SSブログ

アベノミクスの失敗 [社会]

5ヶ月ぶりのぶろぐ更新だけれど、
社会の様相は2018年9月のぶろぐ記事と何も変わっていない。
9月は、アベノミクスは実態がないのではないか?という漠然とした不安。
2019年になって今、それは「やはりそうだった」という確信に変わっただけである。

賃金は上昇中、景気は上向きでいざなぎ景気超えなどとの謳い文句が流れたけれど、
とんでもなかった。

数々の統計調査不正疑惑。
疑惑ではなく、実際に政府に都合の良い統計だったことがすでに明らかになった。
賃金の動向を示す「毎月勤労統計」の調査法について、2015年11月の経済財政諮問会議で、閣僚らが変更を促していたことがわかった。(2019/02/17朝日デジタル)
統計で、14年の賃金指数が民主党政権時代の11年を上回るはずが下回ってしまい、
日銀の黒田総裁や麻生外務相が統計問題に言及。高市総務相(当時)、甘利経済再生相(当時)らが「指摘された課題について来春までに方針を整理するよう統計委にお願いしたい」と述べた。
要するに下がらないように統計調査の方法を考えたということだ。

政府は景気上向きはなかったときちんと認めるべきではないか。

おかしいと思った。働く環境はひどくなったし、給料は上がらない。離職率は高い。
保育園の先生が一度に20名辞めてしまったとか(東京)、私の回りでも1年間に正規社員が16人(社員300人中)辞めたとか、介護施設では職員を募集しても3分の1しか集まらないとか・・。
これは好景気とはまったくほど遠い社会様相だと思う。
景気が良ければ給料は上がり、忙しくても満足して働けて、もっとみな活き活きしているはず。

仕事場がいろいろな問題を抱え無理がかかっていると、雰囲気は悪く、長時間労働を強いられる。しかも給料も安い。だから正規雇用でもすぐに辞めてしまうことになる。

そして物価は昨年の秋からじわじわと、今では明らかに目に見えて上がりだした。
エンゲル係数が日本で高くなったのは豊かになって外食ができるようになったためだという、冗談のような政府答弁があったが、家計を預かる立場にいる人は毎日の買い物には相当心を砕いている。

消費税8%は、じわりじわりと上がる物価と重なるとかなり厳しい出費になる。
たいした物を買ったつもりがなく、「4つか5つの商品を買って1200円ぐらいかと思っていたのにレジで1800円にもなっていてショック」というようなことがひんぱんになった。

今のような不景気では消費税8%は高すぎるというのが庶民の感覚だと思う。
10%なんてとんでもない。5%に戻すべきだと思う。本当は0だっていい。

消費税8%は民主党政権のときのこと。責任は民主党政権だ、などという乱暴な言説(デマとも言える)をまくしたてる人たちがいるが、やろうとした社会福祉政策に見合う財源がなく、苦渋の決断だったと思う。少なくとも、高価な戦闘機にじゃぶじゃぶお金を使ったり、知り合いを優遇してお金を回したり、外遊して世界各地でなんだかわからないお金をばらまいていたわけではない。
しかも消費税を上げた分は社会福祉に回すという政府の弁は、自民党政権のもとであっさり覆されてしまった。
今日(2019年2月17日)の日曜討論で長妻議員、
「消費税を上げるにあたって、人々の格差をなくしていく、ということをセットにする、というのが民主、自民、公明の三党合意だったが、それがまったく果たされなかった。」

8%で生まれたお金は他に回されただけだった。

決して裕福ではない庶民は、物価高と消費税8%を乗り切るためには買い控えをしているのだ。
私もスーパーの買い物は一品少なめ、を心がけるようにしている。

不景気なのに物価高・・つまりスタグフレーションが今の日本社会だということだろう。
社会の経済状況が厳しければ、年収が低い層により大きな困難がふりかかるわけで、今の日本だとおよそ5.6割の人の生活はより苦しくなる。
しかも、年金受給年齢は引き上げ、年金額も減らされ、医療費も高くなる、という流れが作られつつあっては、老後の不安、病気の不安はますばかりで、何のために税金を払っているのかわからないということになる。

政権にとって都合の良い統計、文書改ざん、が続いてきたのは、政府は一般庶民の方を見てはおらず、富裕層、特権階級に寄り添ってきたということだと思う。


nice!(0)  コメント(0) 

いろいろ感じています 2018/9/19 [社会]

