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春近し [雑感]

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毎年のことではあるけれど、そろそろ雪も終わりかと思っているとまたドンと降る。
春を待ちわびているから3月の雪はちょっとうらめしい。「あ〜ぁ、またか」とため息が出る。そう思いながらも新雪をかぶった山の樹々の美しさにはみとれてしまう。
こんなにきれいなんだから少々の不便に不満は言えない。

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27日にかなりの雪が降ったが翌日は快晴。樹に積もった雪は午後には溶けてしまった。

そして、なんと、早くもツバメの姿を見た。今年の第一号だ。昼間は日差しが暖かく感じられたが、それでも朝7時の気温はマイナス4度だった。
こんなに早く来てしまって大丈夫なのか、と思う。

カラ類は冬の間中1100mの山の中で元気に過ごし、ベランダの餌台はいつも賑わっていた。雪対策用にペットボトルにもヒマワリの種を入れ下の方に小さな穴を開けておいたら、その穴から器用にヒマワリをついばんで食べていた。
毎朝6時半頃からゴンゴンという音が聞こえるようになった。キツツキが板壁に穴を開けているのかと思ってのぞくと、ゴジュウカラが2階のベランダわきにつけた餌台をくちばしでつついている。ゴンゴン言う音はかなりうるさく、一体何をしているのかと不思議だった。<なわばり宣言だろうか? 仲間を呼んでいるのか?>といろいろ想像していた。
見ていると、ゴジュウカラだけでなくシジュウカラやヤマガラも同じ行動をする。
さらによ〜く見たら理由がわかった。
餌台の縁にとまり両足の間にヒマワリの種をはさみ、それをくちばしで割っているのだった。ゴンゴンいうのはその音だった。
毎朝このゴンゴンで目が覚めるのは贅沢なことというべきだろう。

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相変わらずコジュウカラは一度に4つも5つも口に入れ、木の高い枝に運んでいく。(どこかに蓄えているのだろうか)
日差しが暖かいときなどは、
寒いのを我慢して、手のひらに餌をのせて窓から出して辛抱強く待っていると、小鳥が止まってくれる。小鳥の足の感触は小さくて軽くてとても可愛い。

IMGP3014.jpgたまにはこんなお客さんも

厳冬期、野鳥にはずいぶん慰められた。人間は暑さにも寒さにも弱いのに、あんな小さな小鳥が寒さに適応しているのを見るのはとても不思議で楽しかった。
雪が降りしきるときはどこかでジッとしているのかと思いきや、高い木の梢を追いかけっこみたいに飛び回って遊んでいるように見えた。
雪景色や木だの鳥だのを見ていると気持ちもゆったりする。
こういうものだけは無くなってほしくない、と思う。人が造った建物は壊れてもまたすぐに造れるけれど自然はそうはいかない。
いったん壊れたら再び元に戻るには長い長い年月がかかる。
植林で、「この苗木は20年もすれば立派な木になります」と聞いても、せっかちな私は「遅いな〜」と感じてしまう。
未来のためになることをするのはもちろん必要なことだけど、現在がダメではとても寂しい。
現在も未来も、いい環境の中で生活することが一番。

ライブラリ - 11264.jpg4月2日
今年の初収穫。雪が溶けかかった地面に薄黄緑の顔をのぞかせていたフキノトウ。
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雪の中で暮らす [雑感]

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新潟の豪雪地帯に住んでいる知人が、雪国というのは燃料費(除雪機などの設備も含め)が莫大にかかる、とこぼしていましたが、確かに雪の中の暮らしは大変です。
同じように雪に覆われていても、単に寒さが厳しい地域と、豪雪地帯とでは、大変さも少し違ってくるようです。

私のいる辺りは、長野の標高1100m の山中ですが、それほど雪が多い方ではなく、本格的に雪が降り始めるのは12月末頃から。
今年も12月下旬になって毎日のように、数センチ〜10センチほどの積雪があり、少しずつ雪が深くなってきました。

雪は急にどさっと降る時があり、こういうときは、外出先で2時間ほど止めてあった車が雪にすっぽり包まれてしまい、道路もあっという間に新雪が深くなり立ち往生します。
この間は、家からほんの数メートル手前で車が雪に巻かれて動かなくなってしまいました。結局、家までシャベルを取りに行って雪かきするしかなく、10分ほど汗をかいて何とか家に入ることができました。(家の前でよかった〜)

