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秋の味覚 [雑感]

IMGP4283.jpg10月24日頃

夏の暑さや冬の寒さの厳しさなんてたいした問題じゃないな〜、と思わせるようなひどい世相。
「正義」という言葉がとっくにどこかに飛んで行ってしまい、悪いのが当たり前、悪いことを受け入れるのが大人の選択、というのが今の風潮で、「正しいこと」を見つけることはストップしてしまったような感じ。

そんなんで、秋の素晴らしさも心ゆくまで味わわずに通り過ぎてしまいそう。
それでも身の回りに目を向ければやはり秋はいい。

今年は10月に台風が多く、山の天気も安定しない感じで、たまの晴天はとても美しく感じられた。
台風による災害が日本各地を襲ったけれど、北信濃のこの辺りは平年より雨が少なく、川の水も少なく、きのこ類は不作だったらしい。

山栗もキノコも10月の中旬が旬で、20日すぎるともう遅すぎる。
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山栗が拾われずにたくさん落ちていてもったいなかった。試しにゆでてみたら、まだ美味しいのもあったが、半分くらいはもうだめだった。
栗の本場の小布施の人に聞いたら、今年は豊作だったらしい。


この秋は葡萄をたくさん食べた。今まであまり食べなくて損だったな〜という気がする。
巨峰は値段は高く大味、というイメージがあり、これまであまり食べなかったが、今年は美味しいと思った。
子供の頃は何と言ってもデラウエァが一番で、紫色やうす緑色の葡萄は見た目はきれいだけれど、味はサッパリだった。
今年は紫色の葡萄は美味しかった。特にスチューベンという種がとても甘くて気に入ってよく食べた。しかも山の直売所で買うと安い。

IMGP4270.jpgスチューベン

食べ物は、美味しくて安いことが大事で、安いと美味しさもよけい増すものだと思う。
というより、安くなければ美味しいと言われても私は買わないから。
同じ物が、都会のスーパーで倍くらいの値段売られていると、食べたくても買う気にならない。

リンゴなんかは長野にいるとどこに行ってもおすそわけでもらうので、珍しくもなく、食べようとも思わなくなっている。
たまに食べると、やはりリンゴの美味しいのにおどろくのだけれど。
どんどんいろんな品種ができているけれど、新しいものを食べてみるというのが面倒だ。もとから好きだった紅玉は自分で買ったりする。
一昨年あたりに、おすそわけでもらったシナノゴールドというのがとても美味しく、それも買うようになった。

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シナノゴールド(左)とシナノドルチェ(右)

昔、黄色いインドリンゴというのがあったけれど、とてもリンゴの味とは思えなかった。青リンゴと呼ばれていた夏の盛りに出回るリンゴもあった。小さくてすっぱくて固くて、夏のプールの行き帰りに歩きながら食べるのにちょうど良かった。
シナノゴールドは少し緑がかった黄色で、甘さと酸っぱさと身の堅さが理想的。シナノドルチェも同様に美味しい。リンゴの味もずいぶんと洗練されたものだ。こういうのは日本だけじゃないか?と思う。

リンゴは美味しいのにあまり食べないのは、一人で一個は大きすぎるから。
4分の1くらいで十分なので、あとは取って置かないとならない。
その点、柿はちょうどいい大きさで、出かけるときに持ち歩ける。ちょっとのどが渇いたり甘い物がほしくなったとに、丸かじりできる。
丸かじりしていたら、関東のある地域で、すごく珍しがられ、4,5人に「丸ごと食べるの?」と聞かれ、私の方がびっくりしてしまった。
「どこから採ってきたの?」なんて聞く若い人もいて、もしかして八百屋さんに柿が並んでいるのに気付かない?

果物は食べる習慣がないと食べずじまいだ。特に若い人はあまり食べない。
理由を考えてみると、果物を食べるには時間がかかるからじゃないか、と思う。
いつ食べたらいいか、なかなかいい時間が見つからない。
食後はお腹がいっぱいなのでそうは食べられないし。
おやつの時間なんていう優雅な時間を持てるのは小さな子供とお年寄りだけだ。
栗だの、ぶどうだの、リンゴだの、洗わなきゃならないし、皮をむいたりするのに時間がかかるし、咬むのにさえ時間がかかる。
食べることにも不真面目になってきている昨今なのだな〜、と感じる。



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参院選が終わって [雑感]

(ちょっと古い話題ですが)昨年12月にアイフォンに変えたら、パソコンの前に座ることがめっきり減ってしまいました。

携帯電話を買うのも人より遅かったし、持っていても身内以外には番号を教えなかったし、そのうち友人に「緊急のとき以外に電話しないでね」と念押しして番号を教え・・とどんどん進んできて、いまでは、メールが簡単にやりとりできる便利さにどっぷり浸かっています・・。