憲法改正という言葉がいよいよ堂々とメディアにもあがってくるようになった。アベ政権が6年も続き、国民(特に金持ちでもない一般の庶民という意味です)はすっかり疲弊している。
なによりも生活が少しも楽になっていない。労働環境が酷い(労働時間は長く休みは少なく賃金が低い、賃金の格差が大きい)物価が高い、という生活苦は改善されていない。
それなのにまた消費税は上がりそうだ。
家計の生活費で削れるのは食費だけで、今はスーパーでも高い野菜を眺めてため息をついている人達の姿をよく見る。

この間、人参売り場で一本25円の人参を持った年配の女性が、5本120円の袋を手に取った私に「息子が野菜をたべないのできんぴらを作ってやりたいんだけどそんなにたくさんはいらないし」と話しかけてきた。見るとバラ売りの人参は鮮度があまり良くない、それで「人参は日持ちがいいし、栄養もあるし、キンピラでも生でも茹でても美味しく食べられますよ」とつい余計な事を言った。
1本25円の人参か、5本1袋120円の方にするか、考えて買い物しているのが庶民の姿だ。

一体アベノミクスがうまくいってるなんて誰が思っているのだろう。
多分ほんの一部、年収で言えば平均より上の方にいる人たち、このまま、今手にしている潤沢さを手放したくない人たち、なんだろう。

たいしてお金を持っていない人は、政治に目を向け、もっと良い社会になってほしいと感じるのである。
ただし、困窮極まりその日暮らしの状況では、社会に手を向けるなどという余裕もないだろう。

こうした苦しい生活が続き、それなのに政治家がさまざまな忖度疑惑、文書改竄、ごまかし、嘘を平然とやっているから、生活の苦しさも一層堪え難いものになっている。
その上、自然災害がこれでもか、という風に降りかかってくる。

東日本大震災の復興もまだ全然進んでいないというのに、次々と襲う自然災害。
日本は災害の多い国だとわかっていたが、まだまだ思い方が足りなかったようだ。

日本は余計なことをしている場合ではない。原発再起動だとか、戦闘機を買うとか、基地開発だとか、オリンピックだとかをやっている場合ではない。
そういうお金(全て巨額です)があったら、すべて被災地の復興に回すべきだ。


もちろん憲法改正など時間を費やす暇はない。憲法については、まず国民から「変えるべき」という声や運動が起こって初めて、憲法論議がスタートするのが筋ではないか。
(憲法についてはまた別に書きます)

日本は、全ての経済力、技術力、人力を、災害の復興に備える体制が必要ではないか。

総裁選のニュースがメディアを賑わしているが、アベ政権は終わってほしいと願う。日本では長期政権になるとますます「忖度度」が強まるだろう。
政治の腐敗を防がないと国民が多大な被害を受けることになる。

総裁が代わっても所詮自公政権なのは残念だが、今のままの状態が続くよりは変化があるほうが3ミリぐらいでもマシかもしれないと思うことにしている。

(パソコン壊れ、5ヶ月ぶりにスマホでアップしました。広告の消し方がわからず見苦しいままですが悪しからず)


nice!(0)  コメント(0) 

【じみんとうのみなさんへ】 [社会]

ツィッターで、『憲法かえるのやだネット』さんのツィートがとても素晴らしいので、紹介します。秀逸です!

アソウ氏が読めなかった漢字の読みがなが( )の中に書かれていますよ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【じみんとうのみなさんへ】

① 安倍政権に対して、私たちが日頃、頻繁(ひんぱん)に感じていることを述べさせてください。
この意見には何の思惑(おもわく)もありません。

② 順風満帆(じゅんぷうまんぱん)のように報道されているけれど
その実、低迷(ていめい)化している日本の政治を憂い、何らかの措置(そち)をとらないといずれこの国は破綻(はたん)すると危惧しての抗議です。

③ 私たち親や大人は子どもに対して、嘘はいけない、ズルはよくない、聞かれたことにはちゃんと答えなさいと教えています。
暴力はいけないよ、いじめはいけないよと教えているのに、今の社会を見たら、ハラスメントだらけです。
ハラスメントの定義はいやがらせやいじめです。

④ 子どもにダメなことと言っているのに、責任ある立場の大人たちが、それをしているのです。
森友学園の公文書改ざん問題、安倍首相の「腹心(ふくしん)の友」である加計孝太郎氏の加計学園に対する疑惑、防衛省の日報隠ぺい、裁量労働制のデータねつ造、教育への政治の介入、セクハラ問題。

