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「体罰」について(続) [教育]

自民党が検討する「いじめ防止対策基本法案(仮称)」の骨子案で、教諭による体罰もいじめと位置付けると新聞に報道されていた。

「体罰」は、これまでも繰り返し問題になっており、学校教育法ではもうとっくの昔から「体罰禁止」となっているのだが、なかなかなくならないのは、よほど「人権感覚」に疎い国民性ということなのだろうか。

ある教員が別の教員の「体罰」を告発したら、同僚には内部告発者として白い目で見られ、体罰をした教員が受け持っている部活動の保護者が、「熱心な先生が処分を受けるようなことはあってはならない」とおかしな署名活動まで始めたりということがあったくらいだ。
「体罰」は「「いじめ」であるというのが共通認識になれば、よけいな論争や摩擦で教員の貴重な時間を浪費しないですむかもしれない。

けれども、それだけで「いじめ」や「体罰」を解決しつもりでいるとしたら、それはとんでもない話だと思う。
部活動で、「生徒のためだ」とえらそうに体罰をふるう教員がいるのは、土日などの休みを返上して、無償で働いているせいではないかと思う。
部活動の顧問には、無償で働いているのだから部活動が成り立っているのは自分のおかげだ、という意識が生まれやすい。だから、感情的に生徒を怒鳴ったり殴ったり、という行為も、(教育委員会や管理職、保護者に)大目に見てもらえる、と思っている。

しかも、県大会などで優勝したりすると、それは顧問の実績となり、管理職、ゆくゆくは教育委員会のメンバーになれる(つまり出世コースでもある)というシステムになっていたりする市もあるから勝利至上主義も出てくる。「体罰」など仲間内では暗黙の了解で、「あんまり派手にやるなよ」という位のことである場合が多い。
実際にキョウイクイインカイのメンバーがもと体罰教師だというのはけっこう多いのだ。もちろん所によって違うかもしればいけれど、少なくとも私の知っている市はそうだった。
もと暴力教師がえらそうに委員会メンバーになって、指導主事などという肩書きで現場の教員の研修会に出てきて教員の指導をする立場になるからあきれてしまう。

教員を無償で働かせてはいけない。きちんと仕事に見合った賃金を支払うべきだ。そうすれば「ただで働いてやっているんだ」と、えらそうな態度を取る教員は減るだろう。
大体、教育委員会や市も、休日返上の教員のただ働きを見て見ぬふりをし、ボランティアでやってくれているのだから、とすませているのがおかしい。

生徒同士の「いじめ」問題に根本的に取り組むには教員の決めの細かい指導が必要となる。いじめが生まれるような子供の複雑な心的環境に入り込んでいくしかなく、そのためには子供と直接に接する教員の真摯な努力しかなく、市町村に「報告」するとどうなる、ということではない。
教員に時間的なゆとりがなくては子供との関わり方もおざなりになってしまう。

教員に、教材の研究、研修をする他に、一人一人の生徒のカウンセラー的な仕事ができる時間的余裕がなくては不可能だと思う。
授業の中に「道徳」という時間があるが、そんな通り一遍の一斉授業で解決できるようなものではないのだ。

今の教員には、生徒とのんびり話をする時間はない。時間に追われ、一度に大勢の生徒を相手にしていては、子供が置き去りになるのは当然だと思う。
肝心な教科の授業を精一杯やりながら、その上、掃除だ、給食だ、部活動だ、研修会だ、と日々追いまくられているのが日本の教員の姿だ。
今の日本の学校に、きめこまかな指導を求めるのはまったくないものねだりだろう。
10年前、20年前に比べて、教員の仕事は確実に三倍くらいに増えている実態を、どの位の人がわかっていることか、と思う。

それなのに、自公政権は、あっさりと、少人数学級はやめる、という方向に変えてしまった。
民主党政権時代にようやく生徒数の上限を下げて生徒一人一人に目を向ける、という基盤がつくられるか、と思ったのに・・。

少人数学級にしたからといって学力が上がる保障はなく、要するに経済効果がわからないから、というのが理由だという。
さすが、景気のことばかり唱える自公政権のやることだ、と思う。
「いじめ」や「体罰」など、学校の問題が深刻になっている最中に、平気でこういうことを言う。

こういう冷たい政治に、誰もが腹を立てうんざりしているのだ、と思っていたのだけれど・・・。

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「体罰」について [教育]

体罰はなくせるのだろうか?
体罰にからんだ事件が起こる度に「絶対に体罰は許されない」と新聞やテレビで大きく取り上げられる。
しかし、果たして、「体罰は許されない」ということが、世間の常識にどれだけなっているのかどうか?

許されないことをやってしまう、というのは人間社会には多々見られるが、「体罰」に関しては、実際は、「覚醒剤はダメ」というような一般常識にすらまだなっていないような気がする。
体罰を受けたことが自分のためになった、など考える大人が多いし、我が子を学校に預けるにあたって「先生、うちの子が悪いことをしたときはビシビシ叱ってください。殴ってもかまいません。うちはそういうことは学校におまかせしますので。」などとわざわざ言う親が相変わらずいるのである。

そう思っている親がいることにあぐらをかいて、日本の体罰教師は、法に反していることを百も承知で、体罰は子供のためだ、と正当化して、同じ行為を繰り返すのである。
「いじめ」と似ている。いじめられる要因を作った者が悪い・・だからいじめられるのは仕方ない、という正当化と同じ。

「体罰」という言葉がまずまちがいのもとになりやすい。「罰」という言葉が入っているために「悪い行為に対する当然受けなければならないむくい」という意味が強くなり、悪いことをしたのだから仕方ない、という見方が出てきてしまう。

「暴力」という言葉に置き換えてみたらどうだろう。

生徒に暴力をふるった、という事実を、学校関係者なら、必ず、生徒に体罰をふるった、という表現に言い換えようとする。
それは、暴力をふるったと言うと、あからさまに「悪」だとわかってしまうが、体罰と言えば、いくらか弁明の余地があるように聞こえるからだ。

教師による暴力は、早い段階で、同僚の教師がわかっている場合が多い。被害を受けた生徒が訴えてくるし、他の生徒が教えてくれることも多い。
生徒からの訴えがないような学校は、教員がまったく生徒に信用されていない、たちの悪い学校である。

そして生徒の訴えがあったときに、同僚の暴力をきちんと糾弾し、阻止し、悪習をなくそうと真剣に努力する教員はどのくらいいるだろう?
これについては、はなはだこころもとない気がする。

どんな職場でも仲間同士の失敗を追求するのは難しいことだと思う。
上に立つ者がしっかりと正しい方向へ導いてくれるなら一番話は簡単なのだが、上に立つものが、間違った方向へ向いていたら、悲惨である。

学校教育で上に立つ教育委員会や学校の管理職は、世間体を第一と考えがちで、一番大切な「生徒のため」という基本的な視点はどこかにいってしまっていることが多い。
だから「いじめ」の発覚も遅れ(発覚したくないのだ・・)、「教師による暴力」もなくならない。生徒間の暴力(いじめ)がなくならないはずだ。

そして、たとえ、良心的な教員が「教師による生徒への暴力」を問題にしようと勇気を奮い起こしても、そこには「体罰教師」を擁護する保護者集団が必ず壁となって立ちふさがり、じゃまをする。
「体罰教師」というのは、ごろつきでもなんでもなく、平常はもっともらしい訓辞を生徒に垂れ、冗談も得意で、生徒からの信望も一応あるのだ。
熱心で生徒思いでがんばってくれる先生、などと逆に評価されたりする。

だから教師の「暴力」の標的にされた生徒は、非常に孤独なのである。
孤独の中で、誰にも苦しさを伝えられない状況で、悲劇は起きてしまう・・。

「悪いことをしたときはビシビシ叱ってください!」と、言うような大人が、悲劇を生んでいるのだと思う。教員もまた、仕事をしていく中で成長していく人間なのであり、回りの雰囲気や、保護者の意見やらで、自分の指導法を作っていくからである。

正しいことがすんなり伝わらない社会というのは本当に住みづらい!
「原発のない社会にしよう」というしごくまともな意見も、「景気のためには目をつぶるしかない」などという無茶な考えに阻まれてしまうのだから。

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山の中で新年を迎える [雑感]

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今年は長野の山では12月上旬に大雪が降り、除雪車も急なことで間に合わなかったらしくて、けっこう大変な思いをした。何といっても道路を歩けないのは困る。積雪が多いと車どころか人の足で歩くのが困難になってしまう。