その次の朝、車のバッテリーが上がってしまい、年末にひいて直った風邪をぶり返し、おまけに灯油も残り少ないことに気がつき・・という最悪の事態に。
幸い、食料は正月用にかなりあったので、ひたすら省エネにし、家に閉じこもりました。
雪の中での暮らしというのは常にこういう危険と隣り合わせ。

風邪をひいていても、多少の雪かきは毎日しないとなりません。どうせすぐまたすぐ積もってしまうのだけれど、放っておくと家の出入りも困難になる。空から降る雪と、屋根からすべり落ちる雪で、あっという間に入り口が埋もれてしまう。少しでも雪かきをしておくと多少はちがいます。

この雪かきというのはものすごく汗をかくのです。外に出るとき寒くないようについ厚着をしてしまうのがいけない。5分間で汗びっしょりになってしまう。逆に言えばこれは相当エネルギーを消耗している、ということで風邪にはまったく良くありませんでした。

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雪の中の生活は厳しいけれど、雪が降りしきる白と灰色のモノトーンの世界の美しさ、晴れたときの空の青さと白い雲、真っ白な銀世界、の美しさは、魂が吸い込まれるようで、「こんなにきれいなんだから・・ほかには何にもいらないな・・」という気持ちになります。
月が冴え冴えと輝き雪の上にくっきりと木立に陰を描いている夜も本当に美しく、寒さも忘れ、「こんなにきれいな物があるんだから幸せだと思わなければ・・・」とやはり感じるのです。
『美しさ』は『大変さ』とひきかえなんですねぇ。

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目標は30年先 [雑感]

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やはり自然界の美しさには圧倒されます。
人はなぜ「美」を感じるのか?何かを見て「美しい」と感じるこの感情は生物学的にはどういう理由があるのか。考えると不思議です。
「きれいだな〜」と感じるのは万人に共通しているようですが、「これからもずっとこの美しさが見れるといいな」とか、「いろんなところがこんな風だったらいいな」と思う気持ちは、人によって突然変わってしまうようで、これもまた非常に不思議です。

「水に流す」という言葉が示すように、不要なもの、ゴミなどを、昔はけっこう川に捨ててしまう人がいて(今でもいますが)、これは、自分の目前から見えなくなれば取りあえずいい、という考え方から来ているようです。
ゴミはゴミでも土に返る物もあれば、いつまでもどこかに残っていて、そのどこかは汚らしい様相になっていたり深刻な事態になっていたりするのですが。
ふんだんに豊かな自然に囲まれていた時代は、ゴミを川に流すということも、わりとおおらかに考えられていたかもしれないです。

地球上に人類が爆発的に増え、物質文明がここまで進んでしまった現代は、ゴミの処分がものすごく大事な課題です。それはなんとなく各自が考えていくような問題ではなく、きちんと教育によって伝えられなければならないことだと思います。
学校教育に限らず、いろいろな場で、先人が後世の人に伝えていかなければならない問題です。

教育が行政の管理支配下に置かれていれば、「環境を守ること」あるいは「環境を破壊すること」すらも正しくは教えられないでしょう。(上滑りに教えたのではだめだと思います、熱意を持って伝えなければ子供はスローガンを覚えるだけです。)
「平和」は教えられるのでしょうか。誰にも気兼ねなく教えられるのでしょうか?

教育と医療のどっちが大切かと言ったらそれは「教育」だろうと、言い切った人がいましたが、なるほど、そこまで言わないと教育の大切さは一般には伝わらないのではないか、という気がしました。
今の時代の子育て、本当に難しいと思います。
大人自身も日々成長(あるいは変化?)し続けているわけで、このところ、我が身を振り返ってもどうしても悲観的になってしまうことが多いのですから、子供の成長にははなはだ良くないという気がしています。

あまり遠い未来のことはわからないにしても、せめて30年先の社会がどうなるかを考えていくこと、30年先がひどいことになっていないように身近なところでも意識的に努力すること、が大人の果たすべき責任だと思います。


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2011年の終わりに [雑感]