⑤ 政権にとって都合の悪いことは隠し、便宜(べんぎ)を図り、改ざんし、ねつ造する。上から圧力をかけ、委縮させ、やめさせる。
嘘に嘘を重ね責任をなすりつけ合う大人の姿が毎日テレビで詳細(しょうさい)に流れているのを、子どもたちは見ています。

⑥ もう大人なんだから、うそをつかないとか、憲法を守って政治をしなくてはいけないとか、大事な文書を書き換えてはいけない、とかそんなことも分からないなら小学生からやり直すべきです。
小学1年生でも、お友だちが発言している時に寝ているとか、椅子にふんぞり返って

⑦ ヤジを飛ばすなんて誰もやりません。けんかで怪我(けが)をして泣いているお友だちに対して、怪我(けが)をさせたお友だちばかりをかばうこともしません。
自民党のみなさんは、政権与党ですので、ウソ、隠ぺい、いじめ、恫喝の安倍政治を許し、支えていることになります。
 
⑧ それでも良いですか?
これは、日本の政治にとって、いわばまさに未曾有(みぞう)の危機だといえます。
何をおいてもまず国民の信頼回復のためにも、焦眉(しょうび)の課題として考えてください。
私たちはまともな政治を取り戻したい。ただその一点に尽きます。

⑨ 子どもたちに「この人たちはみんなの代表で、頑張っているんだよ」と胸を張って話せる国民の代表であって欲しい。
これは、これまでの、政治家たる在り方の踏襲(とうしゅう)や、慣習云々(うんぬん)以前の話です。
憲法改正の完遂(かんすい)や有無(うむ)の論議の前に、

⑩ 人として考えていただきたいと思います。
私たち市民とともに、政権与党の中から立場を超えて、内閣の総辞職をもとめていたただくことを切にのぞみます。

全国一斉自民党前抗議実行委員会@長野

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

与党のみなさんに読み聞かせをしてあげたいですね。

nice!(2)  コメント(0) 

パワハラとセクハラ [社会]

(書きかけの文がそのままになっていました。)


政治のみならず、相撲界、レスリング界、報道界など、いろんな問題がこう噴出してくると、ニュースをちょっと見るだけでイライラ、頭がぐちゃぐちゃになってしまう。
特に当事者が、ウソをついて居直り、相手をバカにする言動を平気でする様子を見て疲れる。
信じられない出来事が多すぎる。

「前はこんなにはひどくなったよね」とか、それとも
「いまだに日本はこうなのか」と考えるべきなのか。


セクハラもパワハラも実際に経験したり、身近にそういう話しを聞く機会がないと、何も知らずに見過ごしてしまう。

問題が明らかにされて良かったと思う。
仕事場でもどこでも、こんな理不尽な環境があることが許せない。

セクハラというのは、「男性優位社会」だからこそ出てくる問題だと考える。
セクハラ事件がニュースで流れると、「あ〜あ、バカな男がいるなー。」とか「男ってどうしようもないな〜。」と思うが、

考えてみれば、男が女よりも「生物学的」に劣っているはずはないと思うので、それは社会のあり方に原因があるのだ。
縦の関係がゆがんで重視される社会では、上位の者が下位の者にいくら無理難題を言っても、下位者はそれに従う事を要求される。
それが一般化されると、
「先輩が白と言ったら、たとえ黒いものでも白と言え」という風潮が生まれる。
実際に、そのままの言葉を投げつけられた例を最近聞いて唖然とした。
そして「男社会」においてはいつでも男性が上位者なのである。

幸いなことに、私はそういうあからさまに酷い環境の中で仕事をしてこなかった。
嫌な「男優位主義者」はいることはいたけれど、鼻の先で笑っていたし、もしえらそうな態度をとったら、当分身の置き所がなくなるようになる、という雰囲気が職場にはあった。もちろん陰では何を言っていたかわからないけれど、それはお互い様。
そこまでいちいち気にしていたら仕事はできない。

私がいた職場は、ある意味恵まれていたのかもしれない。
それに、戦わなければならない相手は他にいて、それは鉄壁のように立ちはだかっていたのである。
その壁との戦いに明け暮れしていたから男女の区別なく一緒に戦っていた。