こういうときのためにスノーシューもあるが、それを持って外出はしない。
12月のある日、外出先で遅くなり夕闇が深くなる頃バス停で降りて家に向かうと、家の周りは思ったより雪かさが増していて、雪の中を這いずるように帰った。

足を取られて3,4回、ころんだ。一度は雪の中に顔が入ってしまい冷たかった。笑い事ではなく、かなり危険な状況にちょっと近づいたのだが、<こういうのを『こけつまろびつ』と言うんだな〜>などと考えているのが自分でも変だと思った。
私が出かけている間に、除雪されているだろう、という予測がはずれてしまって、雪の大変さを味わうことになった。

年末年始は予報では毎日が雪マークでため息が出たのだが、それほどでもなかった。
毎日チラチラと雪は降っているけれど曇りのことも多く、たまには太陽が顔をのぞかせてくれる。一日のうちに、雪、曇り、晴れを繰り返している。飽きない。
さすがに気温は低く、朝はマイナス10℃くらい。午後になっても気温が上がらないので、家の中で何もせずじっとしているとシンシンと寒さを感じる。あまり寒いので外の温度計を見たら、午後4時でマイナス8℃だった。

元旦、雪の晴れ間に、外の様子見に少し車を走らせた。
IMGP2807.jpg愛車のケイ、小さいけど四駆

家から車で15分ぐらい行くと戸隠山がとてもよく見える開けた場所がある。
雪はやんでいたけれど戸隠山は見えなかった。
せっかくだからお蕎麦を食べようと戸隠中社まで行った。駐車場のすぐ近くに神社があるので行ってみた。
IMGP2900.jpg

今回入ったおそば屋さん、蕎麦も美味しかったが熱々のアップルパイがとても美味しくて、おみやげに数個包んでもらった。店には、立派な竹細工の籠やこまごました土産物も売っていて、箸を一膳買った。
その包み紙に、津村信夫の詩が書いてあった。

何気なく見た「戸がくし姫」という詩のタイトルに惹かれ、一生懸命読んでいた。
これまでに津村信夫の詩を読んだことがあるかどうか、覚えていないのだけれど、心に染み入るような詩だった。

「戸がくし姫」

山は鋸の歯の形
冬になれば  人は往かず
峯の風に  屋根と木が鳴る
こうこうと鳴ると云ふ

「そんなにこうこうって鳴りますか」
私の問ひに
娘は白い歯を見せた
遠くの薄は夢のやう
「美しい時ばかりはございません」

   津村信夫 詩集より

今では、真冬でも戸隠詣でをする人が多くいて、雪に閉じ込められる怖さはずいぶんなくなったのだろうけれど、この詩に歌われている冬の山村の厳しさは、子供の頃の記憶と重なって、まざまざと蘇るようで、懐かしいような哀しいような・・。

細い竹でしっかりと編まれた籠を一つほしいといつも思うのだけれど、わが家には安物のカゴがたくさんあって、安物だけれど捨てるのももったいない感じで、ちゃんとした籠はまだ買わずじまいだ。
やっぱり今年はちゃんとした良い年になるように、良い籠を買おうか・・。

IMGP0144.jpg見えなかった戸隠山

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新政権がめざす社会とは [雑感]

ニュースは見ないようにしているのだけれど・・
民主党が壊滅してこれから社会はどう変わっていくのだろう。

新政権は、原発を再稼働させ、さらに新増設もありきだと言う。(安全への十分な配慮、他のエネルギー開発も考えながら、という弁解つきで・・。)

憲法9条を変えて、自衛隊を戦争もできる組織にしたいらしい。(日本はアメリカの何番目かの軍隊になるのだろうか。)

教育においては、愛国心の名の下に「道徳教育の充実」を唱え、国の命令に喜んで従う人間造りをめざすようだ。国造りにおいて、こと教育ほど大切なものはない。(かたくなに政府が流す情報のみを信じ、その命令をおしいだく国民を愚かだ、おかしいと、批判する人は、それはすべて教育による成果であることを考えているだろうか。)

こういうことを前々からやろうとしてきた人が総理大臣になれるのだから、日本はすごい国だと思う。あらゆる危険を無視して、ひたすら景気回復を願うというのがすごい。

衆院選の選挙速報で、埼玉テレビで出口調査による年齢別支持政党というのを報道していた。こういう調査の正確性はともかくとして、妙に印象に残った。

それによると、今回の選挙で自民党を支持したのは、
まず、20代の人達の支持が多い。
それから60代もかなり多く、70代、80代になるとどか〜んと増えている。
30代、40代、50代は民主と自民の支持率は半々というところ、だった。

20代はしょうがないか・・でも、70代、80代は人生経験も豊富だろうに何をやっているのだろう、と思う。
そりゃ、民主党は当初掲げた政策のほとんどは先細りになり、自民党との違いもなくなり、それどころか、自民党政策の先取りみたいなことをやってしまったのだから、厳しく批判されるのは仕方ない。
でも、だからと言って自民党の方が良い、ということにはならないだろう。
それなのにあっさりと自民党が勝つ選挙をしてしまった。

原発、改憲、教育、この三点だけで、自民党がどういう社会を目指しているか明白で、景気がどうの、経済がどうの、と言っている場合ではないはず、と思うのだが。

事故の始末もできないのに原発でまだ金儲けをしようとし、戦争だって金儲けになる。そういう方向に社会をもっていくために教育への介入は必須なのである。
そういう社会を望むのだろうか? お金に目が眩むにしてもひどすぎる。

それに時々思うのだが、今、日本は本当に景気が悪いのだろうか。
相変わらず、贅沢な生活をしている人は多い。高価で不要な物もどんどん普及している。もっと質素でもいいはずだ。ところが貧富の差は拡大し続けていて、最低限度の生活を遅れない人も多い。
こういう格差社会を推進してきたのが自民党政権ではなかったのか。

これからのことを考えると、ただただ不愉快になってしまう。
選挙後も、新聞には反原発を訴え続ける人達の意見が掲載され、読んでなぐさめられたり、ほっとしたりするのだけれど、こういう立派な意見が世間に及ぼす力の小ささを思うと、とてもがっかりしてしまう。
みな丁寧に新聞を読む暇などないのだろう。

真面目な記事より、表紙にどぎついことばがあふれているような雑誌を面白がって読む人の方が多いのだろう。
2012年も愚痴ばかりで終わりそうです・・。




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一票の軽さ? [雑感]

今朝、目をさましながら、何か胸がざわざわイヤな感じ。
<昨日、何かイヤなことがあったんだっけ・・? あ、自民党が大勝したんだった・・>と思い出した。

テレビをつけて珍しく長々と選挙解析のような番組を見た。
新聞もすみからすみまで読んだ。(これもめったにないこと)
小選挙区制度のせいで、得票率以上の議席獲得になるのはわかっていたけれど、それにしても自公で325議席とは。そこに維新の会の54議席・・。

自民党の全国の比例得票数は1662万票。
2005年は2588万票、2009年1881万票で、得に自民党支持が増えたというのではないようだが、政権交代前の自民党の政治がまた始まるかと思うと暗い気持ちになる。
これが日本社会の顔になると思うと不安になる。

投票率は前回、前々回より10%も下がったが、私も投票に行く気がしなかったから、こんなものかもしれない。
結局、「脱原発」も「消費税反対」も、世間の注目を集めなかった。
世間というのは、何よりも景気が一番大切で、なんとなく景気を良くしてくれそうな党を選ぶものなのだろう。
「脱原発」、あるいは「消費税反対」をただ叫ぶだけでは、選挙結果には結びつかないだろうとは思っていた。
「憲法改悪反対」なんて、票を減らすだけの効果しかなかったようだ。


一般の人の感覚では、「原発問題」は、自分たち庶民が決めることではなく(つまりは選挙の争点ではなく)、自分たちより世知に長けている政治家さんたちがうまく道筋をつけてくれればいいと思うような事柄で、まずは景気対策が大事なのだ。

「消費税」は、ヨーロッパなどの社会福祉国家を見れば、社会保障のためにある程度の増税は、いずれは、やむを得ないと思っている人がほとんどだろうと思う。
増税の前にもっとすべきことがある、という主張は、たいしたインパクトは与えない。無駄をなくすのは当然のことで、だからと言ってこれからずっと消費税を上げずに行ける、とは誰も思っていない。「富裕層」や大企業ばかりが得をしている、と言われても、そんなのは人間社会が始まって以来そういうものだ、とみな受け入れている。格差や不平等をなんとかしなければと思っている人は国民の一割ぐらいでなのではないか?