最近 12 カ月間 - 0077.jpg

いろいろ書こうと思っていましたが、もう12月30日です。
あとは新年になってからにします。

テレビでは「この一年を振り返って」の番組が頻繁に流れていますが、わざわざ悲惨な報道を見たり聞いたりするまでもなく、誰もが、大震災、震災からの復興の問題、原発事故の行く末、普天間基地問題、景気の低迷、という状況の中で悩みながら生きています。
先日の沖縄県辺野古の環境影響評価書の強引な押しつけ。年も押し迫っているというのに最後の最後まで政府の強引な政策押しつけ。
これじゃ、一年のまとめも何もあったものじゃない。
悪いことは果てしなく続いて行きます。

大震災の悲劇や原発事故の深刻な被害を報道しながら、原発をこれからどうすべきかという問題に、メディアは真剣にせまっていない。現状の深刻さを訴える被災者の声は報道されるけれど、「もう原発はやめると約束してほしい(それが本当の反省というものでしょう)」という声は流れない。
そういう発言は報道するときにカットされているのかもしれないけれど、聞いている側は何か釈然としない気持ちを持たされる。

沖縄の基地負担を取り上げながら、辺野古は無理だし普天間基地をこのまま膠着してはおけない、とみんな言うけれど、じゃあどうするのか・・?「政府はちゃんとやれ」というだけで、どうすべきかは報道していない。

まったくのど素人の私は、どこにも行き場のない米軍には、日本が解決策を見つけるまで、取りあえず米本国に帰ってもらえばいいんじゃないの・・と思うのですが。

民主党は人々を期待させた政策を何もかも尻つぼみにしてしまい、本当にがっかりしました。かといって期待できる政党、政治家も見当たらないから、ぼんやりした不安感があるのみです。

元気を出そうと久しぶりに宮崎駿の「ハウルの城」を見て過ごした。(繰り返し観て楽しめる作品を創る宮崎駿はやはり本当にすごいです。)

「火」のカルシファーが言う。
「おいら、火薬の火はきらいだよ。奴らにはマナーがないからね」

そうそう。政治(およびメディア)に圧倒的に欠けているのか『マナー』なのだと思いました。
「核燃料や戦闘機はきらいだよ。あれらにはまったくマナーが欠けているからね」

でたらめな環境アセスメントに、不要なダム造り・・・こういうことも人と環境に対するマナーがないから強引に進めることができるのでしょう。

「文明時代」と言われながら、未だにマナーを大事にする社会にならないなんて・・一体どうしてなのだろう?

ということで今年の「ブナの森とふくろう」は終わりにします。
初詣というのはしない私ですが、もし出かける機会があったら、マナーが大切にされる社会になるよう祈ることにしましょう。
厳しい時代を生きていくみなさん(私たち)、身体を鍛えてがんばりましょう。

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「防衛局長の発言」をめぐる発言 [雑感]

米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に向けた環境影響評価(アセスメント)の提出時期を巡っての田中聡沖縄防衛局長の発言がニュースに流れた。
こんな風に思っているんだな、悪いこと(人の道にはずれた)をしているという自覚は十分あるのだ、悪いことをしている自覚があって悪いことをするのだから根っからの悪人なのだろう、悪人というのはやはりいるのだ・・こういう人が社会的に高い地位につけるのだから悪人はかなり大勢いるということになる、いつも仲間内で話しているようなことを記者の前で言ってしまったから、関係者はみんな大慌てで怒りまくっているだろう・・と、私の感想はこんなところだ。

さてその防衛局長発言に対する様々な反応は、与党野党の発言をふくめ報道の仕方も不可解ではっきりしない。
インタビューで、「言語道断」「当然、罷免されるべきことだ」と怒りを現した、短いコメントが紹介されるだけで、何が問題なのかを言わないから本当はどう思っているのか伝わらず不可解なのだ。
「言語道断」とは、一体何のことを指しているのか。
物の例え方の卑しさについてか?
それとも隠しておきたい沖縄県民に対する差別がわかってしまう発言をしたことなのか?

