要するに年代を超えて安保法案に反対する人が集まっていたのだ。

若い人のスピーチは新鮮でなかなかいいものだなと思った。
シュプレヒコールはとてもリズミカルで、「アベは、やめろ」「アベは、やめろ」が二拍子で繰り返されていたかと思うとそれがすっと「ア、ベ、は、や、め、ろ」の三拍子に変わったり、「集団的自衛権はいらない」は8拍、「集団的自衛権は許さない」だと9拍というふうに自由自在に拍子を取る。「自民党ってなんか感じ悪いよね」などという長い言葉もうまく9拍のリズムに乗って唱えてしまう。
すごく感心した。
(私の時代だと「○○、はんた〜い!」と生真面目で単調なシュプレヒコールばかりで、私はこのシュプレヒコールがとても苦手で、ほとんど声を出さなかった。)

共産党の「赤旗」の号外がもう配られていて、この日の大集会がいかにすごいものだったかを写真で見て震撼した。

あの集会を警察が3万と発表し、主宰者側は12万と発表し、自民党の幹部の誰かが「なぜこんなに違うんでしょうね〜」とせせら笑うような発言をしていたが、写真見てわからないのか、と思った。
競馬中継などで「今日は8万人の観衆です」だの「10万人もの人が・・」など言っているのを聞くと、「これだけの人が国会を取り囲んでくれたらな〜」など、時々ばかげた空想をしてしまう癖があるけど、
この日のこの写真の国会前の人の数は本当にすごかった。
「数は問題じゃない」などという人がいるけれど、あの写真はまぎれもなく10万以上でしょう。
あの中にいなくて良かった、と思ったほど。
いったん中に入ったら身動きもできないだろうし、大勢のけが人が出ても不思議ではない。
だからイラク戦争の時、各国で200万人だの100万人だの80万人などの戦争反対デモのニュースを聞いて驚いていたけれど、もっと驚くべきだったのだ・・と思った。
日本は道路も狭く、広場も狭く、何十万などという人が集まったら危険すぎてそんな集会はできないだろう。

あとは国会前のみならず、地方でも大集会が同時に起これば効果があるかもしれない。
地方でも反対の声はしっかりあがっているが、規模が小さく少人数集会が多いのでトータルとなると、政治家に見くびられてしまうのだろうか。

8月のある週末に長野に行ったとき、どこかで集会をやっていないかな〜と思い、ネットで調べたら、その日に所用で行く予定の中野市のバラ公園での集会というのを見つけた。
ちょうど良かったと思って急いで用事を済ませ1時間だけ参加したら、小さな可愛い公園で思った通りの少人数の集会。
ステージで歌う人に合わて歌を歌ったり、絵本の読み聞かせがあったり・・とても静かでなごやかな雰囲気だった。
小さな子供を連れたお母さん達が多かったから、あんな感じが合っているのだな、と思った。
驚いたのは中野市長さんからのメッセージが届いていたこと。
そして、そこでもらった9月6日の「歴史にマナブ、事実をマナブ〜歌い語り継ぐ平和へのメッセージ〜」という集会のチラシにも、後援が、中野市と市教育委員会となっていて、今どきこういう市町村があるのだ、と本当に驚いた。
信濃町でも平和を語り継ぐ会が、信濃町、信濃町教育委員会の後援で行われ、町長さんの挨拶もあったという。長野ではけっこうそういう自治体があるのだろうか。
(長野県は2014年7月の集団的自衛権の閣議決定に反対表明を出した自治体数が全国の中でも群をぬいて多かった。)

自民党は国民がいかに反対しようとお構いなく安保法案を通すと堂々と言っている。
違憲の法案を「国民を守るために必要」などと偉そうに言う。
憲法に抵触するような法案を、与党の議員数を武器にして通してしまうのか。

世論と深く関わるメディアは、それに真っ向から反対しないのか。
違憲法案が決まってしまうという大事な局面で、政治から距離を少し置いて無難にやり過ごそうというのか。





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教育と政治 [教育]

2006年12月6日、教育基本法改定が参議院を通過したときの失望感、絶望感は大きかった。
これから日本の教育はどうなってしまうのだろう、この先どういう社会が待っているのだろう、という不安がぬぐいきれなかった。
「まだ日本国憲法がある」という言葉が、教育基本法改悪に反対した人達の間でなぐさめのように言われたけどあまりなぐさめにはならなかった。
それから8〜9年を経て、世相は確実におかしな方向に変わってきた。

安保法制に反対する人達を批判する人は、「まるで今すぐ戦争が始まるようなことを言うのはおかしい」などと言う。
戦争は今すぐ(この1,2年以内)に始まるということは可能性としては低いかもしれない。
簡単に戦争を始められるものではない。
今、集団的自衛権などの安保法制に反対するのは、10年後、20年後のことが心配だからだ。
時間をかけてゆっくりと知らず知らずのうちに、戦争態勢というものは作られていくのだろう。

戦争をする国になるためには国民の心がその方向に向かうことが必須だ。
だから、権力者は「教育のあり方」を気にする。戦後、この教育基本法を変えようとする動きは何度もあったがかろうじて守られてきた。
第一次安倍内閣が、教育現場の猛反対を押し切って(大きなエネルギーを使って)、教育基本法を変えたことは、8年後の集団的自衛権の内閣決議に見事につながっていた。
そういう目的があればこそ、教育基本法を変えたかったのだろう。
ほとんどの人々は、暮らし向きや経済の心配はしても、教育のことなどあまり気に留めないのだから。


政治家でも、一般の人でも、その人がどういう考えの持ち主かを知るには、「教育というものをどう考えるか」という一点だけを見れば十分だと私は思っている。
「教育」にこそ、人間の考え方が如実に現れる。

羽仁五郎の言葉
「教育というものは自由でなければいkない。教育と権力はあいいれない。つまり命令されて人間はいい人間になれるわけがない。自分でなろうとしなければだめだ。上から命令すればするほど自発性はなくなっていく。教育の根本はその自発性なのだ。」

教育基本法を変えたのは、まさにその『教育の自発性』をそぎ落とし、制限するのが目的だった。
今の学校は、小学校から大学まで権力が幅をきかせている。

自民党の国会議員の、
「若者が戦争に行きたくないなどというのは自己中心、利己的考えで、その原因は戦後教育のせいだ」という発言は、権力者の気持ちというものを知る上でとてもわかりやすい。

「権力」は、子供や若者に自発性を持たせたくないのだ。
教員に子供や若者に自発性を持たせるような教育をさせたくないのだ。
「権力に従わせる」「権力に進んで従う人間を作る」のが権力側の理想だろう。
そこでまずは「愛国心」を育てるという目標が生まれる。全国津々浦々に国の威光を示すために、入学式や卒業式を使う。君が代を強要する。国への忠誠があるかどうかの踏み絵がわりだ。

教育の内容にあれこれ口を出し、自由な発想を教育現場で生み出させないよう、いろんな意味のない研究会、調査、報告、レポート提出などを押しつけて、教員の時間を奪ってしまう。
無理矢理に「学校間の競争」を取り入れて、学問の場から矜持を奪ってしまう。


これが今の日本の教育の実態だ。
こういう教育環境の中で、安保法制に反対するSEALDsや高校生の集まりがよく生まれてきたものだと思う。
権力がいかに国民を手の内に納めようとしても、それは簡単ではない、ということだ。
それでも、場合によっては戦前の日本のように国のためには命を投げ出すのが当たり前、という雰囲気が一気に生まれる可能性が無いとは言えない。

15、6才頃の純真な(信じ込みやすい)心には、家族や国を守るためには命を捨てるという考えが、容易に入り込むだろう。かつての特攻隊員がそうであったように(痛々しい)。
これが「洗脳」だ。「偏向教育」の最たる例だ。