「憲法改正」については、改正したら大変なことになるという危機感をもつ人はものすごく少ない。
「アメリカに押し付けられた憲法だ」という人や「もうそろそろ変え時だろう」など言う人がいて、そういう人は、何のために変えようとしているのか、そもそも憲法を国民は熟知し、憲法を基本にして物事を考えているのか、については考えもしないようだ。


選挙があるたびに考えてしまう。
この「私の一票」は、何かしらの価値があるのかないのかと・・。
一票差で決まったなどという話は聞いたこともない。(学級委員の選挙じゃないのだ)

選挙に影響を及ぼすのは、ある程度の票のかたまり・・ということになる。だから、私の一票はあってもなくても同じなのである。
ところが、ある程度の票のかたまりを作るには一票一票なのであって、だからこそ、一票は大事ということになる。
それでも現実問題として、私が選挙に行くか行かないか(つまり私の一票)は、依然として何の価値も持っていないことにかわりはない。

選挙があるたびに<意味のない一票>ということが頭に浮かび、選挙に行こうか行くまいか考えてしまう私。
一票の軽さが一票の重さに変わるとき、何か特殊なエネルギー転換のようなものがあるように感じるが、それはどうにもうまく把握できない。まるでブラックボックスである。

選挙運動を見ていても、立ち会い演説で心を動かされる人はいるのだろうか、握手して一人一人に「ヨロシクオネガイシマス」と呼びかけることにどれほどの効果があるのだろう、と私は思う。
でも、有権者の何割かが、演説や握手で候補者を決めるタイプの人だとしたら、効果はあるのだろう。


ある人が一票は136万円だ、と言ったので」へ〜っ・・」と思った。どこかで読んだらしいが、選挙費用を有権者数で割ると、有権者一人当たりが払う額は136万円なのだそうだ。
「だから一票を大事に使った方がいいよ」とその人は言った。
費用に換算してみてもね・・。
やはり私には、自分の票が軽いのか、それがどこの段階で重くなるのか、それとも軽いままなのか・・謎のままである。


毎日新聞(12月17日夕)によると、

韓国メディア「極右的な公約を掲げた自民党が圧勝」「改憲論者本格化する可能性もある」と報道。
英BBC放送「日本は右傾化した」と分析。

これからどうなることやら。



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衆院選に思う 2012年12月 [社会]

選挙が近づいてきた。ごちゃごちゃ考えるのが面倒で、信用できる人に「どこに入れればいいの?」と聞いたり、また逆に、同じ質問を人に聞かれて「サ〜ッ?」と答えたり・・。

政策で選ぶしかないのだが意外とむずかしい。(人を見て判断などはよけい不可能。)
一番重要な「原発問題」にしても、本当は「続原発」のくせに、今よりさらに安全であることが条件、将来的には脱原発を目指す、と政策にかかげるから、気をつけないとだまされてしまう。途中から方針が変わるのも頻繁にある。

政策を読んで、ピンとくる党というのはなかなかないものだ。
政策は、独断的だったり、ごまかしが透けて見えたり、こういう党はすぐに除外できるが、反原発をかかげている党でも、言葉づくりが安っぽかったり、のっぺりしていたり・・と、何やらいろいろ気になってしまう。

それでも、まがりなりにも「反原発」をかかげている党が私の選択の第一条件だ。

民主党には期待したが尻つぼみに終わった。本当のところ、野田さんは一体何を考えているのだろう?どういう人なんだろう??
物事を成そうとしたときには、やろうと努力してダメだった場合と、もともと真剣にやる気がなかった場合があると思うが、民主党の場合はどうだったのだろう。
妨害もかなりあって力を削がれた感じもする。

上下関係やしがらみで固く結びついているような組織をよしとする人たちが多くいるが、私は、いろんな考えの人が集まっているのは当然で自然な姿だと思う。いろんな考えの中から善い考えがうまれる。「一致団結」という言葉こそ用心しなければならない、と思っている。
「党」というのは流動性がある集合体だと思うが、流動しながら、その集合体の美質を高める方向に行く場合と、そうならない場合があるのだろう。

今回の多党乱立には辟易する所が多いが、ある意味で、個々の政治家が自分の判断で動き始めた、という見方もできる。政党名が矮小で、かかげる政策がのっぺりしてお粗末なものであっても、無理して一つにまとまるよりは自然かもしれない。

選挙前はやたらと世論調査が行われるが、それによると、支持する政党で一番パーセントを多く占めているのは自民党のようだ。
といっても、20%台なのだが。
自民党が与党に返り咲いてしまうのか・・残念だが・・。
でも、与党自民党にはたいしたことはできないのじゃないか、と私は思っている。
これまでの日本の悪政を作り上げてきた張本人が政権を取っても、それに反対する人は今すごく多いはずだ。
安倍総裁の「日本を取り戻す」というスローガンを、「自分が国家を再び手に入れる」という意味か!とあきれた人も多いと思う。(私はそう思った)
最近やたらと勢いづいているようだが、これまでは、野党だからこそ、自分たちの悪行を追求されることが少なく、悪行の責任性が目立たなかっただけのことだ。

原発事故が起きたとき、自民党が与党であったらどうだっただろう、と思う。
民主党の事故後の対処が悪かった、とさかんに言われたが、自民党だったらどういう対処をしただろう。原発推進の張本人が、世間の批判を一体どうやってかわせただろう?
批判を最小限に抑えるためにさらにあくどい嘘の事故報告をしたのだろうか。

連立政権になることは間違いなしのようだが、どことどこが組むのか気になる。最悪の組み合わせはを予想するとげんなりするが、それでも風穴はあるように思う。

私が政治に望むのは、

まずは原発をやめること。
続けながらやめていくというのはダメ。ストップして日本の自慢の技術力を総動員して再生エネルギーの道を進む。「原発を止めると電気料金が上がってしまう」「その結果中小企業がつぶれてしまう」・・など、最先端技術を誇る日本が言う言葉ではない。都合が悪くなると「無理です」と居直ってしまうのは本当にひきょうだと思う。)

そして、沖縄米軍基地の大幅撤退をめざすこと。この原発問題と基地問題の二つは、一部の地域の切り捨てという点で本質的に同じだと思う。
要するに差別なのだ。
原発は過疎地に押し付けておけばいい、基地は沖縄に押し付けておけばいい、という切り捨て発想。
「ある程度の犠牲はしょうがない」「がまんしてもらうしかない」自分が犠牲者の立場にならなければそれでよいと考えているのである。、

すべての人に最低限の生活保障をしようと考える党であること。
社会の仕組みのせいで貧困を強いられているのだから、社会的に何とかしなければならない。そういう責任が社会にある。
一日中働かされ、低賃金しかもらえないような状況は無くさなければならない。こんな社会では金持ちしか子供を育てることができない。

地球環境を汚さないことに重きをおく党であること。
大体において、生物の中で人間が一番えらいと思っている人は、人間社会の中でも自分がよければそれでよい、うまく社会に適合できないで苦しんでいる人間は「個人の責任だから仕方がない」、自分たちとは違う人種だ、と考える傾向がある。

以上私が考える政策重要ポイントである。
こういう政策を掲げられる党なら、教育や福祉のあり方も、その「理念」は正しい方向を向くはず、と思う。
逆に、原発続投したがっている党は、いくらもっともらしいことを言っても、教育も福祉も真に国民のためになるようになど、考えてはいないだろう。



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秋の信州(2)〜熊に出会ったとき〜 [環境・自然]

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(道路脇の藪草が枯れ、カラマツも落葉し、見通しが良くなりました)

8月は熊出没のニュースがとても多かったが、秋になって熊情報はだいぶ減ってきたようだ。熊が好むどんぐりや栗がたくさん実ったからだろうか。
熊が人里に現れるのは餌が乏しい6月〜9月だという。

8月の始め、私も熊とはち合わせしそうになった。
日中の暑さがやわらいだ夕方、人も車も少ない道路を散歩していたとき、「ガオゥ〜!」という吠え声と共に道路脇の茂みの中でガサガサッという物音。

声の大きさと低さ、茂みの揺れ方から、獰猛で大きな犬かな?と思い、そのまま静かに通り過ぎた。5,6歩歩いてから、今どき獰猛な犬が放し飼いにされているはずはない、もしかして熊・・?と思った。
そう思ったらもう怖くて振り返ることができなかった。走るのは良くないだろうと、ひたすら静かな気配を保って20mばかりドキドキしながらそのまま歩いた。
そっと振り向いたけれど道路には何も見えなくてホッとした。

後で「よく冷静に対応したね〜」と言われたが、私は子供の頃から「動物にはもともと『悪意』というもはない」という考えがあって、動物が怒るのは、何かに驚いたり脅えたとき、と思うので、「おどろかせてゴメンナサイ、という態度に自然になってしまう。驚かすつもりはないです・・と静かにその場を離れるようにしている。