パワーハラスメントは大きな問題だ。セクハラはパワーハラスメントの中に含まれている。男が女より下位だったならセクハラなんかできないだろうと思う。
相手より自分の方が上位だと思っている人間(勘違いしている人間)が、体罰やら、仕事への難癖やら、セクハラ問題を起こす。

こういう人間は怒鳴りつけて蹴飛ばすくらいがいいのだけれど、仕事上相手をたてなければならない人たちがいる。こういう職業についている人は本当に大変だろう、と思う。本人の力だけでは無理だろう。
周りが(利害関係のない立場にいる人たちが)、嫌がらせを受けている人に代わって制裁を加えないと、いつまでも状況は良くならないのだろうと思う。

セクハラ、パワハラをしたら、本人に徹底的に謝罪(もちろん大勢の第三者が見ている前で)させ、当然今いる仕事上の地位から降格させるべきである。
繰り返しセクハラをするような場合は罰則も必要だろう。

世界の国々の中で、日本は男女平等度が114位(世界経済フォーラムの分析によると)という結果。これでは国際社会の中で「恥ずかしい」極みとしか言いようがない。

男女の差別だけではなく上位下位のがんじがらめの縦社会を何とかしなければならないのだと思う。

nice!(0)  コメント(0) 

4.14国会前大集合 [社会]

4.14に国会前の集会に参加しました。

2D7E41E2-AB5F-4AB4-B855-362CFEE232DB.jpeg
おまわりさんたくさん


89C8D469-AEBC-4C8F-91FC-6F69EC3E1C51.jpeg
歩道のこちら側とあちら側に分かれて集会とコール

59F4810A-C179-4A44-B1FF-ABAC12CECB08.jpeg
決壊がはじまり

DC0231BA-A3BE-48CF-9035-C1B7D53F880D.jpeg
合流しました

50B88BF4-C09C-4942-8C62-460708D16E58.jpeg
7F8CDF10-080E-4E3F-AEB7-2588BE56B2AF.jpeg
国会のすぐ前でみんなでコール


モリカケ問題はもう1年越えです。与党政府が責任を取らずに知らんぷりして逃げ切る姿勢のためにいつまでも解決しないのです。

3月に官邸前の集会に参加した時は警備がものかなり厳重で、永田町の駅のあたりから歩道上に柵が設置されて歩くスペースがすごく狭く、警察がずらり並んでいる中を一列に並んで歩かされ、まるで犯罪者扱いされているようでものすごく不愉快でした。
スピーチやコールが始まってもすぐ脇で警官がハンドスピーカーで「少しずつ進んでください!」「ご協力ください!」と不要なことをガンガン怒鳴るのでうるさくてスピーチが聞こえないほど。明らかにわざと集会の妨害をしているようでした。

4月14日は混雑を避けるため早めに国会前に到着。
力強いスピーチとみんなのコール、あっという間に時間が過ぎました。
回りの人と少し話しをしましたが、浜松から、大阪から、広島から、、、とかなり遠方から参加されていました。「交通費大変ですね」と言うと、80代位の女性の方が「アンタ、お金なんて。。戦争始まったら何もかもおわりなんだよ」と。

一部が終わっていったん帰りかけたのですが、コールの声にもう少しいようと、再び国会前交差点に戻ったちょうどその時に、歩道が決壊しはじめました。

警官の誘導で歩道を渡っていた私も、途中で信号が赤になり、警官が「こっちへ!あっ、こっちか」など言っているうちに真ん中に20人ぐらいの人と取り残され、いつのまにか車道にいました。
歩道から市民の波がジワリジワリと押し寄せて来て車道は開放されました。感動的なシーンでした。

国会前の広々した場所でのコールは、開放感に満たされ活気あふれるものでした!
前回は夜、灯りの少ない国会付近の歩道の最後尾の方にいて、コールリーダーの声も良くききとれないほどの遠さだったので、今回は晴れ晴れ。
すっきりした気持ちで回りの人と一緒にコールできて嬉しかったです。
一人で参加したので方向オンチの私は少し心もとなかったのですが、この場に居合わせることができてすごくラッキーでした!