憲法を遵守し、憲法の精神をしっかりと児童、学生に教えていくのが教育者の務めだと思う。
どうか権力に負けないでほしい。

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安保法案反対集会〜国会議事堂前 [社会]

昨日、国会議事堂前の安保反対集会に行ってきた。
どうせたいした人数は集まらないだろうと思ったけれど(教育基本法改悪のときの憂鬱な経験をどうしても思い出してしまう)、友人が、それならそれであきらめがつく、と言うので、それもそうだと思い議事堂まで行った。
この目で見て、あきらめるために集会に行った。

7時前に着いて辺りを見回して、相変わらず年のいった人(私も入る)ばかりだな、と思った。
国会周辺はいつもながら暗くてよく人の顔が見えない。そこに来ている人の数より機動隊の車のほうが目立っている。
7時頃になるとだんだん人が集まり始めて歩道もいっぱいになった。

スピーチとシュプレヒコールが始まると、若者が多いことがようやくわかってきた。自分の回りの声がみな若い、というのは不思議な感覚で、また感動的だった。

こんな法案が通って戦争でも始まったら悲惨な目にあうのは若い人たち、そしてその子供たちなのだ。

「戦争するな」「未来を守れ」「子供を守れ」「アベはやめろ」・・のシュプレヒコールは、実に自然に耳に響いてきた。
がんばってね、心の中でエールを送った。

集まった人は1万5千人くらいと聞いた。この10倍集まればな〜と思ったが、若い人たちが一生懸命に自分の気持ちを表現していることは、ひとすじの光明のように感じた。


安保法案反対のために国会に行ったのだけど、議事堂周辺では「原発再稼働反対」の集会ががんばっていて、今、この国は「原発再稼働」「安保法案」「沖縄の新基地問題」と、せっぱつまった問題を3つ同時に抱えていて、その上、表現の自由の弾圧や、新国立競技場の問題・・、一体、どうなるのだろう。これらの深刻な問題の根っこがすべて一つの処にあるいう状況がすさまじい。


*15日には国会前に集まった人数は6万と聞いた。
この日は私は都合がつかず行かなかったが、参加した友人から、近寄れないくらいすごい人、とメールが来た。いったん中に入ってしまうと抜け出せないと。。
国会前に行くときは、水、おにぎり、懐中電灯、タオルをしっかり持っていくようにしよう。

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安保法案討論に思う [社会]

国会中継や党首討論をたまに見ると本当に頭が痛くなる。
本音はどうなのかを常に探って聞いていなければならないから疲れる。
誠実さが一向に感じられない「国民の命、暮らし、幸福に暮らす権利を守る」という言葉が繰り返されるのを聞いて不快になる。


国会では政府の安保法案の不備を民主党が(維新は問題外として)細部にわたって追求していたが、肝心の「平和憲法を守ることが大切だ」という主張が抜けているように感じた。
「違憲だ」と言うだけでは、「憲法を変えてからやれ」という主張につながるだけで、憲法9条の意味の大切さを伝えてはいない。
そういう主張の方が世間の多くの人の支持を受けやすく、採決を遅らせるためには「手続き論」「法制不備論」で勝負するのが効果的だからだろうか。

それにしてもほとんどの政治家が憲法9条の重みを感じていないように見えるのはどうしたことだ。
確かに、「戦後70年の平和」な期間の中で、憲法違反と言われながらも、自衛隊がつくられ、その活動範囲も次第に広がり・・ということが強引に進められてきた。
「それでも平和を保てた、だからこれで良かったんだ」という考え方の延長線上に「集団的自衛権」もあるのだろう。
憲法9条の重みなどすっぽり抜け落ちた考えだ。


昨日のNHKスペシャルの党代表者の討論では、高村副総裁が吐き捨てるように、「日米安保のおかげで戦後70年の平和が保てたのじゃないか」と平然と述べるのを聞いて唖然とした。数秒間の沈黙があった。
「何を言うか!」「勝手な決めつけをするんじゃない!」と怒鳴り声が出るべき発言だったと思うが・・。

政府が(一部の表舞台に立っている政治家だけが)この世の中を動かしていると思っているとしたら大間違いだ。
もちろん、政府の判断が社会を良くしたり悪くしたりする力を持つのは当然だ。それが権力というものだから。
でも無名の大多数の国民にもすごく大きな力はある。
政府が間違っているというときには、国民の力はそれを止めようとする大きなブレーキになっているはずだ。
戦後の日本政府が自衛隊をつくり、事実上の軍隊として装備や活動範囲の拡大を進める動きを示したときに、「憲法9条を守れ」という国民の声がどれほど大きな抑制力となったことか、と思う。

国民自身はそんな力があることを自覚していなくても、また、政治には関心を持てずどうでもいいと思っている人が多くても、「憲法が国民のものである」という大前提があるために、政治家はむやみやたらなことはできないのだ。

高村の「日米同盟のおかげで平和が続いてきた」という言葉には、「国民が憲法9条を持っているためにこれまで平和が続いてきたのだ」という言葉を返したい。

選挙の度に投票率の低さが問題になるが、
逆の見方をすれば、それだけ政治家は信用されていないということだ。自分たちの代表としてふさわしいと思われる政治家がいないということだ。

こういう投票率の低さでは、財界やマスコミを金で囲い込んだ政治家によって、悪政がますます進むかもしれない。
無関心な国民が多ければ何でもできる。
だが、それを「国民に全権委任された」と思うのはとんでもない間違いだ。
単なる政治家の奢り。
自己満足に浸って下手な踊りを踊っている滑稽な姿に見える。
政治家もそれがわかっているから、悪法を通すときには急ぐ。
自分が国民に信頼されているという自信があれば、反対意見にも自ずから耳を傾けるだろうと思う。

「人間同士の殺し合い、戦争をしないですむ方法」を考えることこそ、政治家にやってもらいたいことで、憲法9条は時代にそぐわないなどというのは浅はかな考えとしか言いようがない。



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政府とマスコミ [雑感]

4月28日の朝日新聞の一面の見出しは『自衛隊の米軍支援拡大』『日米防衛指針18年ぶり改定』というもので、頭がクラクラした。
日頃ニュースをざっとしか見ていないので、私が知らないうちにそんな事が決定されてしまったのかと、愕然とした。
記事の小見出しには、『集団的自衛権を念頭』、次に続く<解説>では小さめの見出し(大見出しの3分の1くらいの小ささ)『安保条約の枠超える』とあった。
さらに2面の大見出しは『既成事実化急いだ政権』とあり、小見出しが『安保法制の国会論戦に先行』。

見出しだけ見ると、「自衛隊の米軍支援拡大」がすでに国会で決まったことのような感じだ。
国会でも論議されていないことを平気でアメリカで演説するということは、ひどいというより常軌を逸した行動としか思えない。
大体においてアベ首相が連発する「積極的平和主義」という言葉が、まったく胡散臭い。
言葉をでっちあげて、武力行使が正論である、と見せかけている。
難儀ではあっても、戦いを避け、あくまでも話し合いで物事を解決しようとするのが本当の「平和主義」ではないか。戦争を前提にしてしまったら、それはもう「平和主義」ではない。


「積極的平和主義」などという言葉を用いて、武力拡大を目指したがる首相を持ったことは、本当に悲劇である。
どうやってこの悲劇をうまくおさめるか、手立ては簡単に見つかりそうにない。
個人の発言などよほどの幸運(そういう声が集まって大きな力になるという幸運)がない限り、埋もれたままである。
新聞やテレビやラジオなどのメディアに期待するのは無理なのだろうか。
政治家ではなく、マスコミに期待を寄せる?・・なんだか倒錯している。
それでも、ニュースを報道するということに大きな責任を持ってほしいと思う。
マスコミが権力の広報マンになってしまったら、報道は簡単にゆがめられる。
そうなったら、民主主義というものは崩れ去ってしまうだろう。マスコミを味方につけた政権ほど怖いものはない。