8月の5時頃はまだ明るいのだが、そういうことがあってからは散歩ができなくて困った。(やはり熊は怖い!お友達になれればいいが、そういうことはあり得なさそうだし、パニックになった熊がおそってくるという状況しかなさそう。)
熊は、時刻に関係なくあちこちで出没。市街地や駅のホームにまで出てきたという情報があって、なるべく寂しい場所は歩かない、歩くときは四方八方に気を配って、という感じになった。
川を降りてきた熊が撃ち殺されたというニュースがあり、そんな解決法しかないのかとガッカリもした。山で仕事をしている知人が「川を下ってきた熊は放って置いたらそのまま川を上って戻るものだ。どうして殺すことになったのか・・」と首をかしげていたが、私も同じように感じた。私の回りの人たちも「熊が可哀想だ」「なんで殺しちゃうんだろう」という声ばかり。

熊に出会うのは怖いが、かといって人里に出てきたという理由で熊を殺してしまうというのはどうも納得できない。
ともかく熊には『悪意』というものは全くないのだ。餌を求めて、あるいは人間が出す食べ物のゴミの味を覚えて・・とか、これは熊が悪いわけではない。出てきた熊を簡単に「殺しちゃえ」と言う人間の方が私はよっぽど怖い。(「殺す」とは言わず「駆除する」というようだが同じ事だ)
熊対策についてはもっと知恵を出しあえるのではないかと思う。

軽井沢では、熊を殺さずに共存する試みに取り組んでいると聞く。
NPOピッキオの熊対策は、
<熊を呼び寄せる要因となるゴミ対策、そして熊の捕獲作戦。捕獲後は大きな音を聞かせ人間に近づくのは危険という学習をさせ発信器をつけて山には放す。問題行動を起こす熊はやむなく、泣く泣く殺処分にすることもある>

熊がいるということは、そこに豊かな自然があるということの証しでもある。熊の存在を認めないのは自然界を認めないことになってしまう。

熊が近くにいると知ってから、歩くときには「鈴」を必ずつけるようになった。そして、シーンと静まりかえった林の中を歩くときは、盛大に鈴を鳴らしながら「通りますよ〜」「今ここを通っていますよ〜」と大声を出すようにしている。

熊だって人間に会うのは怖いのだ。いきなり出会うというのは避けたい。遠くで見かけたら静かにその場を立ち去るのが一番、と思っている。
近所の人曰く「ここはもともとクマがいたんだから仕方ないです。なるべく会いませんように、と思いながら歩いていますよ」

それしか方法はないのだと思う。

IMGP2597.jpg栗の収穫10月25日
山栗は美味しいです。道に落ちているのを拾っただけでこんなにたくさん。

IMGP2560.jpgハナイグチ10月27日
家の周りにハナイグチがたくさん出ていて食べきれませんでした。


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秋の信州〜イワナの産卵〜 [環境・自然]

IMGP2599.jpg大イワナ

今年の8,9月、そして10月も、本当に雨が少なく、家の前の小さな川に住むイワナは大丈夫かと気がかりだった。いつも定位置にいる大イワナが6月以来サッパリ見えなくなった。(昨年は7月も8月も何匹も元気な姿を見せていたのに・・。)

こんな小さな川でもイワナが生息しているという話はあっという間に広まって、昨年から釣りに来る人がいる、と近所の人から聞いて驚いた。
大きな川と違い、U字溝で分断された短い川なので、釣ってしまえばすぐに絶滅してしまうだろう。その話を聞いてとても不安になった。

8月、実際に釣りに来たグループに出会った。
(「こんな所でイワナが釣れるらしいぜ」と言っていた・・。)
そのときは、ここは大きな川とつながっていないため、釣りをすればすぐに絶滅してしまうことを伝え、釣りを止めてもらった。
この小川はもとは大きな川の支流だったが道路建設などで分断され、そこに残されたイワナがたまたま生きのびているだけなのだ。

あの大イワナはもう釣られてしまったのだろうと悲嘆していたら、10月25日の昼間、その姿を見た。
3日前に雨が降って川の水かさが増えホッとして、少し川をきれいにしようとあちこちにたまった落ち葉を搔き出していたとき、すぐ目の前にいた。
はじめは木の枝か棒きれが落ちているのかと思った。
じっと見ていたら尾びれが動いた。サンマのような大きさのイワナだった。無事に生きていたのかと思い、とても嬉しかった。
昼間はイワナの姿はなかなか見られないが、なぜかおっとりとして身を隠そうとしないので写真が撮れた。(午後2時)
夕方6時頃(もう真っ暗)ライトで探したら、小さなイワナと寄り添っていた。産卵期なのだろう。サンマイワナはしつこく小さなイワナ(少し色が濃い)を追い回している。30分も観察していたらすっかり身体が冷えてしまいいったん引き上げたけれど、2時間後にまた見に行くと同じように追いかけていた。

産卵の場所は水が澄んでいて流れはゆるやか、底に小石が敷きつめられているようなところがいいらしい。泥水では酸素不足になってしまうのだろう。

翌朝もまだ産卵行動が続いているようでバシャッと水音を立てながら泳ぐのを見た。その日の夕方からまた姿は見えなくなった。
もう少し上流に移動したのだろうか。それにしても水が少なすぎる。上流も水はたいしたことがなく、おまけに川辺の草がすっかり刈られ、イワナが落ち着ける場所がなくなってしまっている。

無事に卵が孵ってくれるといい。

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ニュース離れ [雑感]

ものすごく久しぶりにブログを開いたら広告が載っていた。一定以上の期間、ブログを放ってあるとこうなるらしい。
調べたら7月以来更新していなかった。
暑さに弱い私は、長い夏をひたすらジッと耐えていた。(家の猫も動かないでじっと寝ていた。)
先月は、統計を取り始めた122年間の中でもっとも暑い9月だったそうで、これまでの平均値より0.24度高かったという。たった0,24かと思うけれど、これは世界の平均値で、気温が高かった上位10位の中に日本の北海道、東北地方の6カ所が入っていて、北海道は4.6℃の気温上昇だったそうだ。これはどう考えても異常事態。確か昨年の9月も中旬に日本のどこかの地域で38度という日が何日かあった。
9月というのは私の子供時代は初秋だったけれど、これからは夏の続きだと思っていないと苦しんでしまう。

暑さに耐えながら世の中のニュースにもじっと耐えている感じで、そのうちニュースを見たり読んだりがだんだん減ってしまった。

原発はどうなっているのか。はかばかしい進展もないまま、報道される回数は減ってきている。それどころか、「反『反原発』意見」を耳にすることが多くなったような・・。
10月3日の毎日新聞に「福島健康調査で秘密会」というスクープ記事が載っていた。
福島県が実施中の健康管理調査について専門家が議論する検討委員会を巡り、県が委員らを事前に集め、調査結果に対する見解をすり合わせていたという。
「がん発生と原発事故に因果関係はない」ことを共通認識とした上で、本会議でのやりとりを事前に打ち合わせ、出席者には準備会の存在を外部に漏らさぬよう口止め。

原発問題では、これまでもさんざんこういうことが批判されてきているのに依然としてこういうことが行われる。これには本当にあきれてしまったが、その報道は思ったより大きく扱われなかったようだ。毎日新聞だけだったのだろうか。
こういうひどい悪事が堂々と続くのでは、「世の中はこうなのだ」と絶望感も深まる。

反原発を批判する人たちは「先の見通しもないのに・・」だとか「代案もないくせに・・」とか平然と言っている。それは逆だろう、と言いたい。
先の見通しがないのは、何よりも、福島原発事故の行く末ではないか。原発事故をどう処理するかもわからないまま、他の原発を稼働するということをどう考えたらよいのか。
福島原発事故の被害を受けた人たちは運が悪かったのだと思え、ということか?