政治家や報道マンやその回りのいろんな人が、防衛局長の発言は沖縄県民の尊厳をふみにじるもので絶対に許されないことだ、と言っている。
私は、防衛局長のこんな発言などで、沖縄の尊厳がふみにじられるものではない、と思う。
こんな、一人の卑しい官僚の、卑しい発言なんかで、他人をふみにじることなどできないものだ。
女性蔑視だと言う人もいる。こんなくだらない発言で女性は蔑視されるものではない。(言っている本人は女性蔑視観が習慣化しているのかもしれないが)私に言わせれば、こういう発言をする男はただ卑しいだけでむしろ哀れなのである。こんな風な考えを持って生きていることが哀れである。

許されないのは(沖縄県民の尊厳を踏みにじるのは)、防衛局長が比喩として使った言葉で現されるような、まさにそういう人の道にはずれた政策を巧妙に強引に沖縄に押しつける事に他ならないと思う。

与党も野党もきちんと意見を述べることができる人はいない。世間の問題になりそうな発言をしたということを、「言語道断」「即、罷免だ」と口々に叫びたてる以外のことは言えない。同じ穴のムジナなのだから。

辺野古の環境アセスメントは理にかなっているものなのか、正義が貫かれているかどうか、をマスコミは問題にすべきなのである。

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「経済」について [雑感]

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夏、秋から冬へと一足飛び、もう雪の顔を見る時期になってしまいました。
9月半ばまで暑さに苦しんでいたのが嘘のようで、人の社会がどうであろうと自然の移り変わりは容赦なくすみやかなものだ、と感じます。

私の目に映る社会の動きは相変わらず膠着状態・・・原発問題がどうなるのかはっきりしないまま、「経済」「経済」の大合唱、と見えます。
社会で起きるさまざまな問題を計るのはこの「経済観念」なのだと痛感します。
世の中に、「経済」をもっとも重視するという人が多ければ、世の流れは「経済」に焦点を合わせて進むのでしょう。多くの人の考えで世の流れが決まり、言い換えれば、社会の様相を見ればその社会の構成者である人間がどういう考えを持っているのかがわかるということになります。

今「生活の発見」という本を読んでいますが、これが半世紀以上も前に書かれた本だとはとても思えない普遍性があり、共感できます。
(林 語堂 著 / 阪本 勝 訳 1966年初版発行 角川文庫、原作は1937年ニューヨークで出版された)
たとえば、TPP 問題のニュースを見ていて不思議に感じたのは、識者の意見が賛成反対と真っ二つにきれいに分かれていたこと。
様々な言い分が同列に並ぶ問題なので、この人たちにとってはこうが良く、あちらの人にとってはああが良く、むずかしいものだな〜・・結局よくはわからない・・というのが普通の人の感じ方ではないかと思います。きっぱりこっちだとなぜ言い切れるのか?
私は経済のことはサッパリわからないので、賛成か反対かと聞かれたら、直感に頼るしかないという情けない状態です。

「生活の発見」の 《第四章 五、 人間性の気まぐれと無軌道について》の中で著者が「経済学」について述べている箇所があります。

<・・・現代においては、人間が人間的反抗性を忘れてそれを喪失し、個人の威厳を見失いつつあるのは、当然のことだと思う。他のあらゆる形の人間的思考を圧倒する経済問題と経済思想ががんばっているために、もっと人間味のある知識や、個人的生活問題を対象とする、もっと人間味のある哲学に対し、われわれはまったく無知になり、無関心になってしまっているのである。けだし当然のことであろう。胃潰瘍の患者が、二六時中胃のことばかり考えているように、経済疾患にかかっている社会は、いつまでたっても、経済のことばかり考えている。ところがその結果、個人というものにぜんぜん無関心となり、自分の存在をほとんど忘れてしまうことになる。・・>

<・・・おそらく私には経済学はわかるまい。しかし、経済学もまた私をわかるまい。経済学が今日なお焦燥をつづけ、科学として一本立ちできないのはそのためである。すなわち人間というものから離れているからである。・・・>

そして、「経済学」というのは人間的動機からはなれるがゆえに科学ではなく、人間的動機の探求に突っ込んでいけばなおさら科学ではなくなる、統計学的平均値によって人間的動機の探求に進むとなれば、せいぜい疑似科学に堕ちるだけ、と著者は言います。

<重要な経済的手段が採用されようとするたびに、二人の経済専門かないし権威者が、まったく正反対の立場に対立するのはそのためである。>

「生活の発見」を読むうちに、経済のことがわからない自分を不安に感じる必要は全くないのだと思い、ちょっとほっとしています。

もちろん経済生活から人は逃れられません。が、「そこそこ食べていける生活」からはるか離れた地点で胸算用をしている人たちの考えが社会に大きな影響力を持っている、ということが普通の人の理解を超えてしまう原因となっているのでしょう。
人間が物事を自分で判断しやりくりできる範囲というのは、非常に小さな単位、エリアの中だと思います。国の単位まで大きくなれば、もう複雑になってしまい、まともな判断ができるとは思えません。(「風が吹けば桶屋がもうかる」くらいの理解力では・・。)
経済がそれ以上の範囲まで広がったら(実際、とっくの昔に広がっているのですが)、ふつうの人には到底理解しがたく、手にあまる問題です。
グローバリズムが個人の精神状態を非常に不安定にするのはそのせいではないかと思います。