4月1日から朝日新聞の購読を始めた。ずっと毎日新聞だったが、新聞販売員の勧誘に負けて3ヶ月だけ朝日新聞を取る契約をした。従軍慰安婦の間違い取材記事が問題になるよりもずっと前の事だった。

アベ首相が朝日新聞の批判を始めたときで、販売員の人は「どんどん購読者が減っているんです。お願いします!」と悲壮な感じ(ふり?)一応なぜ購読者が減っているのか尋ねたら、新聞が左がかっているといううわさがあるんです、との返事。
つい意地悪く、「それは逆でしょう。朝日新聞は以前はもっと権力にしっかり批判的な立場を取っていたのに、最近はどんどん権力よりになってきているんですよ。」と言った。
「え、そうなんですか。」と若い販売員は不思議そうな顔。
ともかく、つい気の毒になって契約をしてしまった。

4月1日、新聞を眺めたら、何か記事の印象が曖昧で雑然として何を書こうとしているのかはっきりせず、気持ちが悪い。(あ、新聞が変わったんだ・・)
一週間ほどこんな状態が続いて後悔していたが、中旬には良い記事もあった。
そしてまた、今回の釈然としない記事である。
新聞社の方針がはっきり定まらず、まるで「まだら」のような印象を受ける。

記事の内容で多少批判的な事を述べていても、読者を惑わすような大見出しをつけては、何を言いたいのかわからない。
見出しと内容がちぐはぐなのは、政府にもいい顔を示したいためだろうか。

今の政府は、憲法も国会も知事の意見も何もかも無視して、やりたいことをどんどん既成事実化して強引に進める酷いやり様である。
その政府をマスコミが後押ししていてはどうしようもない。
大半の人々は、テレビを見たり新聞を読んだりして、ああこうなったのか、と思ってしまうに違いない。一度決まったことは簡単には変えられないだろうな、と考えてしまうに違いない。



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桜の季節 [雑感]

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IMG_5284.JPG4月4日

今年の花見の季節も無事に終わりそう。
外出のついでに足をのばし、草加市の葛西用水路沿いの桜をわざわざ見物に行った。
前日の強風で桜の花がだいぶ散っていて、川は花びらで埋めつくされ、ストロベリーシェークみたいな色に染まっていた。
曇り空だったけれど、土曜日なので花見の人がけっこういて、みな食べたり飲んだりしていた。
おじさんバンドが元気よく賑やかに演奏していた。

以前の私なら、花見でちょっとしたおいしい物を食べたりお茶を飲んだりするくらいは許せるけれど、
大きなテーブルを広げたり、ゴミを持ち帰らないためにゴミ箱があふれていたり、風で色々な物が汚らしく散らかっていたり、カラオケやらが大音響を出していたり、という光景を目にするのが我慢できなかった。
極力人混みには近づかないようにしていた。

今年は花見をする人びとを見てもあまり腹立たしくはならなかった。

そんなことに一喜一憂している時代は過ぎ去ってしまった。
花見客のだらしなさなどを気に病んでいるようでは、今の日本ではとうてい生きていくことなんかできないのだ。

静かに普通の生活を送りたいと思っても、「原発問題が片づいていない」「基地問題は理不尽でめちゃくちゃ」「集団的自衛権やら何やら、きなくさい事がどんどん進められ、それを止められない」という現実をつきつけられていては、日常的に神経がかなりのストレスを受けている状態だ。
心おたやかに過ごすことなどとうていできないものである。

だから、花見のばか騒ぎなんかに目くじら立てる余裕はすっかりなくなった。
これまで、いろいろな絶望感、挫折感は味わってきたけれど、こんなに社会的危機を感じることはなかった。また危機を前にしてこれほどの無力感を感じたこと、もなかった気がする。

どう考えても許しちゃいけないでしょう、と思うことが素通りして行く。

現政府の暴走を何とか止めなくてはと誰しもが感じているはず、と思っていたら、それはとんでもない間違いで、「こんなひどい事が・・」と話題にすると、

「え〜っ、そうなの?」と初めて聞いたような返事だったり、
「そんなにひどいとは思わないな〜」というような反応だったり、

大方の人は、今の社会について特に心配はしていないようだ、ということがわかってきた。自分の身に直接ふりかかってくること・・給料が安い、労働環境が悪い、生活がしんどい、という不満はあっても、それは政治とは無関係に感じる事で、政治が変われば、という意識にはならない人が多いようだ。

もちろん、政府のせいで戦争にまきこまれそうになっている、などと考えている人はとても少ない。
むしろ、政府は「国際情勢における不安要素をとりのぞこうと強い姿勢を示してくれている」などと、私とは正反対の受けとめかたをする人の方が多いようだ、と最近わかってきた。

これじゃ、政治が変わるわけはないなあ・・という気持ちが強くなり、
同意見の人たちとたまに話したりすると、ちょっと元気にはなるものの、
少数意見ではどうしようもない。

というわけで、逆境に耐える姿勢を少しずつ身につけた私にとって、
今年の花見は苦痛のかけらもなく、何でもなかった。
人は見ずに、ただ桜だけを眺めていられた。

葛西用水路は1590年に徳川家康が進めた利根川東遷事業で作られてきたもので、埼玉東部から東京東部を流れる。(同じく埼玉・東京を流れる見沼代用水、愛知県の明治用水とともに、日本三大農業用水とよばれる)

用水路沿いの桜は古木が多いが、それでもずっしりと花をたくさんつけていて見事だった。

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日本国憲法第9条について思う(その2) [社会]

産経新聞は、

<憎しみの連鎖を断たねばならぬ、というご高説は一見もっともらしい。>

と、憎しみの連鎖を断つ、という考えをまっこうから馬鹿にした記事を書いた。

<仇をとってやらねばならぬ、というのは人間として当たり前の話である。>

仇をとる、などと普通の庶民が考えることだろうか。
この記事を書いた人がそう思ったのだろうか。
現政府は仇を討たなければ、と思うだろうか。

そして、
<第一、日本にとっての「悪夢」の始まりだ」と脅すならず者集団を放っておけば、第二、第三の後藤さんが明日にでも出てこよう。
日本国憲法には、「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信頼して、わが国の「安全と生存を保持しようと決意した」とある。

「イスラム国」のみならず、平和を愛していない諸国民がいかに多いことか。
この一点だけでも現行憲法の世界観が、薄っぺらく、自主独立の精神から遠く離れていることがよくわかる。>

これを書いた人は「平和を愛している人」と言えるだろうか。
平和を愛する人間なら、簡単に仇をとるなどと、言わないし思いつかないだろう。

<護憲論者のみなさんは、テロリストに「憲法を読んでね」とでも言うのだろうか。命の危険にさらされた日本人を救えないような憲法なんて、もういらない。>

<護憲論者のみなさんは・・>と人を馬鹿にしたえらそうな物言いには本当に驚く。
これが新聞記事だなんて、信じられない。
私のように、素人が一人で勝手に、細々と、そのときどきの感想を書きとめているブログではないのだ。

「護憲論者」と一括りにして、憲法にすがって生きている人、というイメージを作り出そうとしているように見える。
<「憲法を読んでね」とでも言うのだろうか。>とは、一体どの口が言える言葉だろう。

憲法はあくまでも人が決めた法規にすぎない。
今、憲法を変えようとする動きを封じて「憲法」を守ろうとしている人たちは、ただ「憲法」だからという単純な理由ではないと思う。

もちろん「憲法」を守るというのは、民主主義国家においてはもっとも大事なことである。
国の基盤をつくっている「憲法」を、少数者が自分の都合のために、真面目な議論もせず、ごまかしながら変えようとしたら、それは大問題である。
民主国家が崩壊することになる。
(現に、そういう事態が始まりつつある。)


だが、それとは別に、日本国憲法の示している国の在りようが、非常に優れたものだ、ということを多くの人が感じているから、「憲法」を大事にしようとしているのだ。

薄っぺらな世界観?
どっちが?