また、自民党の総裁選はかなり大々的に報道され、その結果を知って愕然とした人も多かったようだ。
私はいろんなことにガッカリしてばかりなので、どうでもいい、と思うことにした。
他の誰かが良かったわけでもないし、これが日本だと思うしかなく、「事実は残念なり、残念は事実なり」という心境だ。
そんなことより、うちの老猫、老犬、身の回りのあれこれの心配だけしていよう、と思った。
困るのは、テレビのニュースで見たくもない顔が頻繁に出てくるようになったこと。なるべくテレビを見ないようにするしかない。

ニュースをあまり見なくなると、あっという間に世の中のことに疎くなっている感じがする。ほんの一週間、テレビ新聞から遠ざかっているだけで、わけのわからない出来事や事件が起きていて、びっくりする。
久しぶりに今日ニュースを見たら都知事が辞職して国政に出る、という報道だった。
この人が選挙で落とされるのでも、辞任に追い込まれるのでもなく、ただ自分の意思で辞めて終わり、というのが残念だ。(国政に出るというのだから終わりでもないか。)
やはりニュースは不快だった。

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『いじめ』について考える [教育]

『いじめ』についての報道は聞くのがとてもつらい。
しばらく、学校での『いじめ』はニュースとして取り上げられていなかったが、今の世の中、学校現場は、どんどんひどくはなるものの決して良くはならないだろう、と思っていたけれど。

事件が起きた学校の校長および市教育委員会の会見を見ていると、あぁ、こういう学校に子供を通わせたくないな、いじめが起きても不思議はないな、と思う。

『いじめ』は身近にいる大人が気がつかないはずがないものだ。
子供同士の遊びの中に何かイヤな雰囲気を感じとったら、それがイジメである。子供の説明を聞くまでもなく、人の、身体や心を傷つけるようなことはすべてイジメである。

虐める側の言い訳として「ただの遊びだった」というのが多い。
やられる側も笑っている、という場合がある。それでも「それはイジメだ」と大人がはっきり教えてやるべきだ。
遊びのふりをして特定の誰かに嫌がらせをするのが『いじめ』だ。「遊び」は決して言い訳にならないことを、子どもには常々言い聞かせておく必要がある。「遊び」にもルールがあるということを(生きていく上でのルールである)よくわからせておかなければならない。


また、虐められる方にも悪い所がある、という言い方をよく聞く。
欠点があるとかないとかは、いじめ問題の本質とは関係はない。(大体、欠点がない人間がいるだろうか。)人の欠点で、その人に嫌がらせをしてはいけないのだ、ということを子供にはよくいいきかせておくべきだ。

子供というのはなかなか自分の行動を客観的にとらえることができないため、「それがイジメだ」と言われないと気がつかないこともある。「イジメだ」と指摘されて腹を立てる子供もいる。
人に嫌がらせをするのは平気でも、他の人から自分の行為を非難されることはイヤで、非難されるとカッとなる子供が多い。
それは、虐めをする子供の特徴である。

ともかく、いじめ、の雰囲気を感じたら、即、回りの大人は(教員、親)は、ストップをかけなければならない。面倒がっていてはだめだ。
いつもアンテナを高くしておいて、変な雰囲気がないか、気を配っている必要がある。

ところが、学校現場が事なかれ主義で、いざとなると責任のなすり合いになるような所だと、そういうことがうまくいかなくなる。
教員が子供ではなく、管理職や教育委員会の方を向いてしまうと、いろんなことが空回りし始める。
あげくの果て、いじめっ子と同じように「知らなかった」「気がつかなかった」と自分を正当化してしまうようになる。
あまりにも幼稚で、情けない学校の姿だ。
こういう「学校」は、みな登校拒否して自宅で学習しよう、と言いたくなる。そういう学校で得るものは大してないだろうから。

「子供はいろいろな試練を受けて成長するものだ」などと言うが、『いじめ』というものは、経験したり、あるいは、見たり聞いたりして、いいことは何一つないと思う。
そういうものに汚れず、まどわされず、まっすぐにあるがままに育つ方がずっといい。
『いじめ』というものを知らなければ、大人になっても、自分の考えを大事にし人の考え方も尊重する、ということが自然に行われるだろう。
他人の目をことさら気にしなくてもいられる人になるだろう。

さて10代の子供が、20代、30代、40代・・になったときどういう世界が待っているか?
やはり、いろんな『いじめ』や『嫌がらせ』が待っている。
仕事のために自分の時間が持てない。休憩時間も十分とらずに、夜遅くまで毎日働かせられて、文句を言うこともできない立場に置かれている。
文句を言うことなど思いつきもしないでいる。
経営のためにという理由で簡単に切り捨てられる。過重な仕事を押し付けられ追いつめられてしまう。

そういうことをなくすために労働基準法というのが定められているのだが、学校ではちゃんと教えているだろうか?
学校で一番大切なのは、「人権」についてしっかり教えるということだと思う。それが長い人生の指針になる。
教育で重きをおかれるものが社会を支えるものとなるはず。

逆に見れば、社会があまりに不平等だったり、個人の人権を軽んじるようであったりするならば、学校という場も、不平等、差別、人権無視・・というのは必ずあるのだと思う。

そういえば「原発に対して正しい知識を教えることが必要」などと最近言われているが、正しい知識って何?と、首をかしげてしまう。
「原発の正しい知識」は、誰にとって正しいことなのか。
電力会社にとって?原子力村にとって?政府にとって?財界にとってか??


物事の正しさは、「人権を尊重する」ことが最低限の基準になる。(本当は、人間ばかりでなく、他の生命体のことも考えなければならないのだ)
人権を教えられない学校は、もう、正しいことを教えられる場所ではないのだな、と感じる。


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巣箱で二度目の子育て〜シジュウカラ〜 [環境・自然]

IMG_5021.jpg大きな虫をくわえて

今ここのアカマツの巣箱に入っているのはシジュウカラ。
ついこの間まではコガラが子育てをしていた。

今年は3月始めに巣箱を用意したら、3月末、まだ雪があるというのにコガラやヒガラ、シジュウカラたちが早くも巣の下見をしていた。
4月になると巣作りが本格的になり時々巣箱に入る鳥の姿が見られた。そして、4月半ばから急に鳥の動きがひっそりし始めた。これは、抱卵中、というと。
卵を抱いているときは、巣箱の出入りは朝、昼、夕、の三回くらいは見ることができる。近くの小枝に止まったりせずに、サーッと巣穴に飛びこみそのままひっそりとしてしまう。何時間も経った頃、またサーッと出て行く。
注意して見ていないと鳥の出入りには気づかない。
卵を無事に孵すためには声も立てずひっそりとしている必要があるのだろう。

5月になってまた鳥の出入りがひんぱんになり、子育てが始まったことがわかる。今年は4つの巣箱に入ったことがわかった。
5月中旬から気をつけていたが、巣立ちの瞬間には立ち会えなかった。
おととしは二つの巣箱からの巣立ちを見物できたけれど、それはたまたま幸運だったのだろう。
(ずっと鳥の番をしているわけにはいかないのだから)
去年は猫やヘビに巣箱がおそわれたり、蜂に乗っ取られたりして、ガッカリしたが、猫避けのネットを木にまいたので、今年は順調だった。
巣立ちは天気の良い日の午前中のことが多いようだ。

巣立ってしまうと、また突然巣箱のあたりはひっそりとしてしまう。
今まで親鳥が忙しく餌を巣に運ぶ姿を見ていたのが急にひっそりしてしまうので、気落ちしてしまう。
(かといっていつまでも巣立ちしなければ困るのだけれど。)
「立つ鳥跡を濁さず」と言うが、巣箱の中はコケ類で作られたフワフワのベッドの他、何にもなく清潔である。
巣立ったヒナが近くをうろついたりもしていないのが妙に淋しい。
たまには、もといた古巣を見に来たりしても良さそうなのに・・。巣立った鳥はできるだけ遠くに飛び立ってしまうような感じだ。

(ツバメというのは巣立ったあとも巣の近くで飛ぶ練習をしたりして体力をつけているようでたまに下に落ちたりしてかわいいが、カラ類はまったくそういうことはない。)

P1000301.jpg
巣を出るときはヒナのふんを運ぶ

餌を運ぶ回数はヒナが孵ったばかりのときからどんどんひんぱんになっていく。
虫をくわえていったん巣穴の入り口に停まったのにまた小枝の先端に引き返し、しきりと首をかしげたりしている。「どうしたのかな」と思って見ていると、中からもう一羽の親鳥が出てきて、ああ、中にいたのか、とわかる。
二羽で入れ替わり立ち替わり餌を運んでいる。なんせあの小さな巣箱にはヒナが10羽以上いるわけで、全部のヒナに餌を運ぶのは考えても大変な事だ。

それにしてもあの狭い巣箱にヒナがぎゅう詰めになって、熱中症にならないものか、と気になる。餌運びがひっきりなしなので、巣立ちは近そうだ。
また、ある日突然いなくなってしまうのだろう。

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脱原発への道〜7月16日脱原発デモ〜 [社会]

7月14日のNHKスペシャル「激論!ニッポンのエネルギー」を一応見ようかと思ったけれど、番組の最初に「2030年に電力における原発の割合を世論調査した結果」というのが紹介されて、番組を見るのを止めた。

その世論調査の結果というのは・・

原子力発電について、18年後の2030年の時点で望ましいと考える割合は
(政府が示している3つの選択肢の中から選ぶというもの)

「0%」と答えた人が34%、
「15%程度」が40%、
「20%から25%程度」が12%

(ちなみに従来の<原発事故前までの>電力における原発の割合は26%)

なんでこういう解答結果なんだろうな〜、質問の仕方がおかしいんじゃないのかな〜と、それだけで不信感を持ち、ろくな番組じゃないと思ってしまう。
従来の電力において原発が占めていたものを基準にして、その15%だとか、25%だとかと勘違いしたんじゃないの??と思ってしまう。
今どき、原発について考えている人は圧倒的に脱原発でしょう。(根拠はないけど、私が話をした感触ではほとんど、というか、みんな反原発。私が話をしている人が偏っているわけではないと思うのだけど・・?)