一方、原発事故の問題は非常に狭くて身近な場所での問題です。自分が住んでいる地域の空気、土、水が汚染されているかもしれない、ということは、その緊急性、緊迫性をいくら言い立てても大げさなことではないはずです。
福島から2,300km離れた長野ですら、幼稚園などの落ち葉たきの焼き芋大会が中止になりました。
この一番大事な身近な問題をどうするのか。

林語堂は、ある問題か危機にのぞんで行動する国民性を「民族的気質」といいます。

国の「運命」というものは、ただ国民の行動にのみ認められ、国民の最終的進路を決定するのは、一種の選択問題であって、
<あるものを取り、あるものを捨て、あるものを嫌うという問題に帰する。あるものがもう少しほしいとか、いやもう十分だとかいう意思を明らかにする国民の決意である。・・・結局、すべての国民は、その好むもの、その感情にぴったりくるものを取って進み、我慢ならぬものは捨てていくからだ。こういう選択は、国民の思潮と、一連の道義的感情と、社会的好悪にもとづいておこなわれるのである。>

物事が決まるのは、それを望む人が多数かどうかということであり、多数者の意見が自分から見て正しくない、と思えることであっても決まっていきます。
さて、日本人の気質って・・どうなんだろう・・?と、考え込んでいます。



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実りの秋に [雑感]

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今年は長野の山中の栗の木が豊作で、散歩途中にいくらでも拾えた。
大きなハナイグチも家の回りの何気ない場所に生えていて、『収穫の秋』を感じる。
育てる苦労をせずに、自然に食物が手に入るというのはとても嬉しい。
栗は毎日ゆでて食べ(食べ始めるととまらない)、キノコはきのこ丼にしたりスープにしたり、それでも食べきれないので佃煮にした。

多分このキノコにもセシウムがついているんだろうな、と思いながら食べた。
その話をしたら、ある人が「そうですよね。みんな神経質になりすぎだと思いますよ。ガンになると言うならタバコの方がガンになる危険が多いでしょう。」と言った。
ぎょっとして、「放射能の影響は、現代の医学ではまだ解明されていないから怖いんじゃないですか。自然環境にどういう影響を及ぼすのかだってまだきちんとわかっていないから怖ろしいんですよ。」と言うと「そうですねぇ」と相づちをうつ。
「第一、20年、30年、40年先のことを誰かが責任もって補償してくれると信じられますか。」とたたみかけると「本当にそうですね。」

この人は原発に賛成なのか、反対なのか、どうもわからなくなってくる。

いつも不思議に思うのは、人の考えというのは、論理的に正しいものに傾くとは限らない、ということだ。
原発の事故の処理だって、除染で出たがれき(高放射性廃棄物)や汚染水はどうするのかさえ、まだ決まっていないのだ。
政府と東電は震災から半年以上経ってようやく(17日に)収束の工程表の改定版を発表し、放射性汚染水の地下水への流出を防ぐ遮水壁(地下ダム)工事を今月末に着手することを初めて盛り込んだという。
原発事故が起きてからずっと、地下には汚染水がにじみ出て海にもどんどん垂れ流し状態だったことはあまり大きく報道はされていない。
でも、汚染されたものをどうするか決めないことには除染も進められないことは、誰だって気付くことだ。

新聞に(うちは毎日新聞だけれど)原発事故の被害に関するニュースや意見が載らない日はない。特に毎日新聞の「記者の目」はいつも若い記者が正論をきちんと述べていて心強いし、原発事故の深刻さは毎日報道されている。
その一方で、「反原発は間違っている」などという意見広告がどこかの大手新聞に載っていたりする。

今回の原発事故で誰もがわかったこと、

原発に絶対安全はない。
一度事故を起こしたら被害の大きさは計り知れないほど深刻。
人間は原子力をコントロールできない。
何十年か後、原発による被害がどう扱われるのかわからない。
今直面している事故をどう収束させるのか、答えが見つからない。
地元に多額の交付金を出すことで原発設置を認めさせている

