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2016年から2017年へ 〜 『差別』〜 [社会]

人間の悪徳の中で「差別」という感情・行動がもっとも酷いものではないかと思う。
泥棒や、場合によっては人殺しよりも酷いことだという気がする。
もっとも、差別と人殺しは一体になっていることが多いが。

「差別」の感情は多かれ少なかれどんな人間にもあるものだと思う。
そういう感情を自分の内に見いだしたとき、「あ、これはまずい」「こういう考えは捨てなければならない」と自分で自分を戒める。それを『正義』(社会の中で生きる人間にとって正しい在り方)と言うのではないか。
『差別感情』を抑えられなくなったらアウトなのだが、抑えるつもりもなくしたような人間が増えてしまったのは何故だろう?

人種や民族の違い、社会的地位があるかないか、金があるかないか・・こんなことで人は優越感を持ち、他人を見下し侮蔑するのだ。
未熟な子供の世界では、自分より弱そうと思っただけでいじめ行動が出る。

途方もない富や社会的名声を持ってしまった人間を私は本能的に信用できない。
富や名声は、社会があればこそ生まれるもので、自分で勝ち得たものであるように見えながら、本当は社会を構成している大勢の人たちのおかげなのである。
他人がいなくては金持ちになりようもなく、莫大なお金を持って無人島に行っても、助けてくれる人がいなければどうにもならない。
人は金のあるなしに関わりなく、他人に頼り頼られながら生きていくしかない。

だから、人の労働や仕事に、大事なもの、大事でないもの、はないのである。
なくてもいい仕事と言ったら、たとえばカジノだとか、歓楽街だとかに関わる仕事を思いつく。
これだって、立派な仕事だ、経済効果もある、などもっともらしく言う人はいるだろう。それは屁理屈というもので、実際は、職業に貴賎はあると私は思ってきた。

普段からそんな風に考えているので、2016年は(2016年も、と言うべきか)、ニュースを見てもただただ不快で耐えられなかった。
テレビを見て、「こんな人、本来なら大勢の人を前にして演説なんかをするべき人間じゃないのにな〜」などと思う事がしょっちゅうだった。

人の醜い部分を隠そうともしなくなったらもう終わり。
人の最も醜い『差別感情』をむきだしにしたら、もう人間失格。
『差別』をなくすことが『正義』というものなのだと思う。

とうてい国の代表にはなれないような利己的な資質の持ち主が選挙で選ばれてしまっている。経済利益だけしか考えないような人間の回りに、同じような人間が集まって力を持っていく。そして自分たちの経済利益に反するような人の集団を排除しようとする。
『正義』のないところに私が望む政治というものはない。

私が政治家に望むことは、
「公平であること」「平和な社会をつくること」
「国民の僕という意識を持つこと」ぐらいだが、


ところがたいていの政治家は私が望むこととは正反対の資質を持っているように見える。
政治は一部の人間の経済利益によって動かされ、
それ以外の政策は選挙で勝つための方便にすぎない。

そういうことは露骨に見えているが、
社会の雰囲気はかなりひどくなっていて、今のところそれが変わるという気配は感じられない。
社会を一応代表しているような立場の人が醜さをむき出しにして反省もしないから、それに続けとばかり、堂々と図々しく身勝手な利己主義・差別感をまき散らす人間が増える。
本当に迷惑なことだ。

正義感を持たない政治家が、自分のことを「国のリーダー」「ひとかどの人間」などと勘違いしてしまうのは、マスコミの責任が大きい。
本当なら、批判して軽蔑して無視すべきなのに、ちょっとだけ批判してそれでも期待しましょう的なニュアンスをまき散らしている。
マスコミの中にも自分で「社会をリードしている」などと思っている人間がいるだろうから、本当に仕方がない。
何もかもが仕方がないことだらけだ。

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選挙について〜2016年参院選と都知事選〜 [社会]