7月16日は反原発のデモがあって、NHKの報道でも警視庁の発表で7万5千人、と言っていた。きっと10万は軽る〜く超えていたのだろう。
私は都合がつかず行けなかったが、私の知人5〜6名が誘い合って参加した。(今日知っているかぎりで5〜6名なので、実際にはもっと多くの知人、友人が参加しただろうな、と思っている。)

で、私は、少し付き合いのある人たちに「今日は私の友達、反原発デモに行った人がけっこういるよ。こんなに暑いのに大変だったろうね。」とかいう話を、電話あるいはメールで何人かに伝える。
(特に保守派かな、と内心思っている人に)

「へ〜、そうか。けっこうたくさんデモに行ったんだな。」と感心するようだ。
大勢が意思表明するというのはやはり大きな力になるのだ、と感じる。
NHKが、コンピューターで無作為に選んだ番号に電話をかけて得た、調査対象の65%に当たる1089人の回答結果が示すもの、とは比べようもない大きな大きな力を持っている。

残念ながら、日本の国営放送とも言えるNHKがつくった番組番組だから、関心がなくぼんやり見ていたら、意味のない3択アンケートの回答の方が(くり返し出てくる)、ニュースで短くさらっと流れて終わってしまうデモのことよりも、はるかに大きなインパクトを与える仕組みになっている。

それでもデモの力はすごい。自分の意思でわざわざ集まった人たちなのだから。
デモ参加者の人数宇を言えば、どんな人だって、大変なことなんだな、と目を向け話を聞こうとする。

今年一番の暑さの中、デモに参加された方、本当にご苦労様、感謝です。

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脱原発への道〜ドイツ・シェーナウ市〜 [社会]

3・11の大震災・津波・原発事故の後、ここで社会が変わらないはずがないと思ったが、逆に悪くなっているような気もしている。
悪い方向に向かっているのか、それとも、もともとあった悪い部分が浮き彫りになってより明らかになってきたのだろうか。
新聞(うちは毎日、たまに信濃毎日)を読むと、もっともだ、まともだ、と感じる記事が多い。見出しもたまにアレッというのもあるが、大体は良識ある主張がはっきり伝わるものが多い。いろんな人の意見を新聞で読み「そうだ、そうだ」と少し安心する。

ところが社会の動きはどうも私が感じる「良識ある意見」とは無関係に進んでいくような気がする。「良識ある意見」というのは『力』を持たないんだな〜と感じている。

やっぱり財力を持った人の考えでこの世は動いているのか、これが意見の重みにおける「格差」と言うものなのだろう・・・など、ぼ〜っと考えているうちに気がついたら6月が過ぎ7月になってしまった。

周りの人とはしょっちゅう原発のことなど話すのだが、
私が、「もう、他の問題はどうでもいいから原発廃止だけで、選挙はできないのかな」と言うと「基地問題にしろ、労働格差にしろ、思想、良心の自由の問題にしろ、根っこは同じだから、『原発廃止』だけが通るわけがない」と言う人がいて、それはそうだ、とまた思い直したりする。

「原発をやめるなら消費税上げてもいいですよ」という風に単純に物事が進むのならいいのだが・・。
実際、原発問題というのは、生存、人権、労働、差別、環境、平和・・など、人が生きていく上で重要な問題すべてに密接に関わっているため、原発を止めるという選択は根源的な変革になる。
論理的な正しさに目をつむり当面の利益だけを追い求めようとする側は、なんとかこれまで通りの原発路線を進めようと躍起である。

「現実的ではない」という言葉が頻繁に、そして巧妙に用いられる。

「現実的ではない」とはどういうことだろう。
つつましく生きるも湯水のように金や電力を消費して生きるも、孤独な生活も身内や友人にめぐまれた生活も、すべては「現実」であって、「現実でない」ものはない。
たぶん「現実的ではない」というのは、「金儲け主義からそれている」ということを意味するのだろう。

この間NHKで<キミたちの未来 僕たちの選択〜時任三郎 世界エネルギーの旅〜 >(再放送)で、ドイツの脱原発への流れの発端ともなったという、シェーナウ市に住むウースラ・スラーデクさんの活動を紹介していた。原発に頼らない電力会社を自分で立ち上げ、電力の40%を住民が発電している。こういう驚くような「現実」もある。

26年前のチェルノブイリ原発事故で、1700kmも離れたシェーナウの町も放射能に汚染された。牛乳が飲めなくなったり農作物を処分しなければならなくなり、スラーデクさんは何とか原発をやめさせようとする。1986年に「原発のない未来のための親の会」を発足し、専門家を町に招いてエネルギーについて猛勉強。まず節電を呼びかけ、イタリア旅行が当たるという節電競争企画を実施し、町で10%の節電に成功。
電力会社からは、「(節電は)営業妨害だ」と非難された。

あくまでも原発エネルギーを使おうとする電力会社に対抗し、自分たちで電力会社を作った。町の人の寄付、そして、ドイツ国内の脱原発に賛成する人たちからの寄付で。
ユニークなのは、「私たちは原発のきらわれ者です」ということを、運動の宣伝に使ったこと。

どこででも「金儲け主義」からはずれてしまうときらわれるのだな〜と実感する。人に嫌われることをすごく気にする日本の社会で、これは大きなヒントかもしれない。「きらわれてもけっこう」という気持ちでいないと何にも主張はできないからね。

スラーデクさんの「シェーナウ電力会社」は自然エネルギー専門の電力会社であり、料金は1 割ほど高い(料金の一部は自然エネルギーの開発資金となる)が、全国から申し込みがあり、今ではドイツ全国の13万軒に電気を送っている、という。

こういう「現実」を知ると、簡単に議論を切り上げるための「現実的でない」という言葉がいかに嘘っぱちを感じる。

原発事故の現場から1700km離れた地域にだって放射能汚染が及ぶことを考えたら、日本という狭い国土の中、20km、30kmが「安全」かどうか、など本当に虚しい話だ。
海では、津波で押し流された瓦礫が、太平洋8000km余りを渡って北米海岸まで漂流しているそうだ。
日本の環境省の推計で、流出したがれきは約500万トン、その7割の350万トンは海底に沈み、残りの3割の150万トンが漂流物になって太平洋に流れ出たという。

放射能汚染された海水の垂れ流しが一体どのくらいになるかを思うとゾッとするばかりだ。
こういうことをする権利は人間には絶対にないことを、当然と感じる人と、経済のためには何をやってもかまわない、と考えてしまう人の間には、一体何があるのだろう。

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「常識」について [雑感]

CMで、牛がのびのびと放牧されている映像が流れる。可愛いな、と思って見ていると、きれいな女優さんが、「(牛たち)気持ちよさそうですね。このお肉はとっても美味しいんですよ・・」というようなことを宣伝する。
このCMを見る度に胸の中がザワッと居心地が悪い。
可愛い牛と美味しい(牛の)肉、というのは人は心の中でどんな風に折り合いをつけているのだろう・・?と不思議になる。

水族館で大きなマグロがゆうゆうと泳いでいる。1,2歳の子供を抱いた男の人がマイクを向けられた。「いや〜すごいな。立派なものですね。」と言いながら、子供の顔をのぞき込んで「いつも美味しくいただいていま〜す。ね?」と言う。私は子供が混乱しないかと、ちょっとドキッとする。子供はきょとんとして、少し身体を固くしてお父さんの顔を見た、ように私には見えた。

こういう矛盾を平然と受け入れてしまう術を、人は小さな子供の頃から覚えていく。
動物好きな私は、幼い頃、肉が動物の身体だと知ってまったく肉を食べられなくなった時期があった。今は、店頭に並んでいるパック詰めの肉や魚はたまには食べる。
大人になればなるほど、矛盾を平然と受け入れる力が身についていくため、一般に、子供は純真、大人は汚い、という風なことを言うのだろう。