やられたらやり返す、というのが薄っぺらな世界観ではないとでも?

理想を持つ人々を馬鹿にする発言には本当に腹が立つ。
こういう記事を書いた人、また、こんな風に思う人に尋ねたい。
「どうやって仇を取るのですか?」と。

自衛隊を派遣して人質を救い出す、などと言う者がいるが、現地に行って一体何をやるというのだろう。何ができるのだろう。
途方もない話、「荒唐無稽」とはこのことだ、と私は思う。

平和な国際社会をめざすことを願って、「日本国憲法」を実際に多く人に(海外の人にも)よく読んでもらい、議論したり考えてもらうことは、本当に小さなことではあるが、平和への具体的な一つの運動になりうると思う。

(でも、「憲法」は立派でも、昨今の政府の動きを思うと、「日本にはこういう憲法があります」とは、恥ずかしくてとても言えませんね。悲しいけど・・。)

それにしても一新聞が(新聞といえばきちんとした組織があり、読者もいて、それなりに社会的な影響力というものをもっているだろうし、それを認識もしているだろうに)、こんなくだらないことを下品な口調で平気で書くようになったのか・・と何とも暗澹たる気持ちになる。



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日本国憲法9条の意義を思う [社会]

ここのところ社会の動きが慌ただしく、ニュースを追うだけで精一杯になっている。
日本の「平和」が危うい感じが日に日に強まる。
70年間続いた「平和」も現政府の手で、雪崩のようにくずれてしまうのだろうか。
10年先はわからない、とはよく言うことだが、この勢いだと1,2年先のこともおぼつかない気がする。

ISによる人質事件では、現政権がどんなに危険な方向に日本の社会を引っ張って行ってしまうのかを、まざまざと見るような思いがした。


2月5日の、衆院の「イスラム国」に対する非難決議文には怒りを覚えた。
決議文には、
<非道、卑劣極まりないテロ行為を行ったことを強く非難>
<テロ行為は、いかなる理由や目的によっても正当化されない>

と、当たり前のことが述べられていて、

<我が国および我が国国民は、テロリズムを断固として非難するとともに、決してテロを許さない姿勢を今後も堅持することをここに表明する。>
とある。


この決議文を見てまず感じたのは、こういう決議というのはどういう意味をもつのだろう、ということだ。
テロは許されない行為だ、とは、誰もが思うことだろうし、人の命をもてあそび殺すという残忍な行為を許せないというのは当たり前の感情だ。

ではどのようにして「許さない姿勢」を示していくのか。
そこがはっきりしない。
そこが、肝心なところではないのか。
この決議文にはその肝心なところが抜けている。

決議文には「我が国及び我が国国民は」という言葉(しつこく二度も繰り返し)が入っているので、<私の考え>も勝手にこの中に含まれていることになる。
それはとても理不尽なことだと感じる。
きちんと道筋が示されていないのに、どうやって意見を持てるだろう?


「テロとの戦い」「テロには屈しない」という言葉には、<どのようにして>という一番肝心な所が抜け落ちている。

この決議は、自衛隊の活動範囲をどんどん拡大して、自国防衛という目的で(名目で)他国を攻撃できるようにする条件を整えるための意識づくりだ、という気がした。
そういう決議に「国民は」という言葉を使い、「私」も含まれてしまうのは心外だ。

テロを認める人は誰もいないので、こういう決議文はすんなり通っていく。
だが、「どのようにテロをなくしていくか」という点について具体的に何も示していない決議とは何だろう。
「テロが起きない社会をめざそう」という決議なら納得できる。
「断固許さない」では何の意味も持たない。なぜこんな決議文が採択されるのか不思議でならない。

人質事件において現政府は何をしたのかについては今でもはっきりわからず、「いろいろ交渉はした」という言葉のみ。


テロを起こすような集団は極悪人の集まりだから、交渉なんかしないで武力で撲滅するしかないのだ、ということなのだろう。
でもそれを明言しない。

そういうことを日本政府が明言した場合、「武力行使などしても根本的な解決にはならない」「武力を使えばさらに多くの人々の血を流すことになる」「戦争が何の罪もない人の命をどれほど奪うものか忘れたのか」という大合唱が起こる可能性もある。
うやむやにしておいた方が政府には都合が良いだろう。

「テロとの戦い」「テロには屈しない」という言葉が世間に通っているのは、武力行使という言葉を表に出さないからだろう。

武力に武力をもってしても何も解決にはならず、武力というものは、「人命尊重」からもっとも遠い所にあるものだということは、これまでの歴史や今日の国際情勢を見てもはっきりしていることだと思う。

決議文の
「このようなテロ行為は、いかなる理由や目的によっても正当化されないものである。」の
「テロ行為」を「武力行使」と言い換えたらいいのではないか。


武力に真の力などないことを常に忘れないようにしていないといけないのだと思う。
その道しるべとして日本国憲法9条がある。


憲法9条、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」を、国際社会に向けて発信できないものか。
(憲法を変えて他の国と同じようにしたい、と願うような政府には、思いつきもしないことだろうけれど)


「戦後の大改革」と称し、まがりなりにも70年間続いてきた庶民の「平和な生活」を少数の人たちが揺さぶることは許せないし、まったく理解しがたい。


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2014年衆院選について [社会]

衆院選の結果は大体予想通りだったので、さほどひどく落胆はしなかった。
投票率の低さも思った通りだった。
投票したい政党や政治家が見あたらなければ、人はわざわざ投票にはいかない。
今の政治にどのくらい危機感を持っているかどうかも人によってかなりの違いがある。
まして、今の政府の暴走を止めるために、良いとも思っていない政治家や政党に一票投じるべきだというような知恵を働かせて行動する人はそう多くはいないだろうと思う。(プロの政治家の集団である政党でさえ、結束すべき時に平気で野党同士、足の引っ張り合いをするくらいなのだから。)

今回の衆院選の投票率は戦後最低の52.6%。
そして投票した人の33%、つまり有権者の17%ほどが自民党を支持して、自公政権は安泰という結果になった。

それでも今回の投票結果には世の中の変化が多少現れていたと思う。

私のいる地域は自共対決になった。
私としては誰に投票するかあれこれ考えずにすむので楽だったが、掲示板に自民党と共産党のポスターだけが貼られているのはちょっと異様な眺めだった。
掲示板の前に立ち止まって2枚のポスターをしげしげと見ている人がいたりして、その光景もまた不思議な感じがあった。

結果は、自民党候補が128938票、共産党候補70074票。
敗れたとはいえ、共産党候補を支持した人が7万というのは、かなりのインパクトがあった。(7万人といえば小さな市の全人口を上回ってしまう数字だ。)

共産党の選挙応援活動をしていた人が、
「7万も支持してくれた人がいたのに驚いた。選挙運動の成果というのではなく、みんな自ら進んで票を入れてくれたという感じだ。逆に言えば、人々の生活は思った以上に深刻で悪くなっているということじゃないだろうか。」と言っていた。
私もそう思う。

消費税が上がり物価が上がっても賃金は上がらない苦しい生活、将来に対する不安・・アベノミクスはこういうものは素通りしてしまっている。
世の中の嘆きの声には耳を塞ぎ、独断的な演説を続ける首相の姿には異常な感じを受ける。