携帯メールを始めた頃のある日、妹や姪と外に食事に出かけ、料理を待つ間にちょっと用事のメールを送っていたら、他のみんなも携帯を出していっせいにメール(?)をしている・・長いな〜、何をそんなに書くことがあるのかな〜?と思っていたら、メールではなくゲームだと聞いて絶句・・。
思わず「それは、すご〜い時間の無駄遣いだね〜!」と言うと、みなちょっとビックリした顔をしていた・・。

物を調べるのにインターネットというのは大変便利で、こういうものが無かった時代というのをもう忘れかかっています。
ネットショッピングなんて怪しいものはとんでもない、と思っていましたが・・けっこう買いました。

アイフォンは、そのパソコンと携帯電話が一緒になっているので、もうパソコンはいらなくなってしまいました。

天気や路線を調べるとき、知らない言葉にぶつかったとき、コンサート情報を調べたいとき、持ち歩いていつでも調べられるというのは本当に便利で、おまけに、読書もできてしまう、音楽も聴ける・・という具合に何でもできてしまうので、これさえあれば、という感じ。(なかったときの事はすでに忘れかかっているのが怖い)

携帯電話を購入した頃、ある人が「落としたり無くしたりしていま一番困るのは財布ではなく携帯電話だ」と言うのを聞いて、不審に感じました。携帯が一番大事というのは一体どういう人か?・・電話やメールのやり取りが異常に多い人なんだろうか?・・と、なんだか自分とは違う人間、という気がしていました。

それが今では私自身、見事変わってしまって・・・。
人間なんて全くあきっぽく変わりやすいものだと、身を以て感じています。

そういうわけでパソコンに向かわないからブログも更新回数がどんどん減っています。

(今日は参院選の感想をごく短く)

選挙が終わってせいせいしている。
わかりきった結果だったため、失望感は衆院選のときよりは少なかった。
何よりも野党内部のゴタゴタやもたつき、やたらに行われていた世論調査の報道が、ぐんと少なくなったのですっきりした。

自民党が十分に勝ったので、今後は自民党がどういう政治をしていくのかだけを、じっくり見ていけばいい。おかしな事を始めたら、野党をあてにせず、国民が直接に抗議の声をあげていけばいい。

と、私が言ったら、そんなにうまく行くかな、おかしな方向に進んで行くスピードが速かったら・・?と、心配する人がいたけれど、そうなったらそうなったで仕方ない。
長らく続いてきた自民党政権が築いた世の中のいろんな深刻なほころびを、どう繕っていくのか、そもそも繕うことができるのか、を見ていくしかない。

福島復興はちゃんと進められるのか。
原発はどうするのか。
沖縄基地問題はどうするのか。
平和をどう守っていくのか。
国民みんなが安心して生活できる社会を作っていけるのか。

この5つが私の最大の関心事です。
ねじれ解消した与党は、大きな責任を持つことになりますね。

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競争社会 [雑感]

内田樹の「街場の教育論」という本に、学力について、競争は集団の学力を高めることには決してならない、ということが書かれていて、まったくその通りだと思った。
その中に、塾に通って学校の授業内容を先に学んでしまった子供は、他の子供が学ぼうとするとき、大声で話したり動き回ったりして、他の子供がちゃんと学習できないようにじゃまをする。それは、学習内容がわかっているために授業にたいくつしているからではなく、無意識のうちに他の子供の学力をつけさせまいとしているのだ、とあった。

それはどうなのかな、無意識にしてもそんなことまであるだろうか、と思ったが、こういう不平等な競争社会の中に生きているのだから、無意識の力が働いて他人の足をひっぱる、ということは十分にありそうなことだ。

塾に通うということは、人よりも良い成績を取りたいためである。親がわが子に集団の上位にいてほしいと望むからだ。あるいは、上位ではなくてもせめて人並みに授業についていってほしい、という気持ちもあるだろう。
学校での成績にこだわるのは、将来、世の中の格差の少しでも上の部分にいるようにしたいためだ。

自分が上に登るためには人を蹴落とす。それは無意識に行われる。
この残念な現実は、自然界で生物が生きのびるために環境に適応していくことと同じことかもしれない。

人の場合は「自然界」ではなく、自分たちが作っている「社会」という界の中で適者生存が行われるわけだ。
私たちにとっては、「日本という社会」の中で。

技術の発達のおかげで、ずいぶん人の生活が豊かになり寿命もどんどんのびている。これほど便利な世の中になるなんて、私の子供時代でさえ想像もしていなかった。
では、「社会全体の幸福」という観点から考えたらどうなのだろう。