原発事故のためにつらく悲しい生活を送る人々の暮らしを報道しながら、一方で、原発再稼働の話題がのぼるのは、どう考えても理不尽だが、この社会ではこういうのがごく普通のことなのかもしれない。
原発事故のために生活が根こそぎ破綻した人が大勢いるのに、雇用のためには原発再稼働はやむを得ない、など言っている人の声が放送される。これを、人はどう考えたり受け止めたりするのだろう。

再稼働を見直すべきという大阪市長の提言を新聞で読んだら、もっともなことばかり書いてあった。ところがこの人は教育においては、競争至上主義、国歌斉唱にこだわり、斉唱の際の教員の「口元チェック」をよし、とするような人なのだ。これはどう考えてもグロテスクで、このような考えを持った人が、原発再稼働反対、などと言っても、眉唾としか私には思えない。与党政権に入ったとたん、いろいろな見地から、とかなんとか言って好きなように考えや立場を変えるのだろう。
「いざとなったら法律変えればいいんだよ」と常々公言しているらしいから、恥を知らないこの御仁は何をやりだすかわかったものではない。

物事を柔軟に考えることを優れた資質、と一般に言われる。でも日本ではこれを、倒錯したグロテスクな物の考え方を受け入れよ、それが大人というもの、というな使われ方をしているのではないか、という気がする。
「○○は間違っている」とストレートに言ってもなかなか多くの人に伝わらない。それどころかそっぽを向かれてしまう。
言っている内容があまりに正義そのものでシンプルであるためかもしれない。その考えが、普段持っている「常識」とあまりにかけ離れていると、聞いた人はつい顔をそむけたくなるのかもしれない。

<正しいことを正しいと主張するのは大人げない、物事はそう簡単ではなく、別の見方もあるのだ>という考え方、そして、<間違ったことを批判はするものの、かと言って正しいことを積極的に支持するわけでもない>という態度・・・
悲しいけれど、これは幼少の頃から様々な場で行われてきた「教育」の一つの成果であるかもしれない。

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公教育 [教育]

もう卒業式、入学式のシーズンは過ぎてしまったが、この間、朝日新聞の論壇時評というコラムに高橋源一郎氏の<入学式で考えた〜ぼくには「常識」がない?>という文を読んだ。久しぶりに、そうでしょう、そうでしょう、と心が和んだ。

<小学校の入学式に参加したら、保育園の卒園式に比べて、何だかちっとも感動しない。偉い人が壇上に上がるとき、誰もいないのに日の丸に向かってお辞儀をし、何のためにそんなことをするのかわからない、ぼくに「常識」がないのだろうか・・。国歌斉唱になりだんだん憂鬱になってきてしまった。誰がこんなやり方を決めたんだろう、小学校の入学式は子どもたちのためのものではなく、キョウイクイインカイとかそれを指導しているえらい人のための式なんだ、だからイヤになっちゃうのだ・・>というようなことが書かれていた。

本当にそうなのだ。えらい人がもったいぶって誰もいない壇上にうやうやしく礼をする。式の流れは全国一律であって学校ごとの特色や工夫はない。(特色は出してはいけないことになっている。)本来主役であるはずの子どもたちのことは二の次で、教育委員会や管理職は全国一律の式を行うことだけを至上命令としている。こういうのが教育界の「常識」だとすれば私もずいぶん常識からかけ離れていることになる。

大阪維新の会というのが中心になっておかしな教育条例を作ったとき、本当にこれを大阪の人々はこれを受け入れるのだろうか、と思ったが、なんせ条例などというものは密接に関わっていない人にとっては、ことの深刻さも異常さも伝わらないものだ。条例案を真剣に読んでみる人がどれだけいるだろうか。
結局、大阪では教育基本条例が通ってしまい、卒業式だか入学式で、校長が国歌斉唱の際に教員がちゃんと歌っているかどうか、教員の口元をチェックしていたという話がニュースになった。
こういう話は、他国の人にはおよそ理解できないだろう。

生徒の卒業や入学を祝う大事な式(一応、大事という言葉を使っておこう)の中で、子どもたちのことを心から祝うどころか、条例違反はいないかと「口元チェック」していた校長やら管理職メンバーは、教育者としてはまったく失格である。人格的に大問題だと思う。

この事件がどのように世間を騒がせたのか、それとも騒ぎにもならなかったのか、あまり新聞を読まなかった私はよくわからなかった。でも、私の「常識」からすればとんでもない事である。
世間一般では、「公務員なんだから法律は守らなきゃ」「国歌斉唱が嫌だという人は公立の教員にならなければいいんだよ」など、これもまた平然と言う人がいて、世の中変わったのか、それとも昔からずっとこうだったのか・・どうもわからなくなった。

「公教育」という言葉が誤解のもとかもしれない。短絡的に「公のための教育」という風にとらえる人がけっこう多い。確かに公共の精神を学ぶというのも教育の一部ではあるが、「公」を「国家」としてしまうとおかしなことになる。
私は、公教育とか義務教育の意味(目的)は、国民の教育を受ける権利を、国や地方自治体が責任を持って保証するということだと思っている。国民を国に隷属させるためのものではない。
公務員も、国家の番人という意味ではないと思うが、いつのまにか、公務員は政府の言うことを黙って聞け、教員は国家政府の意向に沿うような教育をし、政府の命令に黙って従え、というふうに意味が歪曲されて解釈されているようである。

1999年、日章旗を国旗、君が代を国歌とする、という国歌国旗法が作られたとき、強制はしないという首相答弁があり、まだ遠慮深さというものがあった。
それも、たった15年の間に見事に変わった。
「口元チェック」など、「一体どこの国の話か?」と、国際的に考えても恥ずかしくなるが(日本は一応、民主主義国ですよね)、たいして問題にもされなかったようだ。

しきりに憲法改正をやりたがっている政治家がいて、そういう輩が出す案というのには「国歌、国旗を尊重する」という項目がわざわざ入っている。なぜかはわからないが、国歌国旗というものが、特別に大切なものらしい。
国歌や国旗を特別に大事と思っていない私などは、そのうち「非国民」ということになるのだろうか。
「尊重しないなら日本人やめろ」とか「イヤなら日本から出て行けば?」など言われるのだろうか。
たかだか15年前に作った国家国旗法案をふりかざし、これがいやなら教員をヤメロなどと言う人がいるのだから、まったくふざけた話だ。

もっとも、国旗や国旗に対する不思議な「執着」というのは、普遍的「常識」に含まれないからこそ、わざわざ法律で縛ろうとやっきになる人間が出てくるのかもしれない。
ということはつまり、私の方が「常識」がある、ということになるか・・。

えらい人たちが考えるところの「公教育(日本の教育)」から身を守るには(あるいは子供たちの身を守ってやるには)どうすればよいだろうとあれこれ考えるが、いい案は浮かばない。
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春から初夏へ [雑感]

気がついたら雪の写真のまま4月が過ぎてしまった。

ライブラリ - 11311.jpg4月20日
今年は桜の写真をほとんど撮らなかった。
たった一枚だけ、これは信州の中野市の高梨城址の桜。
高梨城址というのは、私が子どもの頃は本当の廃墟で、残っている堀の回りはびっしりと木や雑草が生い茂って薄暗く、とても近くに寄ってみたい場所ではなかった。初夏になると山吹が堀に沿って咲き、きれいというのではなく不気味だった。
今は整備されすごく明るく何でもない場所になっている。鬱蒼としたうらぶれた廃墟の面影はみじんもない。

中野市にはもともと現在長野市にある善光寺があったところで、当初は中野県と呼ばれていた。急進的な人が多く一揆も多かったため、中野を避け、当時田舎だった長野市を県庁所在地に定め善光寺も移したらしい。
もとの善光寺(今も一部は残っている)は中野市の北に位置し、それを中心に五番の目のように道路が走っている。京都のように、人々は善光寺に向かう、つまり北に行くとき、「上がる」、南にいくときは「下がる」と言っていた。
中野市の方言は、語尾に「・・かっそ」というのをつける。「明日は雨かっそ」「そうかっそ」という具合。今思えばどことなく優雅な感じもする。
中野市の近くの小布施町では「・・かしや〜」となる。こちらはもっと雅な雰囲気。
この方言も今では聞かれなくなってしまった。
道路には真ん中に小さな川が流れ柳や桜が植えられていた。それはとても楽しい風景だったが、車が普及して、川はじゃまになり、埋め立てられ柳や桜もなくなった。
今思ってもすごく残念な感じがする。
何でもないアスファルトの道は、川の風景とはまったく比べようもない無意味さだ。