参院選について

新聞は選挙直前になって急に『改憲勢力3分の2』という見出しが目につくようになった。
マスコミは、改憲については選挙の争点にのせないようにしているアベ政権の後押しをしているのか、と思えた。
選挙の前日にNHKでは、選挙での各党首の戦いを紹介する番組を流していたが、
何気なくNHKを見て、なんでアベ首相の宣伝番組をやっているのか!!と仰天した。
あわてて新聞の番組欄を見たら、各党首の選挙戦を紹介するというものだったが、あれはどう見ても政府の公報番組だった。
アベ首相のあとに紹介された他の党首については、いかにも「こんな風に戦っています」というただの紹介にすぎなかったが、アベ首相の扱い方は他の党首とはまったく異なりドラマチックに出来上がっていて、アベ首相を取り囲んで笑顔で談笑する若者たちの顔などが印象的に映し出され、日本が今直面している厳しい現実をあまり知らない(感じていない)人が見たら、一番力がありそうで安心して政治をまかせられそう、と思ったに違いない。
制作者は誰?

こういうメデイアに取り囲まれて私たちは日々過ごしているわけだ。
時代が変わり、ただ「平和主義」を振りかざしているだけでは危ないですよ、という宣伝。
これからも、もっともっと経済は発展して安心できますよ、という宣伝。
健康食品や健康器具を売るのと同じ感覚で、国策も宣伝され、効き目があるのかどうかわからなくても取りあえず宣伝される方向へ人はなびいていく。

それに加えて、「改憲」という言葉にも「3分の2」という言葉にもまったく関心を持たない人たちもいる。
今の生活や自分の未来について何の不安もない、ということはある意味で幸せな状態とも言える。こういう人たちのことこそ「平和ぼけ」というのだろうと思う。
大人でも、「『基本的人権』って何か知らない」という人がいてびっくりすることもあるが、自分の関心がないことはいくらニュースで取り上げられようと耳を素通りしていく、という経験は誰にでもある。
私はスポーツに関してはほとんど素通りで、なでしこジャパンて何のチームだったっけ、バレーボール?ソフトボール?という記憶力だし、
芸能に関しては、物まね番組を見てなにかおもしろそうなことをやっているな、とは思っても、物まねしている人の名前も知らなければ、物まねされている当人の顔も名前も知らない、というおんちぶり。

だから「基本的人権」も「立憲主義」も知らない人がいても当たり前なのだと思うようになった。最低限「民主主義」という言葉ならわかりやすくて誰でも知っているのではないかと思うのだが。

選挙当日の夜8時からの開票速報からは目が離せなかった。
結果はテレビや新聞で予想されていた通りのもので意外性はなかったけれど、興味深い点もあった。
私の住む地域は3人区で自民党と民進党が当選を決め、残る一議席を公明党と共産党が最後まで接戦していた。5000票差で共産党が負けた。
いつも熱心に共産党の応援で電話がけをしている知人のKさんが、今回は「民進党か共産党のどちらかにぜひ票を入れて下さい」とお願いしたそうだ。「あなた一人ぐらい共産党をよろしく、と売り込んでいれば共産党も勝てたかもしれないのに」と言うと笑っていた。

私の実家の地域は一人区で激戦区の一つと言われ、3回もアベ首相が訪問したという。
結果は野党統一候補が勝った。
あっちにもどって住むのもいいな、と思った。

今回の参院選で思ったこと、
全体としては「改憲勢力3分の2」かもしれないが、地域によって違いがあり、国全体が一つの方向にひきずられている、というのではないな、ということ。
地域ごとに頑張れるところは力を合わせて頑張る道もある、と思った。
オール与党みたいな都道府県には近寄りたくないです、私は・・。