格差社会という言葉が使われるようになってかなりになるが(15年くらい?)、生活苦にあえぐ人の数はいっこうに減っていないし、格差はますます拡大し労働する環境も劣悪になっているようだ。
むしろ、この社会では、格差があるからこそ上位集団の豊かさが保たれている、と言えるのではないか。

資本主義、自由主義、の社会では、富を得ることが適者生存となる。
人はみな少しでも多くの富を得るように努力するし、つまりは、それは他人の富を奪うことに努力する、ということになってしまう。
「みんなで豊かに」というのは競争社会ではあり得ない目標となる。

この行き過ぎた「競争社会」を変えることは可能だろうか。
社会の仕組みを変えるには、政治しかないのだが、今行われている政治すら、何が行われているのかはっきりしないことだらけである。

なぜあの人は間違ったことを言ったわけではないのに世間の批判を浴びたのか?
どうしてこの人は「裏切り者」呼ばわりをされているのか?
もともとの悪者の方がよかったというのか?
なぜあっちの党よりこっちの党が支持されたのだろう?
なぜまた原発再稼働という方向が出てくるのか・・などなど。


新聞を読んでもテレビの報道ニュースを見ても、わからないことが多い。
明らかに正義に反すると思うようなことが平然と進められたり、それに賛成する人が多いようであったり。
不平等や差別は100万語を費やしても変わらず・・という状態が続くと、もう世間の動きというものにウンザリになってしまう。
ウンザリしてしばらく報道から遠ざかっていると、ますます世の中で何が起きているのか、分からなくなってくる。ニュースで使われるいろいろな短縮語も何のことか理解できない状態になってしまう。


理解できないことだらけになったら選挙にだって行く気は起きない。
何が正しいか正しくないかが、曖昧な社会では、人に語りかけても無駄な気がする。
こういう感じを持つということは、「経済至上主義であるこの日本社会」の、下の方にいるということだな、と思う。

政治や選挙などに対して、半数の人が感じる、「選挙なんかに行ってもしょうがない」「政治家なんてみんないいかげんなことばかり言っている」という、ウンザリな気持ち(私自身そうなのだが)は、今の政治がよく理解できないからなのだ。
なぜよく理解できないのか。
それは競争者として上位を勝ち得て社会の実権を握った者が、下から這い上がろうとする者を、蹴落とそうとしているからなのではないか。

社会のことをよ〜くわかっている上位集団は、社会の仕組みを、他の人間によくわからなくさせ、現状維持でよいと思わせるように、何らかの力を発揮しているのではないか。
「政治には期待できない」という失望感も、「やはり景気が一番大事」という無責任で情けない雰囲気も、気がつかないうちに、誰かに巧妙に押しつけられたものなのではないかという気がしている。


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天気と世の雰囲気 [雑感]

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寒さが終わりかけと思ったらすぐ花粉症のつらい季節に入り、桜の季節もいつの間にか終わり、芽吹きの美しい時期になった。
最近の天気は寒暖めまぐるしく変わり、風もどうしようもなく強い。
そう言えば、桜の季節は空はいつも曇っていて、「青空に映える桜」というのをほとんど見なかった。この2,3年そんな感じ?
まだ4月末だけれど時折の陽差しは厳しい暑さを予感させるので、はやくもウンザリしてしまう。気持ちのいい天気などめったにないものだなぁ、と思う。

人が生み出す「社会の雰囲気」というのもお天気と同じで、どうにもならない感じだ。
安倍政権が発足して4ヶ月。この政権はまだ具体的には何にもやっていないが、「景気をよくする」「医療、福祉に力をいれる」「女性に活躍の場を」・・と調子のいい言葉を並べ立てている。
唱え文句だけ聞けば政府は国民のために働いてくれるように思える。

その一方で憲法改正をして、個人を軽視し、政府(権力者)に都合のよい憲法をつくろうとしている。
でも、日常生活の中で、憲法を意識している人は少ないだろうな、と思う。
現憲法のおかげで日本は64年もまがりなりにも平和の中で、便利で快適な生活を営んできたのだけど、皮肉なことに、そのせいで、憲法の大切さを忘れて暮らしていられるようになっていたのかもしれない。
10年後20年後の社会がどうなるかを本気で心配して考えている人は少ない。ほとんどの人は今日明日のこと、1,2年先のこと、たとえ10年20年先のことでも、それは自分の生活の経済的な心配であったり、健康のことであったり・・である。それが人間というものだと思う。