原発についてこれらのことがわかっていて、今もなお原発を再稼働する、増設を再開する、輸出する、などという考えが、どうすれば出てくるのだろう?
原発の利権を持つ財界や政治家が「自分が生きている間は原発を進めたい」というのはわかる。(次の事故はそうすぐには起きないだろうし、今まで原発にかけてきた金を無駄にしたくはないし、電力会社とはずっと協力し合ってきたし、これからも原発で儲けたい・・と、こんなところだろう。)
私があきれるのは、原発利権には何の関係もないような一般市民の中に「原発を止めるわけにはいかないだろう」という考え方をする人がいる、ということだ。

こういう人は何を基準に物事を考えているのだろうと不思議になる。

例えば、きっと、歩行者をあわてて端っこに寄せさせるような乗り方で自転車に乗っている人にちがいない。左右を全く見ないで自転車で飛び出してくる人は「原発推進派」にちがいない、など、私の思考も感情的にぶっとんでいく。
テレビ報道は見る気がせず、新聞記事を読むのもむなしい。(いくらまともな考えが毎日のように紹介されても何も変わらないとしたら、こんなにむなしいことはない。)

秋の味覚を楽しんでいても、何をしていても、「原発事故」の暗雲は頭の上におおいかぶさってくる。
きっとこのままずっとこういう状態でいくのだろうな〜と思う。
日本の美しく豊かな自然を心から喜び愛でる日はもうないのだなぁ、感じている。

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熱中症 [雑感]

今頃になって猛暑の話ですが・・。

9月になって2週間以上も続いた猛暑にまいってしまった。8月はそれでも暑さに負けないでがんばるぞ、という気概はあったが、もう9月なのにと思ったとたん、暑さと戦う気力は完全に萎んでしまい、ただ、暑さに打ちのめされていた。去年の猛暑は相当なものだったので、今年も9月はひどいだろうと覚悟はしていたが、覚悟していた通りというのも辛かった。
暑さに強いという人が心底うらやましい。
以前、黒柳徹子のトットちゃんシリーズを読んでいたら、アフリカのある場所(毎日50℃以上の気温の所)で、黒柳徹子がスタッフに「今日、ちょっと暑くありません?」と言った。スタッフが「黒柳さん何言ってるんですか。今日は56℃(だったかな?)もあるんですよ!」と答えた、という話を読んだ。やはり黒柳徹子という人は並みはずれている、とつくずく思った。

いろいろな本に暑さのことについて書いてあると、それがいつまでも印象に残ってしまう。著者も書名も忘れてしまうけれど、暑さの記述だけは覚えている。
暑い場所に住んでいる人は寒さには順応できるが、寒い所に住んでいる人は暑い場所には順応できないものだ、という文を読んだときも、すぐさま納得した。
暑い国で日盛りに外を歩くとき、木陰を選んで歩く。木陰と言っても、木そのものが少ないから一本の木の下で次の木を見つける。50m先に木があるが、その50mを進むのに勇気をふりしぼる、というような文を読んだときは、そんな所にいない自分を本当に良かった、と思ったものだ。

今年もこの暑さの中で、運動会の練習をしていた小学生が熱中症で倒れる、というニュースが多かった。こういうニュースを聞く度に、ひどい話だなあ(ひどい国だなあ)と思っている。
学校というのは「国」の土台で、その時代時代の「国の顔」が学校教育を見るとよくわかる。「こういう人間を作りたい」というのが教育基本法であり、具体的には学習指導要領であり、直接的には教育委員会や学校管理職の思惑となって下に降りてくる。

異常な暑さの中で何人もの子供が倒れるような事をなぜするのか。
<「暑い」だの、「寒い」だの子供は言うもんじゃない。少々のことでへこたれるようでは立派な大人になれない。これまでだってこうやって学校はやってきたのだ。行事は絶対に変えられない。子供に過保護はいけない。大事なのは根性だ。根性がないからちょっとのことで倒れる・・。>
これがこの国の教育方針なのだ。
こうやって無理矢理に「根性」を押し付けられ、物事には耐えねばならぬ、と教え込まれる。