決壊した(デモや集会で人が車道に溢れ出た)というと、「暴徒化した」などと言う人がいますが、そもそも狭い歩道に大勢の人を押し込めることに無理があるのです。
本来、警察の仕事は市民の安全を守ることでしょう。
市民を威圧し、手も足も縛り上げた状態にするのが仕事なら、もはやそれは強権国家です。政治に対して、国民が異議を唱える表現の自由が制限されたら、もう民主主義国家ではありません。
アメリカの銃規制を求めるデモでは、広い車道は市民に開放され、車の方が規制されたそうです。ヨーロッパの国々もそうだと聞きます。
日本だけが真逆の方向に進んでいるような気がします。(警備隊に囲まれて歩くのがいやだという理由で集会に参加したくないという人もいます。)

監視されて縮こまった状態に置かれるのがいかに不快なことであるかをあらためて感じた集会となりました。


* さっそく何人かの知り合いにメールや動画を送ったら、「いいな〜」「かっこいいな〜」「jazzだな〜」とうらやましがられました! 時を開けずに続けてまた抗議の集会をやっていくことが大事だと思いました。

nice!(2)  コメント(2) 

森友/加計事件の行く末 [社会]

一年前に森友学園事件のことを書いたが、一年過ぎてもまだ事件は解決されない。その上、そこに加計事件も加わった。
国民をまったくナメているとしか言いようがない。

モリカケ事件の問題をまとめると、

①公的権力を私物化して特定の小学校建設に便宜をはかり8億円もの税金を注ぎ込んだ。
②その小学校が目指すのが、戦前戦中のものに酷似したいわゆる極右の教育であったこと
③公的権力を使って大学の学部設置を援助
④これらのことをごまかすために権力を用いて文書改ざん隠蔽を行った


②について言えば、それは第1次アベ政権が発足したときからアベ首相が目指していたものであり、2006年の教育基本法の改悪という大事に至ってしまった。
(やらせミーティングなどの批判を浴びながらの例によっての強行採決)
このことは、教育に携わる人たちにとって、大きな衝撃と悲しみをもたらした。
「教育基本法」の改悪は、塚原幼稚園で実践されているような教育を国全体に行うという安倍首相の悲願(狂願)を強行したものだった。

「教育」は人と人、一対一で向き合うもので、国家権力や外部の力に屈することなく、直接的に責任を持って行う、という戦後教育基本法の理念が破壊された。
日本の教育者たちはどれほど悲しんだことか。「まだ憲法がある」とうのが苦しい慰めだった。

改悪によって、教育への権力の介入はますますおおっぴらに強まって、学校組織は上役と下っ端というピラミッド型に変わり、管理職の下に中間管理職をつくり、職員の分断を図るという「教育」にはもっともふさわしくない構造を持ち込んでしまった。
それにめげずに、まだ以前の(戦後の)教育基本法の精神を大切にして日々教育と向き合っている教員の方たちもいるはずと思うが、世代が変わればそれもなくなってしまうだろう。

「教育基本法」を取り戻したい、というのが私がいつも思っていること。

森友事件で権力の私物化が脚光を浴びているが、どういう教育を目指している学校に便宜を図ろうとしたのかについて、メディアはもっともっと強調してほしい。

それにしても、よく堂々と、こういう戦前戦中に戻すような教育を援助しようとしたのか。信じられないことだ。今の社会はそういうものを認める下地があるのだろうか、ということが一番の憂いになる。

テレビを見ていて、「野党の方が悪者に見える」という人がいる。
いつまでも同じ事を問題にしていて、もっと大事な事を話し合え、という人がいる。
理財局長が「本当に申し訳ない」と繰り返し謝る姿と、野党が追求する場面が、テレビに流れるので、野党は何をいつまでもしつこく追求しているのか、と思うらしい。

一年経とうが何年経とうが許していいことではない。
日常的に「忖度」などある、知り合いだからと便宜をはかってもらうことはある、と考える人がいるようだけれど、

強大な国家権力と国民の税金を預かっている立場にある人間は、「忖度」など、絶対にさせてはいけないし、してはいけないののである。

まして政府が平気で文書改ざん、隠蔽をし、それを放置していたら、この社会はどうなってしまうのだろう。
こどもに「うそはつかない」「ごまかすことは悪いこと」など、もはや教えられない世の中になってしまうだろう。


nice!(1)  コメント(0) 

名護市長選の結果に思う [社会]

名護市長選挙OTV開票速報を見ると、
年齢別の投票先が見事に分かれていて、思っていたより深刻な社会現象。

10代〜50代は稲嶺氏支持がおよそ38%、与党が推す渡具知氏支持がおよそ62%で、それが60代からは完全に逆になり、稲嶺氏支持がおよそ67%(90代は86%)で渡具知氏支持は平均34%、というものだった。