平穏に見えるこの国の今の表の顔の陰に、危険に直面している人々、どうにもならない苦労を強いられている人々が大勢いることは忘れられて、というより話題に上らないようにされている気がする。

4ヶ月前、アベ政権が発足したとき、予想はしていたが、NHKの報道は、まるで恭しいことを発表している雰囲気で、民主党の発足時の扱いとはずいぶん違うと思った。内閣の面々を紹介する報道の声からしてまったくちがった。
やはり、NHKだの、財界だの、日本を牛耳っているような立場にいる者にとっては、自民党というのは特別なつながりのある党なのだな〜と感じた。
報道の仕方で、世の「雰囲気」も変わる。

福島の原発事故のことは、報道されても、もはや切羽詰まったニュースではなくなったような雰囲気だ。私が読むのは毎日新聞で、夕刊の特集ワイドは論理的で説得力のある文学者や学者の記事が載っていて、それを読むと安心するのだが、どうもそういう新聞記事とは無関係に世の中の雰囲気はあるようだ。
私は今ではNHKニュースを見るのも不快、という感じだが、安倍内閣の支持率は68%位あるらしく、一体どうしてそうなるのか不思議でならない。

人は、原発事故についても沖縄の米軍基地負担についても、「ひどいことではあるがそれはそれとして・・」という風に思考停止をしてしまうのだろうか。
一度、大きな思考停止をしてしまうと、もう思考停止は『癖』になってしまうのではないだろうか。原発が怖くないなら、もう怖いもの無し、ということだ。
自分が、今をそこそこ楽しく生きられるだけ幸せと考えればいい、ということになる。とても他の人のことまで心配することはできない(同情はするが)、ということになる。

景気には「雰囲気が大事」なのだ、そうだ。
そりゃ、雰囲気だの、明るさだの、楽天性など、そういうものは人の気持ちには大切なものだと思うが、政治を考えるに、そういうふうなものに頼るというのでよいのだろうか。
「雰囲気」というのは本当に場当たり的なもので、いつどうなるかわかったものではない。
いろいろな甘言を並べ立て、参院選までつないで、その後は約束した公約はできませんでした、ごめんなさいということになって終わるのだろうか。
円相場が変わって儲ける人は十分に儲けてしまったから、この後の不景気はどうということはないのだろう。多分、今の政権がつぶれても、また次に儲けさせてもらいますから、という仕組みになっているのだろう。

私が政治家に一番求めるのは、「弱者の側に立って物事を判断し政策を行う」ということだが、そんなことは求めていないという人のほうが大勢を占めているようで、何より経済(景気)が大事という「雰囲気」が社会に広がっていて・・・。

「雰囲気」というのは「天気」と同じくらい、どうにもならないものなのだな、と感じている。


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山の中で新年を迎える [雑感]

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今年は長野の山では12月上旬に大雪が降り、除雪車も急なことで間に合わなかったらしくて、けっこう大変な思いをした。何といっても道路を歩けないのは困る。積雪が多いと車どころか人の足で歩くのが困難になってしまう。

こういうときのためにスノーシューもあるが、それを持って外出はしない。
12月のある日、外出先で遅くなり夕闇が深くなる頃バス停で降りて家に向かうと、家の周りは思ったより雪かさが増していて、雪の中を這いずるように帰った。

足を取られて3,4回、ころんだ。一度は雪の中に顔が入ってしまい冷たかった。笑い事ではなく、かなり危険な状況にちょっと近づいたのだが、<こういうのを『こけつまろびつ』と言うんだな〜>などと考えているのが自分でも変だと思った。
私が出かけている間に、除雪されているだろう、という予測がはずれてしまって、雪の大変さを味わうことになった。

年末年始は予報では毎日が雪マークでため息が出たのだが、それほどでもなかった。
毎日チラチラと雪は降っているけれど曇りのことも多く、たまには太陽が顔をのぞかせてくれる。一日のうちに、雪、曇り、晴れを繰り返している。飽きない。
さすがに気温は低く、朝はマイナス10℃くらい。午後になっても気温が上がらないので、家の中で何もせずじっとしているとシンシンと寒さを感じる。あまり寒いので外の温度計を見たら、午後4時でマイナス8℃だった。