選挙の翌々日(16日)の毎日新聞の一面見出しは「安倍首相、改憲へ『努力』」、17日の夕刊「高浜原発 新基準適合ー川内に続き2例目」、そして今日17日は「原発建て替え検討」
選挙が終わってさっそくの暴走開始。

改憲も原発再稼働も、国民の多数は支持していない。


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10月の風景 [環境・自然]

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「花子とアン」にえがかれる戦争 [雑感]

第二次大戦の時代を背景にしたドラマは多いが、「純情きらり」は音楽家、画家への弾圧がえがかれていていい作品だと思った。
「花子とアン」も、やはり戦争が時代背景となっている。
いつも見ているわけではないが、135話、136話は、戦争に対して人々がどのような感情を持ち、どういう立場をとり、どう行動するかが、わかりやすく(誠実に)えがかれていた。
ドラマのセリフを拾い出すと、

<なぜ危険なことをするのか(反戦争という思想)、という花子の問いに、れんこが答える。>

れんこ
「(龍一さんは)間違ったことはしていない。誰よりも子ども達の将来を考えている。
だから今の国策にがまんができないの。

<花子はラジオの子供の新聞という番組の語り手をしているが、子供たちに楽しいお話を聞かせたいという思いはかなわず、戦争のニュースばかり伝えてことに悩んでいる。>

はなこ(ラジオで)
「みなさんは戦地の兵隊さんが安心して戦え、誉れの凱旋ができるよう、おうちのお手伝いをしてしっかりお勉強いたしましょう。」

れんこ
「まるで、みんながんばって強い兵隊になれと言っているように聞こえたわ。」
ーーー(あれは、といいかける花子)

「花子さんも誰かに読まされているんでしょう。
そうやって、戦争をしたくてたまらない人たちは国民を扇動しているのよ。
あなたは本当はどう思っているの。ラジオのマイクの前で、
日本軍がどこを攻撃したとか、占領したとか、そんなニュースばかり読んで、ああいうニュースを毎日毎日聞かされたら、純粋な子ども達はたちまち感化されてしまうわ。
お国のために命をささげるのは立派だと思ってしまう。」

はなこ
「私だって戦争のニュースばかり伝えたくない。
でも、こういうときだからこそ、子ども達の心を明るくしたいの。
私の『ごきげんよう』を待ってくれる子ども達がいるかぎり、私は語り手を続けるわ。」

れんこ
「そんなのは偽善よ。
やさしい言葉で語りかけて子ども達を怖ろしいところに導いているかもしれないのよ。」

はなこ
「私一人抵抗したところで世の中の流れを止めることなんかできないわ。大きな波がせまってきている。その波にのみこまれるかのりこえられるか、誰にもわからない。
私たちの想像を超えたはるかに大きな波なんですもの。私もすごく怖ろしい。
でもその波にさからったら今の暮らしも何もかも失ってしまう。大切な家族すら守れなくなるのよ。」

れんこ
「私は時代の波に平服したりしない。世の中がどこへ向かおうと言いたいことを言い、書きたいことを書くわ。」

「あなたのようにひきょうな生き方をしたくないの。」

はなこ
「私たち生きる道がちがってしまったわね。」


<この段階では、二人とも戦争に反対の気持ちを持ちながらも、その立場は微妙にずれ分かれることになる。その後、はなこはラジオの語り手を辞めるのだが>

一方で、戦争を賛美する声として

宇田川

「私はペン部隊の一員として、わが皇軍将兵の勇戦敢闘ぶりを、この目でしかと見てまいりました。
私は心の中で叫びました。『遠き故国日本の母よ、姉よ、かくまた恋人よ。あなたがたのいつくしんだ人たちは、今破竹の勢いで猛進撃を続けております。これをあなたがたがごらんになれば、きっと涙にむせびつつ、同時に誇らしく思われることでありましょう。』」


こういう意見の食い違いというのは、昔も今も、人間の間の超えられない溝のようなものを形づくっているような気がする。
花子、れんこ、宇田川に見られる三者三様の考え方は当時を代表するものだったのだろうと思うが、今でもさまざまな場面で見られるように思える。

そして「現代」の特徴を現すのは、このような考え方のさらにその上に「あらゆることにおいて目先の経済発展こそがなによりも優先」という考えが君臨していることだと思う。
それが今もっとも幅をきかせている考え、行動、であるならば、それに対抗するのは非常に難しい事だという気がしている。


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7月も終わり・・ [雑感]

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7月1日に「集団的自衛権」が閣議決定という事態になり、こういう状況はどうすれば変わるのだろうと、個人が考えてもどうしようもないことを考え落ち込んだりしているうちに、7月も終わってしまう。

6月28日の毎日新聞に「集団的自衛権」閣議決定に対する何らかの反対表明を出した地方自治体についての記事があった。6月28日の時点で137の市町村名が反対または慎重に、の立場をとり、137のうちの35市町村は長野県(私の出身地)で、長野県はなかなかがんばっているなと思った。その中でも生まれ故郷の市は「強く反対」を表明、と地方ニュースで報道され、ちょっとうれしかった。
7月になると反対する市町村はさらに増えたが、そんなことはお構いなしの閣議決定である。アベ内閣の支持率は下がりつつあるけれどまだまだ独走を止めることはできない。

なぜこんな独裁政治がまかり通るのか不思議なのだが、国会での答弁やテレビ番組のインタビューなどアベ首相や幹部らの発言を聞くと、明らかにある特徴がある。
どんな質問に対しても、<「集団的自衛権」によって戦争につき進むようなことは決してない>、<抑止力はこれによって高まりこれまでよりもっと安全になる>、の二つを、さも確信ありげに堂々と言い切っていること。

これを聞くと、いくらかの不安を感じた人も、そうか、まさか戦争になることはないだろう、と納得してしまう。
世論調査では、「集団的自衛権」の閣議決定に対しては、反対もしくは懐疑的という人の方が多いようだが、大方の人は(賛成派反対派ともに)、「まあ、すぐにどうこうならないだろう」「簡単に戦争になるということはあるまい」という楽観的気分が強いのではないだろうか。
政府の公報活動は巧みで、NHKも総力あげて政府の後押しをしているようだから、知らず知らずのうちに「今の時代は『集団的自衛権』も必要なのではないか」という考え(というより気分)が広がっていくのも無理はないと思う。
いろいろな場面で、自民党のいろいろな立場の人が世間に聞こえのいい言葉を無責任に発しているから、漠然と聞いていたら、問題点などさほどないように見える。

これまで65年間も戦争をしていないので「戦争」がどのように始まるものなのかを意識しない人も多いだろう。
「平和ぼけ」という言葉があるが、これまで平和を謳歌できたのはなんと言っても「平和憲法」のおかげだと言える。
それが「平和憲法」の実績というものだ。

「集団的自衛権」がこれからどういうことをもたらすのかの十分な検証・国民的論議もないまま、これまでの「平和憲法」の実績をまったく無視して、別の方向に無理矢理に舵取りしようとする内閣はまったく信用に値しない。

国民の安全や暮らしを守る、と言いながら、いまだ福島原発事故は収束もできないまま、これまで自民党が推し進めてきた原発の事故の責任も取らず(あやまってもいないのではないか)、まだ原発を経済政策の一つとして捨てようとはしない政府。

集団的自衛権の閣議決定の次は、実力行使による沖縄辺野古への基地移設。
貴重な生物の宝庫である辺野古の海を平気で破壊し、その理由は「危険な普天間基地を一刻も早く他に移すことが重要だ」と強調するばかりで、なぜ同じ沖縄県内に移設なのか、なぜ新たな環境破壊までして辺野古に基地を移すのか、については一言も答えず知らん顔だ。