詳しく引用すると、
   (稲嶺氏支持) (渡具知氏支持)
10代ーーー37% ーーーーー 63%
20代ーーー38% ーーーーー 62%
30代ーーー39% ーーーーー 61%
40代ーーー41%ーーーーー 59%
50代ーーー38%ーーーーー 62%

60代ーーー65% ーーーーー 35%
70代ーーー68% ーーーーー 32%
80代ーーー67% ーーーーー 33%
90代ーーー86% ーーーーー 14%

こんなにはっきり分かれてしまうということはどういうことなのだろう?
現役世代とそうでない世代の分断ということになる。

内田樹氏がツィッターで、「日本もアメリカと同じように”国民的分断”の局面に入ってしまった」ということを書かれていたが、そうなのか、国民的分断とはこういうことなのか、と思った。実際に身近なところでも起こることなのだ。
これまでも人々の意見が層によってあるいは年齢によって分かれる傾向はあるとは思っていたが、ここまで顕著に現れるとは驚きだ。
しかも50代までと60代からの傾向の違いがあまりに際立っている。

沖縄基地辺野古移設反対を表明していた稲嶺氏が負けたことに「えっ!」という驚きと失望と悲しみを持ったが、選挙というのはそういうこともあるだろう。
いろいろな力が働くだろうし、ましてや基地問題にからむと選挙となれば、国(与党政権)は権力を駆使して様々な策をぶつけてくるだろう。
基地の辺野古への移設反対を訴えた人たち(政治家はもちろん沖縄県内外の人たち)はずいぶん頑張っていたし、私の回りには辺野古移設反対派が多いので、稲嶺氏が勝つような気がしていたけれど、そんなに簡単なことではなかった。
トランプを支持しているいる人がいるくらいだから、政治家を選ぶ基準、尺度が、人によってまったく違うということだ。

沖縄タイムスの社説には、「基地疲れ」「経済重視」という見出し。
稲嶺市長の市政では、福祉、教育、雇用問題などすいぶん上向きに改善されてきたのにもかかわらずだ。
社会政策がほんの少し上向きになっていても、日本全体の経済不安の前には、たいした効果なしという判定をされてしまうのだろう。
しかも基地建設に反対し続ければ「再編交付金」は支給されない。
本来ならば、基地をずっと押し付けてきたいうことだけで、その代償分のお金を今後も沖縄県に支払うべきなのだ。「代償交付金」として。

沖縄に基地を押し付けていることは不公正、不平等で明らかに間違っていることであっても、国は圧倒的、暴力的な力を使って基地建設を進める。
「どうしようもないことだ」「もういくら反対しても基地は作られてしまうのだ」と感じる人がいても不思議はない。


やっぱり今の時代、「正義と公正」は弱いものだ。
沖縄への基地押し付けと日米の地位不公正さ、をなんとか正そうと頑張っている人たち(政治家や市民)はたくさんいるのだが、、、。

基地があることによって、日々の生活の中で常に不安と不快を感じ、国家権力の横暴さを目の当たりにしながら生きてくというつらさは、想像するだけで恐ろしい。

これで、「沖縄の人たちの選択だから」という言説がさらにまかり通ることになるのだろうか。

nice!(3)  コメント(2) 

「正義」と「公正」 [社会]

IMG_1401.jpg

正月にテレビで「相棒」を観て、よくできているなあ、と感心した。
最近の政治ネタがしっかり入っていて、ドラマを通して一貫して訴えているのが、「正義」と「公正」。
「相棒」シリーズはその時々の世間の話題になっていることが、うまく織り交ぜてありしかも批判的に描かれているので、見終わってなんとなく元気になってすっきりする。
いつも感じるのは、社会生活を送る人間が一番大切にしなければならないことは「正義」と「公正」だということ。これには文句なしに共感する。

人間として大事にしなければならないことと言うと、
一般的には「平和」とか「思いやり」とか「助け合い」という言葉があがるだろう。

それはそうだ、もちろんそうだ、と思いながらも、
何か居心地の悪さ、おさまりの悪さを感じてしまう。
「思いやり」も「助け合い」も人の感情や情緒といった部分に大きく関係するので、「一日一善」というような訓戒みたいに感じられ、居心地が悪いのだと思う。
「オ、モ、テ、ナ、シ、」を思い浮かべるからよけい居心地が悪い。