元旦、雪の晴れ間に、外の様子見に少し車を走らせた。
IMGP2807.jpg愛車のケイ、小さいけど四駆

家から車で15分ぐらい行くと戸隠山がとてもよく見える開けた場所がある。
雪はやんでいたけれど戸隠山は見えなかった。
せっかくだからお蕎麦を食べようと戸隠中社まで行った。駐車場のすぐ近くに神社があるので行ってみた。
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今回入ったおそば屋さん、蕎麦も美味しかったが熱々のアップルパイがとても美味しくて、おみやげに数個包んでもらった。店には、立派な竹細工の籠やこまごました土産物も売っていて、箸を一膳買った。
その包み紙に、津村信夫の詩が書いてあった。

何気なく見た「戸がくし姫」という詩のタイトルに惹かれ、一生懸命読んでいた。
これまでに津村信夫の詩を読んだことがあるかどうか、覚えていないのだけれど、心に染み入るような詩だった。

「戸がくし姫」

山は鋸の歯の形
冬になれば  人は往かず
峯の風に  屋根と木が鳴る
こうこうと鳴ると云ふ

「そんなにこうこうって鳴りますか」
私の問ひに
娘は白い歯を見せた
遠くの薄は夢のやう
「美しい時ばかりはございません」

   津村信夫 詩集より

今では、真冬でも戸隠詣でをする人が多くいて、雪に閉じ込められる怖さはずいぶんなくなったのだろうけれど、この詩に歌われている冬の山村の厳しさは、子供の頃の記憶と重なって、まざまざと蘇るようで、懐かしいような哀しいような・・。

細い竹でしっかりと編まれた籠を一つほしいといつも思うのだけれど、わが家には安物のカゴがたくさんあって、安物だけれど捨てるのももったいない感じで、ちゃんとした籠はまだ買わずじまいだ。
やっぱり今年はちゃんとした良い年になるように、良い籠を買おうか・・。

IMGP0144.jpg見えなかった戸隠山

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新政権がめざす社会とは [雑感]

ニュースは見ないようにしているのだけれど・・
民主党が壊滅してこれから社会はどう変わっていくのだろう。

新政権は、原発を再稼働させ、さらに新増設もありきだと言う。(安全への十分な配慮、他のエネルギー開発も考えながら、という弁解つきで・・。)

憲法9条を変えて、自衛隊を戦争もできる組織にしたいらしい。(日本はアメリカの何番目かの軍隊になるのだろうか。)

教育においては、愛国心の名の下に「道徳教育の充実」を唱え、国の命令に喜んで従う人間造りをめざすようだ。国造りにおいて、こと教育ほど大切なものはない。(かたくなに政府が流す情報のみを信じ、その命令をおしいだく国民を愚かだ、おかしいと、批判する人は、それはすべて教育による成果であることを考えているだろうか。)

こういうことを前々からやろうとしてきた人が総理大臣になれるのだから、日本はすごい国だと思う。あらゆる危険を無視して、ひたすら景気回復を願うというのがすごい。

衆院選の選挙速報で、埼玉テレビで出口調査による年齢別支持政党というのを報道していた。こういう調査の正確性はともかくとして、妙に印象に残った。

それによると、今回の選挙で自民党を支持したのは、
まず、20代の人達の支持が多い。
それから60代もかなり多く、70代、80代になるとどか〜んと増えている。
30代、40代、50代は民主と自民の支持率は半々というところ、だった。

20代はしょうがないか・・でも、70代、80代は人生経験も豊富だろうに何をやっているのだろう、と思う。
そりゃ、民主党は当初掲げた政策のほとんどは先細りになり、自民党との違いもなくなり、それどころか、自民党政策の先取りみたいなことをやってしまったのだから、厳しく批判されるのは仕方ない。
でも、だからと言って自民党の方が良い、ということにはならないだろう。
それなのにあっさりと自民党が勝つ選挙をしてしまった。

原発、改憲、教育、この三点だけで、自民党がどういう社会を目指しているか明白で、景気がどうの、経済がどうの、と言っている場合ではないはず、と思うのだが。

事故の始末もできないのに原発でまだ金儲けをしようとし、戦争だって金儲けになる。そういう方向に社会をもっていくために教育への介入は必須なのである。
そういう社会を望むのだろうか? お金に目が眩むにしてもひどすぎる。

それに時々思うのだが、今、日本は本当に景気が悪いのだろうか。
相変わらず、贅沢な生活をしている人は多い。高価で不要な物もどんどん普及している。もっと質素でもいいはずだ。ところが貧富の差は拡大し続けていて、最低限度の生活を遅れない人も多い。
こういう格差社会を推進してきたのが自民党政権ではなかったのか。