誰がどうみたってひどすぎる話だ。
それなのにその暴走をとめられない、というのはどうしてなのだろう。
こういうことをずっと考えくよくよしていた7月だった。


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「集団的自衛権」がわからない [社会]

「集団的自衛権」という言葉にはほとほとうんざりでイヤになってしまう。
「集団的」という言葉は日本語の使い方としてどこか妙で、しかも「自衛権」というものが私にはよくわからない。国際法上で認められている権利であっても、「自衛」がそもそも具体的に何をすることなのかがわからない。

よく「泥棒が入ったらどうするのだ、入らないようにするだろう」「家族が殺されそうになったらどうするのか、ただ見ているのか」などと、飛躍した言い方をする人がいる。
泥棒が入らないように鍵をかけたり、留守にする時ちょっと近所に伝えておくなどの気を配ることと、国家の自衛、とはあまりにもかけはなれている。

国家などという大きな単位を守るとはどういうことになるのだろう。

世界には、法の裁きによる「死刑」を廃止している国がたくさんある。
人が人を殺してはならない、ということを前提にしているからこそ「死刑廃止」ということを国として法で定めることもできるのだ。

もちろん「正当防衛」というのはどんな場合にも起こりうることだ。でもそれは個人の場合であって、「国」という集合体は、別の次元であり、どう考えてもあてはまらない。
ベトナムと中国の関係悪化で、ベトナムでは反中デモが起き、その暴動で中国人2名の死者、多数の負傷者が出るいう事件があった。こういう場合、「家族が殺されるのを見ているのか」と言うような人は、中国人は同じ人数のベトナム人を殺し負傷させよ、というのだろうか?

軍隊を使って国を守るやり方=「自衛権」というものがわからない。
「外国から攻撃を受けたときにどうするのか」という人がいるが、「人間はむやみやたらに他人を攻撃したり、殺したりしない」ということが、今の人間社会の大前提になっているのではないだろうか。(もちろん、それからはずれてしまう悲しい出来事も多いことは確かだが。)

その大前提を捨てて「こんなことが起きると困るでしょ」「こいうときにこういう備えが必要ですよ」と盛んに主張しているのが安倍政権だ。

「自衛」とは、自分の国が外国人に殺されたら、同じ人数だけ、あるいはもっと多くの人を殺してやる、という態度をみせることですか?(軍隊というのはそういうことをするところでしょう。)
その場合、攻撃した国の人なら誰を殺すのでもかまわないのですか?

「やられっぱなしでいいのか!」といきまく人も多くいるが、暴力を暴力で抑えるという単純なやり方で、大きな集団である国と国の関係が修正できる、と本当に考えているのだろうか。

「平和」について特に大げさに叫ばなくても、私たちは、回りの人間が「平和に暮らしたい」という気持ちを持っていることを、当たり前のように信じて生きている。
人はケンカするより仲良くする方を好む、と思っているからこそ一緒の場所で生活できる。そうでなかったらとても人間の中で生きてはいけない。どこか人間のいない島にでも行って住まないことには・・。

私にはやはり「自衛」の意味がわからない。
そして、そこに「集団的」というさらにあいまいな言葉を付け加えるから、昔風に言うと「グレン隊」みたいなものをつくろうとしているように思える。

「そういうことをしたい(武力で他国を脅したい)」と想像したり空想したりするのは勝手だが、他人をまきこまないでね、と言いたい。

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「大飯原発差し止め判決」について [社会]

福井地裁「大飯原発差し止め判決(5月21日)」については、
朝日テレビの『報道ステーション』(たまたま見たのだが)がとてもわかりやすくインパクトがあった。新聞を読んだり、ましてや長い判決文を読む余裕がない人にとっては、やはりテレビ報道は大事な情報源になる。(大抵は弊害の方が大きいと思うれど・・)


以下、報道ステーションの内容。

大飯原発の3,4号機は、東日本大震災後、唯一再活動した原発で、現在は点検のため休止中。189人の住民が「耐震安全が保障されていない。運転を見合わせるよう求める」と裁判を起こした。
福井地裁は、原告の(250km圏内の住民166人について)「原発運転差し止め要求」を認めた。これは東日本大震災後初の「原発運転差し止め判決」だった。

判決

(主文)

<被告(関西電力)は、大飯発電所3号機及び4号機の原子炉を運転してはならない。>

(理由)

<生存を基礎とする人格権がすべての法分野において、最高の価値を持つとされている以上、人格権は憲法上の権利であり、我が国の法制下でこれを越える価値を他に見いだすことはできない。
人格権そのものに基づいて 具体的危険性が万が一でもあれば その差し止めが認められるのは当然である。>


(裁判所の判断について)

<福島原発事故の後においてこの判断を避けることは、裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しいものと考えられる。>

<原子力規制委員会の新規制基準の適合性という観点からではなく、原子力発電所に求められるべき安全性に基づく裁判所の判断が及ぼされることになる。>

そして、 原告住民らが訴えた『耐震安全性が保障されていない』という訴えについて、大飯原発は " 原子炉を冷やす機能・閉じこめる構造 " に欠陥がある」と指摘した。
関西電力が新たに想定した地震の揺れは856ガル(ガル:揺れの加速度を示す単位)だが、裁判所は「その数値は信頼に値しない」とした。


<全国20カ所にも満たない原発のうち、4つの原発に5回にわたり、想定を越える地震が10年足らずの間に到来している。地震という自然の前における人間の能力の限界を示すものというしかない。関西電力の地震想定だけが信頼に値するという根拠は見いだせない。>


また「関電の想定」を下回る地震が起きたとしても、福島の事故と同様の " 不測の事態 " が想定される、と指摘している。

不測の事態として
*地震による段差で電源車が動かせず
*非常用水路の発電機が稼働できず
*電源・冷却水の喪失

など、事例は多岐に及ぶ 。


(作業員について)

<事態が深刻であれば深刻であるほど、混乱と焦燥の中で 適切かつ迅速に措置をとることを 原子力発電所の従業員に求めることはできない。>

(福島原発の事故原因について)  

<国会事故調査委員会は 津波の到来の前に 外部電源の他にも地震によって事故と直結する損傷が生じていた疑いがある旨指摘しているものの 地震がいかなる箇所に どのような損傷をもたらしたかの確定については至っていない。また その原因を将来確定できるという保証はない。>

(関西電力が主張した『経済性』について)

<大飯原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流失や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことが出来なくなることが 国富の喪失であると裁判所は考えている。>

福井地方裁判所民事第2部

 裁判長裁判官 樋口英明

    裁判官 石田明彦

    裁判官 三宅由子



久しぶりにきちんとした日本語を聞いた気がした。
正しいことを述べた言葉というのは、美しいし感動するものだ。
いつものごとく、翌日にはもう別のニュースが流れてたが、福井地裁のこの判決はしっかり記憶にとどめておかなければ、と思う。
それにひきかえ、「国民の生活・安全を守る」を大きく唱えて、武力抗争の怖れのある方向へ国民を導こうとしている政府の詭弁・矛盾は、あまりにもひどすぎる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一応、判決に対して責任ある立場にある人たちのコメントを記しておきます。

中塚町長;
現時点で新規制基準にもとづく審査が規制委員会のほうでなされているので、そこをまたしっかりと注視する

田中俊一委員長(原子力規制委員会 );
我々は我々の考え方での適合性審査をしていくことになろうかと思います。


管 義偉 官房長官;(今日の判決を受けて政府の判断は変わるのかという問いに)
そこは全くかわりません。あくまでも安全を客観的に(規制委員会に)判断してもらったうえで再稼働する。そういうことは私は正しいと思っています。


山本 拓 会長(自民党エネルギー戦略調査会);
もう一度裁判所で上級審で審判を仰ぐべきだと思っています。

関西電力;
すみやかに控訴の手続きを行い ひき続き大飯原発3,4号機の安全性について主張していきたい。


どなたも、裁判の判決など意にも介さないという態度でした。

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「生活格差」 [社会]