参院選の後の知事選について

もちろん野党共闘して勝ってほしいけれど、本当は都知事選は私にはそれほどの大きな意味はない。
降ってわいたような都知事選だし、焦点、争点がはっきりしない。
保育や介護の問題はどの候補者も唱えることで、オリンピックはもうやると決められていて、何かが大きく変わるということはなさそうだ。

都知事にやってほしいと私が思っていることを一つだけあげると、それは「教育に自治の力を取り戻す」ということだ。
石原知事によってずたずたにされ(と、私は感じているが)、すっかり萎縮してしまった教育現場(教育)に本来の力を戻してほしいと思う。今は学校現場はどうなっているのだろう。職員会議では発言してはならない、採決はしない、などというウソみたいな通達が都教育委員会から出たという話、あれはその後どうなったのだろう。

こういうことができないなら都知事は誰がなってもたいして変わりはないような気がしている。政治家が誠実に真面目に職務を行うというのは最低限のことであって、それ以上のことではないと思う。

立候補者を選ぶ段階で野党も与党もごたごたもたつきがあったが、立候補というのは本人だけがするものではなく必ず取り巻きがいてスタートするものだからごたごたも仕方がない。
私もある市長選のお手伝いをしたことがあるけれど、同じ候補者を支えているというつながりはあっても、10人いれば10の意見があり、それも様々な意見があって良いなどというきれい事ではすまないような大きな違いだったりする。支持者の意見を取り入れながら方向を決めていくのは本当に難しいだろうと思う。

参院選が終わってちょっと淋しくなったのはSEALDsが解散したこと。
ツイッターでフォローしていたのが、パタッとなくなってしまったので淋しい。
国会前にデモ集会に行ったときは、SEALDsの若者たちはとても光っていて、人混みにヘトヘトの私などはずいぶん元気づけられた。
マスコミが過剰に持ち上げるから、いろいろなところで厭がらせを受けたようで本当に気の毒だった。「出る杭は打たれる」という表現を使う人もいるが、SEALDsは、どこにも出過ぎてはおらず、砂の中に輝いている砂が混じっている、という風に私には感じられた。




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参院特別委〜安保法案強行採決に思う〜 [社会]

数の力で押し切られることは当然の予想だったけど、その予想は別としても、総括質疑をなくし、いきなり抜き打ちの採決(あれが採決と呼べるものなら)という、目を疑う酷いものだった。何が起こったのかわからないくらいの卑怯なやり方で。
話し合いをする気などハナからないのだけれど、話し合いをするふりすらしなかった。
せっかくの公聴会での討論もユーチューブで見るしかなかった。

参院特別委員会では、民主党の福山哲郎が必死で鴻池委員長不信任の動議理由を述べた。討論は力強く、これまでの国会での論議を総括した感じでわかりやすく、誠意が感じられものだった。
共産党の井上哲士議員は公聴会での公述人の言葉を引用し、この強行採決がいかに理不尽かを説明した。山本太郎議員も福島みずほ議員もがんばっていた。
福島みずほ議員がいつものおっとりした口調で要点を咬み下すように語っていると、そばでなんとなくテレビを見ていた7才の女の子が「この人いいこと言うよね。」(こどもにもわかるんだ、瑞穂さんの言葉は・・!)
強行採決の直前の鴻池委員長不信任動議の野党の討論が落ち着いて聞くことができただけでもましだったかもしれない。

この日、NHKでこれほど長時間参院特別委の様子や国会前の様子を流していたのは、もう決まりだから流してOKということだったのだろうか?
安保法案についてのニュースはこれまで本当に少なかった。
ユーチューブを日常的に見る人の数なんて、若い人はいざしらず、中年以上は圧倒的に少ない。情報はテレビと新聞だけという人が多いのだ。

鴻池委員長はあれを、「強行採決だとは思わない。10党のうち5党は賛成したのだから。質疑も100時間を超えて充分やり尽くした」と。
質疑応答が充分かどうかは、時間ではかられるののではない。
討論はどれだけ時間をかけたかだけではなく、どれだけ議論が深まっていったかという「質」が問題だ。話のかみ合わない(多数派にかみ合わせる気がない)議論を1000時間続けたとしても何にもならない、実は結ばないだろう。