これからのことを考えると、ただただ不愉快になってしまう。
選挙後も、新聞には反原発を訴え続ける人達の意見が掲載され、読んでなぐさめられたり、ほっとしたりするのだけれど、こういう立派な意見が世間に及ぼす力の小ささを思うと、とてもがっかりしてしまう。
みな丁寧に新聞を読む暇などないのだろう。

真面目な記事より、表紙にどぎついことばがあふれているような雑誌を面白がって読む人の方が多いのだろう。
2012年も愚痴ばかりで終わりそうです・・。




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一票の軽さ? [雑感]

今朝、目をさましながら、何か胸がざわざわイヤな感じ。
<昨日、何かイヤなことがあったんだっけ・・? あ、自民党が大勝したんだった・・>と思い出した。

テレビをつけて珍しく長々と選挙解析のような番組を見た。
新聞もすみからすみまで読んだ。(これもめったにないこと)
小選挙区制度のせいで、得票率以上の議席獲得になるのはわかっていたけれど、それにしても自公で325議席とは。そこに維新の会の54議席・・。

自民党の全国の比例得票数は1662万票。
2005年は2588万票、2009年1881万票で、得に自民党支持が増えたというのではないようだが、政権交代前の自民党の政治がまた始まるかと思うと暗い気持ちになる。
これが日本社会の顔になると思うと不安になる。

投票率は前回、前々回より10%も下がったが、私も投票に行く気がしなかったから、こんなものかもしれない。
結局、「脱原発」も「消費税反対」も、世間の注目を集めなかった。
世間というのは、何よりも景気が一番大切で、なんとなく景気を良くしてくれそうな党を選ぶものなのだろう。
「脱原発」、あるいは「消費税反対」をただ叫ぶだけでは、選挙結果には結びつかないだろうとは思っていた。
「憲法改悪反対」なんて、票を減らすだけの効果しかなかったようだ。


一般の人の感覚では、「原発問題」は、自分たち庶民が決めることではなく(つまりは選挙の争点ではなく)、自分たちより世知に長けている政治家さんたちがうまく道筋をつけてくれればいいと思うような事柄で、まずは景気対策が大事なのだ。

「消費税」は、ヨーロッパなどの社会福祉国家を見れば、社会保障のためにある程度の増税は、いずれは、やむを得ないと思っている人がほとんどだろうと思う。
増税の前にもっとすべきことがある、という主張は、たいしたインパクトは与えない。無駄をなくすのは当然のことで、だからと言ってこれからずっと消費税を上げずに行ける、とは誰も思っていない。「富裕層」や大企業ばかりが得をしている、と言われても、そんなのは人間社会が始まって以来そういうものだ、とみな受け入れている。格差や不平等をなんとかしなければと思っている人は国民の一割ぐらいでなのではないか?

「憲法改正」については、改正したら大変なことになるという危機感をもつ人はものすごく少ない。
「アメリカに押し付けられた憲法だ」という人や「もうそろそろ変え時だろう」など言う人がいて、そういう人は、何のために変えようとしているのか、そもそも憲法を国民は熟知し、憲法を基本にして物事を考えているのか、については考えもしないようだ。


選挙があるたびに考えてしまう。
この「私の一票」は、何かしらの価値があるのかないのかと・・。
一票差で決まったなどという話は聞いたこともない。(学級委員の選挙じゃないのだ)

選挙に影響を及ぼすのは、ある程度の票のかたまり・・ということになる。だから、私の一票はあってもなくても同じなのである。
ところが、ある程度の票のかたまりを作るには一票一票なのであって、だからこそ、一票は大事ということになる。
それでも現実問題として、私が選挙に行くか行かないか(つまり私の一票)は、依然として何の価値も持っていないことにかわりはない。

選挙があるたびに<意味のない一票>ということが頭に浮かび、選挙に行こうか行くまいか考えてしまう私。
一票の軽さが一票の重さに変わるとき、何か特殊なエネルギー転換のようなものがあるように感じるが、それはどうにもうまく把握できない。まるでブラックボックスである。

選挙運動を見ていても、立ち会い演説で心を動かされる人はいるのだろうか、握手して一人一人に「ヨロシクオネガイシマス」と呼びかけることにどれほどの効果があるのだろう、と私は思う。
でも、有権者の何割かが、演説や握手で候補者を決めるタイプの人だとしたら、効果はあるのだろう。


ある人が一票は136万円だ、と言ったので」へ〜っ・・」と思った。どこかで読んだらしいが、選挙費用を有権者数で割ると、有権者一人当たりが払う額は136万円なのだそうだ。
「だから一票を大事に使った方がいいよ」とその人は言った。
費用に換算してみてもね・・。
やはり私には、自分の票が軽いのか、それがどこの段階で重くなるのか、それとも軽いままなのか・・謎のままである。