熱中症のニュースを聞く度に「原発の国だからなあ」と思ってしまう私だった。
<少々の放射能汚染が何だ。そのおかげでみんな電気の心配せずに豊かに暮らすことができるのだ。原発技術のおかげで経済効果も生まれる。今までこうやってきたのだ。失敗したからと言って急に原発を止めるなんてとんでもない。これまでの研究が無駄になる。少々の危険が何だ。20年、30年後の健康がどうか、などと先の心配をしていてはきりがない。今が大事なのだ。
原発事故の被害を受けた人は不運だったが、人間、生きていれば不運なこともある。多くの人の利益を守るために身を捨ててがんばってもらわなければならない。それが日本人の美徳だ、根性だ。>

と、こんな風に熱中症と原発は私の中で結びついてしまう。
9月の半月におよぶ異常な暑さと放射能で汚れた日本の地、まさに地獄のように感じられた。その間に民主党の代表が変わったりしていたけれど、もう何にも興味がなかったですね。

毎日新聞のコラムで五木寛之だったか、「『国破れて山河あり』という言い回しがあるが、今は『山河破れて国あり』になってしまった。」ということを書いていて、なるほど、そうだなあ、と共感した。
私たちは豊かで美しい山や河を失ってしまったのだ。でも国は続いていて政治家は相も変わらずどうでもいい話を長々とやっている。保守的な「国」だけはしっかり残ったのだ・・。

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「国」という言葉 [雑感]

いつもおかしいなと感じるのは「国」という言葉の使われ方だ。
「国の責任」ということが頻繁に言われる。
「原発事故は国の責任」というのはすごくあいまいな表現だ。
このときの「国」って何を指すのだろう。「国」と言ったらワタシやアナタ、すべてが入ってしまう。すべての人の責任ということになってしまう。
これはちがうでしょう。正確には、原発を推進してきた、これまでの政府与党、官僚、学者、電力会社、の責任でしょう。

そうは言っても、みんな電気を使ってきたではないか、と言う人がいる。これは変だ。
私たちには、原発でできた電気とか火力発電による電気とか、選択はできないようになっているのだ。選択できるなら「原発電力」は私は使いませんよ。

「国に保障を求める」というときの「国」は、私たち全員がふくまれそうだ。「国」ってもともと抽象概念だし、抽象概念である「国」がお金を持っているわけではなく、政府が我々の税金を預かっているだけなのだ。使うのはそのお金だ。災害時に人々が協力し合ってお金を出し合うということは大事だが、「国が保障するお金」というのは、国民一人一人が汗水たらして働いて得た収入の一部を税金としておさめたお金である、ということがぼやけてしまっては困る。

もともと「国」とは、そこに住む人々が作り出したシステムにすぎない。みんなでお金を出し合って、みんなのためになるような事をする、そういうシステムが「国」なのだ。

ところが、国歌(君が代)だの国旗だの、という話になると、突然、歌わない者、不起立者は罰する、などと言い出す奴がいる。ただのシステムである「国」を振りかざしてそんなことを命令するお前は一体何様だ、と言いたくなる。
君が代を歌わない人というのは(私もですが)、国にきちんと税金もおさめ、真面目に働いて、他人に危害を加えず、しかもこそこそ隠れず、自分の考えで、歌わないのである。

法律や条例は所詮、人が作ったものだ。どういう人が作ったかというと、時の権力者、つまり政治家である。たいした得票率がなくても取りあえず選挙で選ばれた人たち。
いったん権力を握るとかなりやりたい放題できる。経済界の大物とつながりを持って、メディアも手中に入れることさえできる。
テレビ番組はどれもこれもくだらないが、みんなくだらないから、それを見る人は、そういうものか、と思ってしまう。知らないうちに感じ方や考え方まで、影響されてしまう。

原発討論会の参加の動員やアンケートでは「やらせ」があった。陰でこっそり「やらせ」に加わったのに何の責任も問われない人がたくさんいる。「やらせ」は詐欺である。しかも、人の命にも関わる重要な問題においての「やらせ」である。
これがどんなに罪深いことか。その後この問題はどうなったのかあまりクローズアップした報道もされていないようだが。
君が代を歌わないことと、どっちが悪いか。(と、これはばかばかしくて比較するのもはばかれるけれど。)
教育基本法を変えたときの「やらせミーティング」についてはその後一体どうなったのだろう。これもお咎めなし、で終わったのだろうか。何といってもそういうことがありながら、『教育基本法』変えてしまったのだから、権力というのは恐ろしい。