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ある言葉が世間に定着すると、もうその言葉は「驚き」でも「衝撃」でも「嘆き」でもなくなってしまう。
「格差社会」という言葉を聞いても使われ始めた頃よりインパクトがかなり薄れてしまったような気がする。事態が深刻化しているのにもかかわらず、だ。
もちろん、「格差社会についてどう思うか」と聞かれれば、「それは良くない」「底辺の人々の暮らしをこのままにしておいて良いはずがない」と多くの人は言うだろう。
でも、その反応力は明らかに鈍ってしまってきているように感じる。
次々に考えなければならないことが押し寄せてくると、払いのけたり、戦ったりする意欲が減退していく。
あきらめと無気力が生まれてしまう。

今は、貧富の差が大きく開いてしまいその溝が広がるばかりの社会だ。
それは誰もがわかっていることだけれど、お金があるかどうかで、一体、何がどう違ってくるのか、もっと具体的に意識する必要があるような気がする。
失業や住む場所もなくなってしまうことは最も深刻な例だが、その一歩か二歩あるいは三歩手前にいる一般的庶民の大多数の人たちの生活に関しては、失業者に比べればまだましということなのか、その問題点があまり話題になっていないように思われる。


立派な家、美味しい食べ物、高級な車や家具・・・こういったものは、実際、たいした問題ではない。「お金なんかなくても・・」「貧しくても家族健康で仲良く暮らせれば・・」という考え方もかろうじて生き残っている。
何も物がなかった時代の記憶というのはまだ受け継がれているし、厳しい生活に人は何とか耐えられるものだ、ということも、みんな知っている。


だが、そういう考え方が通用するには、皆が皆、同じような状態であることとか、やがて暮らしはもっと豊かになるという予感を誰もが持っていることが必要だ。
そして回りの人たちと互いに助け合う習慣というのも・・。
戦後の経済成長期と今では、そこが根本的に違っている。

いずれにしても、(お金で買える)物の裕福さは本当はたいした問題ではない。
「物」を持っても持たなくてもそれはたいしたことではい。

一番の問題は、お金がないことによって、時間や希望や気力がなくなってしまうことだ。

毎日夜遅くまでめいっぱい働き、家に帰ったら疲れ果てて寝るだけ。
週に1,2回の休みはあっても、疲れ果てているから、掃除をするのがやっと(しない人もいる?)。本を読んだり音楽を聴いたり運動したりなど面倒くさくてとてもできない。
寝てぼんやりテレビを見て、せいぜい車でショッピングモールに出かけるだけ。

旅行に行ってのんびり身体と心を休めるというようなことをするには、休みも足りずお金もまったく足りない・・こういう人はとても多いと思う。
疲れていると、家族で楽しくなどということにはならない。(むしろいがみ合いが多くなるだろう。)「つましくとも楽しいわが家」などというものはめったに存在しないのだ。

一方で、バリバリ仕事をし、日々身体を鍛え、いくつかの趣味を持ち、一週間かそこいらの休みを年に数回は取ってヴァカンスを楽しむ・・・こういう生活ができる人がいる。

「あまりに違いすぎないか」と感じるのである。

こういう「生活格差」のことをもっと考えるべきだ。
仕事は5時、6時には必ず終わり、家でゆったりでき、休みの日には何かやってみようか、という気持ちになれる生活。
そしてたまに一週間ほどの休みが取れ(混みあう盆や正月、ゴールデンウィークではなく)、家でのんびりするのもいいし、ゆったり旅行でもして、自然の景観を見たり知らない街の暮らしを見たり。本当にたまにおいしい物を食べたりする。

こういうことができるなら、毎日の暮らしがつましくてもがまんができる。仕事内容がつまらなくてもがまんする。着る物や贅沢品にはお金をかけず日々の食事も質素でかまわない・・と私は思う。

「生活の質」というのはものすごく大事なのだ。
一回かぎりの人生なのだから。

そうして、「生活の質」が一定レベルであるためには、労働時間が多くてはだめだし、最低賃金が低くてはだめなのである。

テレビ番組に出ている人、報道にかかわる人や解説したりしている人達は、生活レヴェルが高い人ばかりなのではないだろうか。それを生活レヴェルが低い人がぼんやり毎日ながめているって、すごく変だなあ(哀しいなあ)、と思う。

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桜のシーズン [雑感]

IMG_1779.JPG葛西用水
川沿いの桜並木は相変わらず立派。

桜というのはなぜか胸をざわざわさせるところがある。
見慣れた変哲もない日常風景の中に、突然わぁっと桜が咲く。
そこだけがあまりにも華やかで回りの景色とそぐわない感じで落ち着かない。
それも10日ばかりの短さで消えてしまうので、何かせかされるような気分になる。

子供の頃の田舎での桜はそうではなかった。
桜が咲くと、家族親戚連れだって、近くの「東山」という山に出かけた。
やっと雪が溶け山に遊びに行ける暖かさになった、ということの象徴が桜だった。
山の中で見る桜は他の木々に混じって柔らかな美しさだった。
相撲の土俵があり素人相撲大会が行われた。土俵の回りは山の斜面を利用してすり鉢のような観客席がうまくできていた。気をつけないと下にすべり落ちてしまうのだった。
立派な茶店が出て、花見のときだけ売られていた揚げ(天ぷら)まんじゅうがあり、一年に一回だけ食べることができた。

花見は山でするもの、と思っていたので、東京に住むようになったとき、町中での花見には本当にびっくりした。
こんな家やビルなどに囲まれた場所で花見?という感じで興ざめだった。
もう慣れたけど、晴れ晴れと桜を楽しむことはなくなった。
写真を撮ろうとすると後ろの建物や家や何かの看板や電線がじゃまになる。
切り取ったようにそこだけが美しいというのはもの哀しさがある。

今年は好天続きのせいで、どこに行っても桜が目についた。
ソメイヨシノは咲く時期も咲きっぷりも同じなのであちこちで目にしているうちに何だか疲れてくる。

桜もだんだん散りかけてきて新葉の茶色とまざり汚れて見えるようになってきた。花が全部散って若葉が出そろうと、すっきりと淡い緑色になりまたきれいになる。

IMG_1774.JPG近くの公園
4月6日、まだがんばって咲いている。

IMG_1785.JPGサギの花
桜の木で寝るサギたち。綿アメのよう。いつも8羽くらいいる。

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スポーツについて [雑感]

サッカーのJリーグの浦和レッズの試合で、一部のサッカーファンによって「JAPNESE ONLY」と書かれた横断幕が掲げられ、そのまま試合が行われるという事件があった。その差別行為(差別的ではなく差別でしょう)の罰として観客なしの試合(3月23日)が行われたというニュースがあった。
新聞で、がらんとした球技場の写真を見てさっぱりしたな、と思った。
はっきりとペナルティを与えることで、「差別を断じて許さない」というメッセージをきちんと伝えることができたので良かったと思う。

ネット上で、横断幕がなぜいけないのか、そんなに大騒ぎすることか・・などの考えを目にした。
「Japanese Only という言葉は大きな差別だ」という非常に基本的なことから議論を始めなければならないとしたら大変なことだ。今の日本はそんなに大変な状況になっているのだろうか。

ネットは、他者を「攻撃」「軽蔑」「差別」するのに手軽なようだ。
人の心の中にあるイヤな部分、よく考えれば言葉にするのを自制するような考えや気持ちを、軽い調子で(2,3行の文で)ポンポン出している風に見える。
そして、それに対して同じような意見が手軽に寄せられ、安心感と共に、ある種の世界を作ってしまうのではないか。
攻撃的、差別的な者同士、まとまりやすくなったのだと思う。