毎日新聞(12月17日夕)によると、

韓国メディア「極右的な公約を掲げた自民党が圧勝」「改憲論者本格化する可能性もある」と報道。
英BBC放送「日本は右傾化した」と分析。

これからどうなることやら。



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ニュース離れ [雑感]

ものすごく久しぶりにブログを開いたら広告が載っていた。一定以上の期間、ブログを放ってあるとこうなるらしい。
調べたら7月以来更新していなかった。
暑さに弱い私は、長い夏をひたすらジッと耐えていた。(家の猫も動かないでじっと寝ていた。)
先月は、統計を取り始めた122年間の中でもっとも暑い9月だったそうで、これまでの平均値より0.24度高かったという。たった0,24かと思うけれど、これは世界の平均値で、気温が高かった上位10位の中に日本の北海道、東北地方の6カ所が入っていて、北海道は4.6℃の気温上昇だったそうだ。これはどう考えても異常事態。確か昨年の9月も中旬に日本のどこかの地域で38度という日が何日かあった。
9月というのは私の子供時代は初秋だったけれど、これからは夏の続きだと思っていないと苦しんでしまう。

暑さに耐えながら世の中のニュースにもじっと耐えている感じで、そのうちニュースを見たり読んだりがだんだん減ってしまった。

原発はどうなっているのか。はかばかしい進展もないまま、報道される回数は減ってきている。それどころか、「反『反原発』意見」を耳にすることが多くなったような・・。
10月3日の毎日新聞に「福島健康調査で秘密会」というスクープ記事が載っていた。
福島県が実施中の健康管理調査について専門家が議論する検討委員会を巡り、県が委員らを事前に集め、調査結果に対する見解をすり合わせていたという。
「がん発生と原発事故に因果関係はない」ことを共通認識とした上で、本会議でのやりとりを事前に打ち合わせ、出席者には準備会の存在を外部に漏らさぬよう口止め。

原発問題では、これまでもさんざんこういうことが批判されてきているのに依然としてこういうことが行われる。これには本当にあきれてしまったが、その報道は思ったより大きく扱われなかったようだ。毎日新聞だけだったのだろうか。
こういうひどい悪事が堂々と続くのでは、「世の中はこうなのだ」と絶望感も深まる。

反原発を批判する人たちは「先の見通しもないのに・・」だとか「代案もないくせに・・」とか平然と言っている。それは逆だろう、と言いたい。
先の見通しがないのは、何よりも、福島原発事故の行く末ではないか。原発事故をどう処理するかもわからないまま、他の原発を稼働するということをどう考えたらよいのか。
福島原発事故の被害を受けた人たちは運が悪かったのだと思え、ということか?

また、自民党の総裁選はかなり大々的に報道され、その結果を知って愕然とした人も多かったようだ。
私はいろんなことにガッカリしてばかりなので、どうでもいい、と思うことにした。
他の誰かが良かったわけでもないし、これが日本だと思うしかなく、「事実は残念なり、残念は事実なり」という心境だ。
そんなことより、うちの老猫、老犬、身の回りのあれこれの心配だけしていよう、と思った。
困るのは、テレビのニュースで見たくもない顔が頻繁に出てくるようになったこと。なるべくテレビを見ないようにするしかない。

ニュースをあまり見なくなると、あっという間に世の中のことに疎くなっている感じがする。ほんの一週間、テレビ新聞から遠ざかっているだけで、わけのわからない出来事や事件が起きていて、びっくりする。
久しぶりに今日ニュースを見たら都知事が辞職して国政に出る、という報道だった。
この人が選挙で落とされるのでも、辞任に追い込まれるのでもなく、ただ自分の意思で辞めて終わり、というのが残念だ。(国政に出るというのだから終わりでもないか。)
やはりニュースは不快だった。

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「常識」について [雑感]

CMで、牛がのびのびと放牧されている映像が流れる。可愛いな、と思って見ていると、きれいな女優さんが、「(牛たち)気持ちよさそうですね。このお肉はとっても美味しいんですよ・・」というようなことを宣伝する。
このCMを見る度に胸の中がザワッと居心地が悪い。
可愛い牛と美味しい(牛の)肉、というのは人は心の中でどんな風に折り合いをつけているのだろう・・?と不思議になる。

水族館で大きなマグロがゆうゆうと泳いでいる。1,2歳の子供を抱いた男の人がマイクを向けられた。「いや〜すごいな。立派なものですね。」と言いながら、子供の顔をのぞき込んで「いつも美味しくいただいていま〜す。ね?」と言う。私は子供が混乱しないかと、ちょっとドキッとする。子供はきょとんとして、少し身体を固くしてお父さんの顔を見た、ように私には見えた。