「国」という言葉は、悪いことを隠す人間には大変都合がいい。「国の責任」と言ってしまえば、特定の誰かではなく、みんなに責任があることになるからだ。マスコミが好んで「国の責任」という「言葉をつかうのもそういうわけなのだろう。
あいまいな言葉を使うと「何がダメだったのか」がわからなくなり、結局、「何を反省すべきか」もはっきりさせないままに終わってしまうことになる。

どんなにひどいことが行われても、いつの間にか人々のショックや関心が薄まり、元の木阿弥になってしまうのは、日本語のあいまいな面が、うまく利用されているからかもしれない。


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「八百長」 [雑感]

相撲の八百長が明るみに出たとき、これ、一体どう解決するのだろうな〜と思った。人の噂も75日というから、何らかの反省を示す処分や謹慎や休業があって、それに対して手ぬるいなどなんだの批判があって、次第にこの事件も忘れられていき、相撲も無事に存続していくのだろうな、と思う。
なんと言ったて江戸時代から続いている興業である。「八百長」も昔からあったことを疑う人はいないだろう。

今までも「八百長」があることをみんながそれとなく知っていても、それだけのことで相撲の人気が衰えたことはなかった。なんせ「八百長」というのはそこらじゅうどこにでもあって、「八百長」こそが「日本社会」の大きな特徴の一つなのだと思えるくらいだ。

「国会の質疑応答」「談合」「政官癒着」・・・考えてみれば至るところ、八百長だらけだ。教育現場で受験に使われる内申書すら「八百長」があると知ったときは天地がひっくり返るほど仰天した。(それをなくすのにどれほど心血を注いで、あげく心に傷を負ったことか・・今はどうなっているのやら?)

特に政治界では「八百長」は当たり前で、「八百長」がうまくできないないようでは一人前の政治家として認めてもらえないほどだ。なまじ正直に自分の思いだけを口にしてはならないのだ。それは大失敗、大失言であり、言葉が軽いということになってしまう。
鳩山元首相の「抑止力というのは方便だった」発言が話題になったが、「方便である」ことなど誰でもうすうすわかっていただろう。知っていながら「無責任な発言だ」と激怒してみせるのは「八百長」に他ならない、という気がする。

鳩山元首相が「沖縄米軍基地の県外移転、海外移転」を言ったときに、そんなことができるわけないとせせら笑っていたような人が、実際に無理だったということになったら「無責任だ」と言い出す。「八百長」そのものではないか。

日本の財政が破綻していて、増税はやむを得ないだろうな、と思っている政治家が(庶民だって何となくそう思っている)、「増税などとんでもない」と言うのも選挙に勝つための「方便」「八百長」である。

厳しい就職難で苦戦している若者をなんとか助けようとしてがんばっている大学や地方自治体の取り組みが最近よくテレビで報道される。面接の試験の注意、自己アピールの仕方などを講釈している。これもまったく「八百長」だ。(誰かが職にありつけば誰かがその職にありつけないのだから、それを応援するということがそもそも矛盾なのだが。)
面接試験で好印象を持たれるためのアドヴァイスなど、若者に、人生すべて「八百長」であると、教えているようなものだという気がする。

社会が「八百長」をうやむやにする体質になっているから、相撲界のことも何とも言いようがない。でも、「ちょっとは八百長があるんだろうな」と思いながら相撲を楽しんでいた人も、「八百長」の証拠が明るみに出た以上、「八百長やってもいいですよ」とは言えないだろう。(それにしても、メールで「何回借りがあるから・・何回返して・・」なんて軽〜くやり取りしているようでは、立派な力士にはなれませんよ。)

相撲の「八百長」問題で真っ先に頭に浮かんだのは、敬愛する音楽評論家の吉田秀和氏が、この世間の騒ぎをどう思うかということだった。
吉田秀和さんは神様みたいなすごい人だが、大変な相撲愛好家なのである。だから、氏がどういう感想を持つかということがとても気になった。
やっと19日の朝日新聞(『音楽展望』というコラム)に「相撲の八百長事件」について吉田先生の文章が載っていた。幼少の頃から相撲ファンだった97才の氏の文章は、やはり相撲への愛情があふれていたなぁ。
私も子供の頃は雪の上や畳の上で、よく相撲を取ったものだ。(相撲は男子も女子も対等に楽しめた。)テレビでも熱心に好きな力士の応援をした。大人になってからはまったく相撲は見なくなってしまったが、子供時代の懐かしい記憶の一つではある。
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