これまでの人類の長い歴史を見れば、いさかいや戦争がずっと続いてきていて、もしかしたらそれが人間の性かと思ったりする。だとすれば、その性に逆らって「平和」を目指すことにはかなり高度なテクニックが必要だということだ。
短い軽い言葉では、とても「平和」については語ることはできない。


また今回の問題は国際サッカー連盟が控えているからきちんとした対応がなされたのでは、という気もする。日本国内だけの問題だったなら、どうなったかわからない。
一般の人々ではなく国民の代表である政治家が差別発言をしても、すんなり通ってしまう国である。普通の人が「このくらいどうってことない」と差別行為をしても不思議はないと思う。

さて、サッカーの試合のニュースを目にする度に、どうも「ああ、サッカーってイヤだな〜」と感じてしまう。何がイヤと言って、あの大げさな熱狂的応援ががまんできない。
応援席で知らない者同士、大声で叫び一体となって(?)応援している様子がたまらなくイヤなのである。感動を大勢で分かち合うのが最高だと思う人もいるだろうが、私はダメ。(子供の頃のサッカー遊びは楽しかったですよ。)

みんなで盛り上がることにも節度ある規模というものが必要なんじゃないかと思う。町内会くらいの規模とか・・。

サッカーだけではない。
ほとんどのスポーツは、多かれ少なかれ見たくない部分がある。
「体育会系」という言葉があったが、私はそれがそもそもすごく嫌いで、自然とスポーツは見なくなってしまった。
本当にそのスポーツが好きな人ならば、多少の難点があっても楽しもうとするのだろうけど。

オリンピックなどはスポーツにつきものの問題点に加えて、国の威信をかけたり、メダル争いばかり強調する報道だったり、政治利用されたり・・と、あまりに問題が多いため、オリンピックアレルギーを持ってしまうほどだ。
この間のソチ・オリンピックは、2020年のオリンピック東京誘致の問題も重なり、ほとんど見なかったという知人がけっこういた。

私は珍しく今回はちょっと見た。たまたま最初に見たのが「スキーの滑降」で圧倒的な迫力に目を奪われた。それからスノーボード。これまでオリンピック観戦をあまりしていなかったから、見たことのない競技ばかりで面白く、その技に恐れ入り「人間はすごいことができるんだな〜」と感嘆しながら見た。
そういう話を回りにしても見ていない人が多いので張り合いがなかった。あんなにすごい技を見ないなんて、なんだかもったいないような気もした。
(私は2020年のオリンピック東京誘致には反対で、オリンピックそのものにも賛成できないことの方が多いと感じていますが。)

スポーツ一つ楽しむにも、複雑な感情があって簡単なことではないようだ。

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街中の鳥たち 〜 ヒドリガモ、キンクロハジロ、ハシビロガモ、コガモ、バン、マガモ 〜 [環境・自然]

そうか公園 (2014年2月23日)

春が来て渡り鳥がシベリアに帰ってしまう前に見ておこうと、そうか公園に行ってみた。お馴染みの水鳥で賑わっている池を見て嬉しくなった。
種類は、オナガガモ、ヒドリガモ、キンクロハジロ、バン、ハシビロガモ、マガモ?など・・みんな揃っている。

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夕暮れになって
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これだけいると壮観である。
オナガガモは優美な首と長い尾がきれい。
ヒドリガモは白い筋のあるおでこが丸くてチャーミング、鳴き声もピーヨピーヨと可愛い。
キンクロハジロは白と黒の模様が芸術的で頭の後ろに下がっている毛(冠毛)が可愛い。ハシビロガモは幅のひろいグレイのクチバシが特徴。
マガモは一回り大きく威厳がある。(アイガモとの区別がちょっとむずかしい)

そうか公園はよく管理が行き届いている、という感じがした。
ここの人工池は広々していて、これだけカモ類がたくさん集まってもまったく何ほどのこともない。餌をあげている人がけっこういて、カモたちは人の仕草を見て、サーッとその方角に移動していた。
給餌によってカモがたくさん集まると池の水質が悪くなるという理由で、「餌やりは禁止」という所も多いが、ここはそういう心配はなさそうだ。
「餌やり禁止」は、水質が悪くなるという理由の他に、同種の鳥ばかりが増えるという危惧があげられているが、このそうか公園にいるカモたちの数が生態系に影響を及ぼすとはとても考えられない。もともと回りの川とか池とかが人間の都合でどんどん狭まり人工的になったりで鳥が住めなくなってきたのだ。

その土地に生存していなかった外来種を持ち込むのは困るが、昔から渡って来ていた鳥たちである。
人と動物の関係は、むやみに動物を捕らえ殺して絶滅の危機に追いやってきたことが問題なのであって、鳥に餌をやったからといって何かが大きく変わるとも思えない。

野生動物との関わり方にはいろいろむずかしい点もあるが、まず仲良くならないことには、動物を保護しようという気持ちも育たないだろう。
例えば、ハトは糞害とかで嫌われるようだが、人とすぐ仲良くなれる素質を持った鳥を遠ざけることによって、「鳥が怖い」という子供がずいぶん増えてしまっている感じがする。
ハトが10羽くらいいるだけで立ちすくんでしまう小学生、中学生がいてびっくりした。見ると手を目にかざし群れの中を走って通りすぎていく。
目をつつかれると思うのだろうか。鳥はむやみに人をつついたりはしない。手から餌をついばむときは夢中になって手をつつくこともあるけれど。

生態系保護のため鳥に餌をやらないように、ということが最近言われようになっているが、本当はそのかけ声は、鳥嫌いの人たちから発せられているのでは?と思ってしまう。今大事なのはこの地球に住むのは人間ばかりではない、ということを知ることで、そういうことは教科書の中で学ぶのではなく、実際に動物を間近に見たり触ったりするのが一番だと思う。

ハトの天敵はカラスや猫なのだが、カラスはどうにもできず、野良猫は人間が街から占めだしてしまった。
野良猫がのんびり外を歩いている国がとてもうらやましい。

ここに来ている冬鳥はみな元気で幸せそうに見えた。
放射能汚染されてしまった場所にも渡っている鳥がたくさんいるだろう。動物は何もわからずこれまで通り、そしてこれからもずっと同じ場所に来るのだろうと思うと哀しい。


そうか公園に近い葛西用水は工事で川をせき止めていて、緑色のペンキを流したみたいにきたなかったが、ちゃんと水鳥はいた。(川をあまり人工的に作ってほしくない。どこかの親水公園みたいに。一体どういう工事だろう・・?)
ここには、コガモがいた。写真はうまく撮れなかった。
IMG_1612.JPG葛西用水(2月22日)


(付け加え)

コブハクチョウ(栃木県小山市大沼 2月26日)
IMG_1701.JPG
岸に上がっているところ。すぐ近くで見たのですがかなりの迫力がありました。まさに「白鳥の湖」。この貫禄、曲線の美しさにはまいりました。
IMG_1702.JPG子供の白鳥
IMG_1703.JPGお母さん白鳥

お母さん白鳥には近づいたら怒られてしまいました。シューッという鳴き声を出し、大きな羽をばしっとたたきつけるような仕草。
「ごめんなさい」とあわてて引き下がりました。子育て中の親鳥は神経質なので近づかない方がいいようです。(といっても子供はかなり大きいんだけど・・)
大きな翼の一撃で骨折するほどのケガを負うこともあるという。翼の一撃で湖に倒れたところを上から水の中に押さえ込まれるなんてイヤです。

コブハクチョウはヨーロッパに住んでいたものが人に飼われ野生化したと言われています。つまり外来種。日本では北海道で繁殖し、冬にこのあたりに来るそうです。

IMG_1700.JPG立派な鳥でした!

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