ライブラリ - 11405.jpg
さて、関東はあっという間に初夏の風情になってしまった。
みずみずしい緑は桜よりもきれいだ。

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春近し [雑感]

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毎年のことではあるけれど、そろそろ雪も終わりかと思っているとまたドンと降る。
春を待ちわびているから3月の雪はちょっとうらめしい。「あ〜ぁ、またか」とため息が出る。そう思いながらも新雪をかぶった山の樹々の美しさにはみとれてしまう。
こんなにきれいなんだから少々の不便に不満は言えない。

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27日にかなりの雪が降ったが翌日は快晴。樹に積もった雪は午後には溶けてしまった。

そして、なんと、早くもツバメの姿を見た。今年の第一号だ。昼間は日差しが暖かく感じられたが、それでも朝7時の気温はマイナス4度だった。
こんなに早く来てしまって大丈夫なのか、と思う。

カラ類は冬の間中1100mの山の中で元気に過ごし、ベランダの餌台はいつも賑わっていた。雪対策用にペットボトルにもヒマワリの種を入れ下の方に小さな穴を開けておいたら、その穴から器用にヒマワリをついばんで食べていた。
毎朝6時半頃からゴンゴンという音が聞こえるようになった。キツツキが板壁に穴を開けているのかと思ってのぞくと、ゴジュウカラが2階のベランダわきにつけた餌台をくちばしでつついている。ゴンゴン言う音はかなりうるさく、一体何をしているのかと不思議だった。<なわばり宣言だろうか? 仲間を呼んでいるのか?>といろいろ想像していた。
見ていると、ゴジュウカラだけでなくシジュウカラやヤマガラも同じ行動をする。
さらによ〜く見たら理由がわかった。
餌台の縁にとまり両足の間にヒマワリの種をはさみ、それをくちばしで割っているのだった。ゴンゴンいうのはその音だった。
毎朝このゴンゴンで目が覚めるのは贅沢なことというべきだろう。

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相変わらずコジュウカラは一度に4つも5つも口に入れ、木の高い枝に運んでいく。(どこかに蓄えているのだろうか)
日差しが暖かいときなどは、
寒いのを我慢して、手のひらに餌をのせて窓から出して辛抱強く待っていると、小鳥が止まってくれる。小鳥の足の感触は小さくて軽くてとても可愛い。

IMGP3014.jpgたまにはこんなお客さんも

厳冬期、野鳥にはずいぶん慰められた。人間は暑さにも寒さにも弱いのに、あんな小さな小鳥が寒さに適応しているのを見るのはとても不思議で楽しかった。
雪が降りしきるときはどこかでジッとしているのかと思いきや、高い木の梢を追いかけっこみたいに飛び回って遊んでいるように見えた。
雪景色や木だの鳥だのを見ていると気持ちもゆったりする。
こういうものだけは無くなってほしくない、と思う。人が造った建物は壊れてもまたすぐに造れるけれど自然はそうはいかない。
いったん壊れたら再び元に戻るには長い長い年月がかかる。
植林で、「この苗木は20年もすれば立派な木になります」と聞いても、せっかちな私は「遅いな〜」と感じてしまう。
未来のためになることをするのはもちろん必要なことだけど、現在がダメではとても寂しい。
現在も未来も、いい環境の中で生活することが一番。

ライブラリ - 11264.jpg4月2日
今年の初収穫。雪が溶けかかった地面に薄黄緑の顔をのぞかせていたフキノトウ。
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原発の行く末(3) [社会]

新聞記事を読むのがしんどい。
テレビのニュースは、他の事をやりながら、片手間にぼんやりと見ている。
新聞記事の何がしんどいかというと、まず意味がすっと理解できない記事が多い。何やら漢字がたくさん並んだ名称が出てきて、これは何だ、それがどうした、と思うような文が延々と続き、読み終わったあとは疲労困憊、<あ〜時間損した〜読まなきゃ良かった。>と感じることが多い。

何といっても大震災、津波、原発事故、と最大の危機に直面している社会の中に生きている。穏やかに楽な気持ちで日々を過ごせないのは当たり前で、それを嘆くのがお門違いかもしれない。
新聞記事がごちゃごちゃと理解不能になっているのもきっと放射能汚染のせいなのだ。

今日の夕刊(毎日)にも「水田 つもる枯れ草」というタイトルで福島県相馬市の水田跡地で、伸びきった雑草を刈り取って運ぶ農家の人の写真と、「汚泥と細かながれきを取り除くために、草刈り作業が続けられているが、放射性物質の影響で、集めた雑草の処理ができず、枯れ草の山ができるばかり・・」という短い記事が載っていた。

がれき処理も一年たとうとしているが数パーセントしか進んでいないという。
地方自治体ががれきの運び入れを拒否しているという。がれきの中にはただのがれきと、放射能汚染されたがれきがあるが、どれもこれもひっくるめて運び入れは拒否されてしまうという問題があるという。
人々の疑心暗鬼を批判する人もいるが、正確な情報、放射能汚染の処理の見通し、がこれまでほとんど伝えられていないのだから、人々が心配するのも当然のことだと思う。

たとえば水田の枯れ草はどうするのか、ひまわりはどうするのか、処理方法はあるのかないのか。
今、タンクに貯めている汚染水を最終的にどうするのか。タンクに入れないで今でも海に垂れ流しされている汚染水はどうなるのか。(地球の海にあまねく広がってうすまるのを期待しているように思えるが、これを大変なことと騒がれないのは何故だろう??)

毎日、活字にあふれた新聞を読んでも「正解」は決して書いてないので虚しい。
「正解」が書かれていないのは、人々が納得する処理の方法が見つからない、つまり処理できない、ということなのだろう。

それなのに原発再稼働の動きがある。
毎日新聞が行ったアンケートで、原発から半径30キロ圏内の道府県と市町村の首長の57%(142の自治体のうち78自治体)が「条件を満たせば再稼働に賛成」だという。
その条件というのがいろいろ出されているらしいが、
「政府が再稼働の条件、必要な安全基準を示すこと」というが一番多く、次に
「ストレステストが終了すること」
「議会の了承が得られること」
「国の原子力防災指針の改定が正式に決まること」
「福島第一原発事故の原因が究明されること」
「国際原子力機関のチェックが終了すること」
などなど・・
と続いている。

やっぱりこんなに悲惨な状況でも原発はやりたいんだなと、唖然とする。それとも本当は反対だけれど、今まで賛成してきた手前もあるのだろうか。

それにしても「政府が再稼働の条件、必要な安全基準を示すこと」が条件というのは理解できない。ここが一番あてにならない部分で、それがなぜ再稼働の条件になるのか。原発事故の悲劇の収束にこれから何十年かかるかわからない(本当の意味での収束はないでしょう)という現実に直面しながら、
政府が大丈夫と言ったらそれでいい、というのではあまりにもひどすぎる。物事を判断することで自ら責任を取らずにすむようにという魂胆を感じる。
政府が信用に値するかどうかを判断するのが国民の仕事なのだ。

枯れ草の山の処理方法も示すことのできない政府に何を期待できるだろう。(この場合の『政府』というのは、これまで、中心になって原発の推進に関わってきた、政治家、官僚、研究者、という意味ですよ。国の政策に影響を及ぼすような立場にある人たちひっくるめて『政府』ですよ。)
安全基準やら、ストレステストうんぬんの前に、まず、今、直面している汚染物質の処理をどうすべきかでしょう。

「福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)」の報告書というのも新聞で目にした。報告書の骨子が新聞に紹介されていたが、事故後の政府対応についてのどうでもいい(と私には思えた)報告を、仰々しい言葉で述べているだけのようだった。
一番肝心な、「原発は人間がコントロールできるのか」といった根本的な問題の検証をするつもりではないようだ。
ところで、民間の検証委員会というのはよくわからない。一般人が良心的な委員会を作って原発事故の検証をしてもマスコミに取り上げられるはずがない。
新聞の一面に取り上げられるくらいだから、この民間事故調というのはなにがしかの権威を持っているのだろう。どこから得た権威なのか??よくわからない。

原発事故から一年経ったのだ。放射能汚染物質の処理方法だけでもはっきりした形で示せないものか。処理方法について、専門家のあらゆる見解、「こういう方法がある」「これはできる」「これはできない」・・・を人々に示し、国民も考えることに参加できるようにすべきだ。
それは民主主義ではもっとも普通のやり方だと思うが、一向にそういう事がなされないのは、多分、国民に選択をさせたくない(考えさせたくない)からなのだろう。
考えるための材料を見せないようにしているのだろう。

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