言葉は時代と共に微妙な雰囲気をまとっていくものだ。
「リベラル」という言葉も、今では価値がなくなり、むしろマイナスのイメージとして定着してきたのに驚いている。

「リベラル」の語源はともかく、私が学生だった頃使っていたリベラルの意味は、

「迷信や古くさい因習に囚われず、公正で自由な発想と行動力を持ち、
人真似ではなく、自分の進むべき道を果敢に切り開いていくこと」

だった。

だから「リベラル」はかなりのほめ言葉であって、
リベラルのふりをしているだけの人、真にリベラルな人、
という区別もしていた。

それなのに、今の政治の世界ではリベラルと言われるのはよくないことらしい。
それは左翼だからダメということらしい。
「左翼」という言葉だって本当はどうということない言葉で、
右翼に対しの左翼、という意味にとれば、私は左翼ということになる。
レッテル貼り(つまり差別)のために使うから嫌な気分になる。


そういうことを思いながら、あらためて「正義」と「公正」について考えてみると、これはまだゆるぎない言葉だ。
「正義」と「公正」に真正面から反対する人はいないだろう。
世の中のさまざまなニュース(政治的なものから、毎日のように起こる事故や事件にいたるまで)に、人が腹を立て、話題に取り上げ、事態を見守るのは、「正義」と「公正」がないがしろにされていることについてだ。

そのゆるぎないはずの「正義」と「公正」が最近軽視され始めたような気がする。
特に感じるのは政治における「正義・公正」の軽視だ。これは非常事態だと思う。

「正義・公正」にあらず、ということはすなわち「不正」なのだが、
「不正」が見過ごされて知らんぷりされ、まかり通っていくのを見るのはものすごく大きなストレスだ。このままでいいのか、これを許したら、このあとの「不正」もすべていいことになってしまうのではないか。
これでは社会生活の根幹が崩れてしまう。

森友・加計問題、沖縄基地問題、原発問題、労働問題・・すべてが「不正義」「不公正」に処理されていいるのが許せない。

「正義」と「公正」を大事にする世の中になってほしいというのが今一番の願い、目標だけれど、
「正義」と「公正」を振り回す人間て、今の社会では嫌われるんだろうね。


nice!(2)  コメント(0) 

2018年の始まり 〜国連総長が世界に警告〜 [社会]

今年は1ヶ月にせめて2回くらいは記録をしておこうと思っていたのにいつの間にか1月が終わってしまった。世の中嫌なことが立て続いて、がたがたグチャグチャしていると、時はすごく早く流れるものらしい・・これ実感です。
2018年は国連総長の警告で始まった。大事なことなので記録しておきます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【ニューヨーク共同】国連のグテレス事務総長は31日、新年のあいさつを発表し「2017年は年初に平和を願ったが、残念ながら根本的に逆のことが起きてしまった」
とし、世界の指導者らに団結して立ち向かおうと訴えた。「これはアピールではなく、非常事態の警告だ」と強調した。

グテレス氏は17年初めに就任した。1年間を振り返り「核兵器の脅威は冷戦以降では最も高まった。人権の恐ろしい侵害があり、ナショナリズムと外国人嫌いが勢いを増した」などと列挙した。いずれも具体的な国や地域には言及しなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

どうしてこんな社会になってしまったのかと考えることが多いが、日本だけではなく世界各地で起きている現象であるようだ。
もちろん全体的にということではなく一部ではあると思う(願う)が、ナショナリズムが日本だけでなく世界に遍く台頭してくるというのはとても気持ちが悪いことだ。

歴史のうねりというものが、人間の個々の意思とは関係なく、抗いがたい自然災害みたいに思えてしまう。
日本だけなら、「日本社会にはこういう問題点があり、こういう傾向がある」と分析もしやすく、問題の解決法もなんとか見つけられるような気もするが、世界的にこうだ、ということになってしまうと、考えるすべもなくなるような心もとなさだ。

2018年がどんな年になるのか、予測がつかない。
10年後となるともうまったく予測がつかないが、良くはなっていないとしてもせめてこれ以上ひどい社会になっていないことを願うばかり。


nice!(1)  コメント(0) 

2017年の終わりに  [社会]