強行採決して、自民党議員が「気持ちよかったなあ」と言ったとか、民主党の蓮ほう議員がツイートしていたけれど、与党議員はほとんどそう感じたことだろう。

法案を通そうとしている与党は、国民が集会やデモで反対表明をするのが(すればするほど)気にくわなくて仕方がなかっただろう。その国民の声を力に野党ががんばっているのも気にくわなくて仕方なかっただろう。
強行採決で「決まり」となれば、ザマアミロという気持ちになったとしても驚かない。
それでも「こんか決め方でいいのだろうか」と思った人も与党議員の中にはいたのだろうか?

自民党は「普通の国」という言葉を好んで使うけれど、「普通」に考えれば国会での与党の答弁は「恥知らず」の一語につきた。

「恥知らず」とは、答弁をころころ変えること、
質問に答えられなくても平然とピント外れの答えをしてすませること、
国民のために働いているという姿勢が失われていること、
「国民のため」という言葉を政策を通すためだけに利用すること、
選挙では国民にぺこぺこし、デモや集会に国民が参加して声をあげると軽蔑し無視すること、
選挙で勝つことしか考えていないこと・・

国会前の
「勝手に決めるな!」「国民なめんな!」のコール。
『ナメんな』という言葉は嫌な言葉だと今まで思っていたが、今回ほど『ナメるな』という言葉がしっくりくる状況はないと感じた。
本当に、本当に「国民なめるな!」だった。
国民のものである憲法を無視するとは、国民に対する最大の愚弄だ。

なぜ「集団的自衛権」などという危険な法案を通したがるのか、通したがる人間がいるのか、私にはどうしても理解できない。憲法を無視してもいいと考える人たちはどうやっても理解不能なのだ。

政府が閣議決定で集団的自衛権を決定したときから、意見の違いがどうこう言う以前に、討論によって考えをお互いに深めより良い方向を探っていこう、という意志は皆無に見えた。
よく考えてみれば、話し合いを大事にする(これが民主主義)意志を持った人が、憲法違反の戦争法案など出してくるはずがないのだ。
つまり、憲法をないがしろにして集団的自衛権を持ち出すような人は、他の人とは話し合いを持とうとしない人、ということになる。

NEWS23で、憲法学者の石川健治氏がこう語っている。

「賛成する人も含めてこれから国民は大きなものを失おうとしている。問題のはじめは<集団的自衛権の行使容認した閣議決定>だった」と指摘し、

「私の理解では法学的な意味ではクーデターという説明をしている。
国民なりおおもとの規範が置き去りの状態で法秩序が断絶された場合をクーデターと認識する。まさに大きな断絶が去年の7月1日に走っている。

いざという時には法的安全・安定は国家の安全の二の次という選択が今回なされた。
法的安全は何のためにあるかー自由のためにある。国民の自由のためにある。
だから自由をないがしろにしてよいとの態度の決定、基本的な価値の選択を今回政府はやってしまった。

憲法を守って国が滅んだらどうするんだという人は、端的に言えば『専制主義者』だし『非立憲の人』だと言わざるを得ない。
肝心のことを議論したかったけど議論する前提をおろそかにして、しかもその手順を踏まないで、あるいは手順を粉砕して先に進んだのがこの一年だったのでは。」


とてもわかりやすい。政府に対するすべての意見、反論は無駄になるわけだ。
専制主義者、非立憲の人と話がかみ合わないのは当然なのである。
少数派が抵抗すればするほど「黙って言うこときいていればいいんだ」と思うだけで、いよいよその抵抗に終止符が打たれ反対派が退けられれば、「ああ、気持ちよかったなあ。」という感想を抱くのだ。