こういう矛盾を平然と受け入れてしまう術を、人は小さな子供の頃から覚えていく。
動物好きな私は、幼い頃、肉が動物の身体だと知ってまったく肉を食べられなくなった時期があった。今は、店頭に並んでいるパック詰めの肉や魚はたまには食べる。
大人になればなるほど、矛盾を平然と受け入れる力が身についていくため、一般に、子供は純真、大人は汚い、という風なことを言うのだろう。

原発事故のためにつらく悲しい生活を送る人々の暮らしを報道しながら、一方で、原発再稼働の話題がのぼるのは、どう考えても理不尽だが、この社会ではこういうのがごく普通のことなのかもしれない。
原発事故のために生活が根こそぎ破綻した人が大勢いるのに、雇用のためには原発再稼働はやむを得ない、など言っている人の声が放送される。これを、人はどう考えたり受け止めたりするのだろう。

再稼働を見直すべきという大阪市長の提言を新聞で読んだら、もっともなことばかり書いてあった。ところがこの人は教育においては、競争至上主義、国歌斉唱にこだわり、斉唱の際の教員の「口元チェック」をよし、とするような人なのだ。これはどう考えてもグロテスクで、このような考えを持った人が、原発再稼働反対、などと言っても、眉唾としか私には思えない。与党政権に入ったとたん、いろいろな見地から、とかなんとか言って好きなように考えや立場を変えるのだろう。
「いざとなったら法律変えればいいんだよ」と常々公言しているらしいから、恥を知らないこの御仁は何をやりだすかわかったものではない。

物事を柔軟に考えることを優れた資質、と一般に言われる。でも日本ではこれを、倒錯したグロテスクな物の考え方を受け入れよ、それが大人というもの、というな使われ方をしているのではないか、という気がする。
「○○は間違っている」とストレートに言ってもなかなか多くの人に伝わらない。それどころかそっぽを向かれてしまう。
言っている内容があまりに正義そのものでシンプルであるためかもしれない。その考えが、普段持っている「常識」とあまりにかけ離れていると、聞いた人はつい顔をそむけたくなるのかもしれない。

<正しいことを正しいと主張するのは大人げない、物事はそう簡単ではなく、別の見方もあるのだ>という考え方、そして、<間違ったことを批判はするものの、かと言って正しいことを積極的に支持するわけでもない>という態度・・・
悲しいけれど、これは幼少の頃から様々な場で行われてきた「教育」の一つの成果であるかもしれない。

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春から初夏へ [雑感]

気がついたら雪の写真のまま4月が過ぎてしまった。

ライブラリ - 11311.jpg4月20日
今年は桜の写真をほとんど撮らなかった。
たった一枚だけ、これは信州の中野市の高梨城址の桜。
高梨城址というのは、私が子どもの頃は本当の廃墟で、残っている堀の回りはびっしりと木や雑草が生い茂って薄暗く、とても近くに寄ってみたい場所ではなかった。初夏になると山吹が堀に沿って咲き、きれいというのではなく不気味だった。
今は整備されすごく明るく何でもない場所になっている。鬱蒼としたうらぶれた廃墟の面影はみじんもない。

中野市にはもともと現在長野市にある善光寺があったところで、当初は中野県と呼ばれていた。急進的な人が多く一揆も多かったため、中野を避け、当時田舎だった長野市を県庁所在地に定め善光寺も移したらしい。
もとの善光寺(今も一部は残っている)は中野市の北に位置し、それを中心に五番の目のように道路が走っている。京都のように、人々は善光寺に向かう、つまり北に行くとき、「上がる」、南にいくときは「下がる」と言っていた。
中野市の方言は、語尾に「・・かっそ」というのをつける。「明日は雨かっそ」「そうかっそ」という具合。今思えばどことなく優雅な感じもする。
中野市の近くの小布施町では「・・かしや〜」となる。こちらはもっと雅な雰囲気。
この方言も今では聞かれなくなってしまった。
道路には真ん中に小さな川が流れ柳や桜が植えられていた。それはとても楽しい風景だったが、車が普及して、川はじゃまになり、埋め立てられ柳や桜もなくなった。
今思ってもすごく残念な感じがする。
何でもないアスファルトの道は、川の風景とはまったく比べようもない無意味さだ。

ライブラリ - 11405.jpg
さて、関東はあっという間に初夏の風情になってしまった。
みずみずしい緑は桜よりもきれいだ。

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