3月に森友学園のことを書いたきり、あれよと思う間に今年も過ぎ去って行く。
何も記録せずにこのまま終わりとなりそうだったけど、雑感だけでも・・。

この年がどうだったかと考えるとやはり気持ちは暗くなる。
いつもいつもマスメディアに踊らされている世間の風潮は、ひどくはなっても決して良くなる気配がない。
現政権の支持率がそれを物語っている。
どんなに酷いことをやっても、依然と今の与党を支持している人がいる。
それが不思議でならない。

森友、加計事件のことだけを考えても、
ある人と話したら、「政治家なんてみんなそんなものだよ、特に今の政権が悪いとは思わない」などと言うのでがっくりしてしまう。
税金を私的な交友関係で動かしたり、その場しのぎの嘘をいくらついても、それもたいしたことはないと思うらしい。
それも、金持ちでもなく質素に暮らしている人が言う。まったく不思議だ。

若者は与党支持者が多いという。これはなんとなくわかる。
政治ニュースに漂う腐った臭いを、若い人は我慢できない。選挙になんか行かない。
自分の身をそういう社会から外に置くことで一応自分を守っているのだろうと思う。

でも政治から遠い場所に身を置いているつもりでも、社会から逃げることはできない。
嫌な社会から目をそむけても、社会の影響を否応なく受ける。
でもそういうことは考えない。毎日がきつい労働で心身がくたくたなので、政治の話題は余計なことで、そんなことより今自分が抱えている問題や環境をなんとかしたい。
何でもどうでもいいという気になる。
本当は、今個人が抱えている悩みや問題や生活は、政治に深い関係があるのだということは思わないだろう。

選挙に行く若者の方がむしろ珍しい。
テレビでインタビューに答えている若者の姿を見るが、
たとえば憲法改正についてどう思うか、と問われたら、「よく考えて、みんなで話し合って決めればいいと思います」という返答をする人が多い。

「よく考えて、みんなで話し合って」ということがいかにむずかしいことか!!

北朝鮮がやたらとミサイルを飛ばしてくるーこれは危ないから何とかしなければならないー日本も軍備をしっかりやらないといけないーそのためには憲法を変えることもやむを得ない。
と、まあ、こんな風なのが「よく考える」ことになってしまう。
若者だけではなくいい年をした大人もこんな風な人が多い。
こういう考え方はとてもシンプルで、一見論理があるようにみえる。

そこに欠けているのは、もう一つの考え方として「武力で平和がつくれるなら、世界はとっくに平和になっているはず」という考えだ。
なぜ日本が70年以上も戦争をしないでこれたか、そもそも戦争はどのように始まってしまうのか、歴史をしっかり学ぶところから始めないと「良く」考えることはできないだろう。
「戦争になりそうで怖い」という人たちの考えには二通りあって、
だから安全保障を強化するべき、という考えと、
武力ではなく友好関係を築くことで、という考え。

後者の考えを実践するのは本当に難しいかもしれないが、個人、民間団体で、実践できている例は多い。
前者の、安全保障=武力強化という考えは、一切ぶちこわして簡単に戦争になだれ込んでいく可能性が大きい。

「戦争が怖い」なら、どういう方向を目指すべきかはっきりしていると思う。
武力を支持する人は、「悪いやつはさっさとやっつけてしまえばいい」と考え、それによって事が起きても、自分や自分の身内には災いは絶対に及ばないという迷信のようなものを持っているのではないかと思える。


「みんなで話し合って決める」

みんなで話し合うことがいかに難しいことであるか・・!!
国会中継を見ていれば、国民の代表者の政治家たちの話し合いを見られる。
ちょっと見ているだけで気分が悪くなる。
議論がかみあわない。それは質問者に対してきちんと答えない政治家がほとんどだからで、こんな会議をやっているようでは「みんなで話し合って決める」ことなどできるわけもない。議論がかみあわないだけではなく、せせら笑ったりにやにやしたり。。
ちょっと見ているだけでうんざりする。胃が痛くなる。

だから、「よく考えてみんなで決める」ことなど簡単にできないということだ。
じゃあ、何もできない・・?
強引に変なことを決めるくらいなら、何にもしない方がむしろましだと思う。
きちんと公正、公平な話し合いができないようなら、法律を作ったり、まして「憲法」をどうにかしようだなんて、滑稽としか言いようがない。

独断的、強圧的な力と、それをとめようとする力(こっちはまだまだ弱い)
先の見えない戦い、
これまでもずっと引きずってきて、
これからもずっと引きずって行くのだろうな、と思うと、
年の終わりも始めもないな〜というのが今、感じていること。


nice!(2)  コメント(2) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。