社会にはそういう人が数パーセントは必ずいて、しかもそういう人たちに政治の実権を握られてしまっていることは、悲劇としかいいようがない。

ではどうすればいいのか。

今後について、石川健治氏はこう語る。

「権限が与えられたかrといって行使できるわけではなくて、行使できる理由がなければ行使できない。
場合によっては空文化・死文化することがままあるので、この部分は世論に依拠するところが非常に大きいから議論し続けなくてはいけない。
これで何かが始まったわけでも終わったわけでもないと考えていい。

しかし、世論無視の政府には、選挙で逆転し、法案を一から考え直すのが一番だ。
今回決まるかもしれない法案を、今後変えられる政治家(政党)はいるのだろうか。
民主党政権が「基地は少なくとも県外を」と訴えながら完全に潰されたことを考えると、政治界には私たち一般の人間にははかりしれない力(某国とか経済界とか何だとかの)がかかっているのかもしれない。
そういうものをはねのけることはできるだろうか。

それでも希望は常に0ではない。突然、社会が変わることはこれまでも歴史の中で起きたことだ。
それが、いつ、どんな風にかはわからないけれど、そういう変化は上に立つ政治家がもたらすものではなく、下から、つまり庶民の側(力)から、ということだけは確かだと思う。


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情けない新聞報道 [社会]

今日(9月7日)の毎日新聞のオピニオン。
8月30日の国会前大集会のニュースを翌日(8月31日朝刊)各紙がどう扱ったかという記事だった。

私は毎日、読売、東京新聞を比べて見たが、正直言ってとてもガッカリした。
私が購読している毎日新聞は一面を半分ほど使っての記事だったが、トップ記事ではなかった。
トップ記事は「訪日客向け『民泊』拡大」という見出しで、なぜそれが安保法案反対の最大規模の集会の記事よりも大事なニュースであるのか全く理解できなかった。
新聞社の中にもいろいろな部署があり、報道部がいかにがんばってこの大事態を報道しようとしても上のどこかで止められてしまうのだろうか。
今回ばかりは、もう新聞は止めようかと思った。「特集ワイド」でいくら識者の素晴らしい意見を載せてくれているとしても、安保法案に反対する必死な人々の思いを大切にしないような新聞はもう読みたくない。

朝日を購読している知人が、朝日も同じような感じだ、と言っていた。
どうせそうだろう。

読売新聞なんか、ニュースがどこにあるのかなかなか見つからず、やっと一番後ろの社会面にほんのちいさな記事。問題外。悪意を感じるのみ。

東京新聞だけが、大集会の報道に一面全部を使い、紙面いっぱいに国会前に押し寄せた人々の写真を載せていた。
国会前のあの写真は非常にインパクトがあるので、あれを大きく載せるかそれとも小さなサイズにして載せるかは、ものすごい違いになってしまう。

その8月30日、私は大集会が終わる3時頃国会前に行った。
抗議表明をするために出かけていくのだから、時間は自分の都合のつく範囲に出かけることにしている。どこの団体に参加するとかは関係なく、できる範囲で参加する。
一ヶ月ほど前に行ったとき、みんながんばっているな〜、特に若者が目立つな〜、という感想を持った。
でもまだまだ集まる人が少ないと感じたし、この10倍(10万人)くらい集まればいいな、と思った。

でも実際に10万人集会の規模になると、参加するのも容易ではない。
何回目かの集会に友人が出かけたときはかなりの人出で、「身の危険を感じるくらいで、早々に退散した。」と言っていた。
私も人混みは大の苦手で、人がぎっしり集まり身動きできない状態というのは、考えるだけで怖ろしく、それで8月30日も時間差で参加した。
大集会は散会していたが、私と同様に遅い時間にもどんどん人は集まって、スピーチ、シュプレヒコールが行われていた。
私が行ったとき、スピーチ、シュプレヒコールの中心になっていたのは、SEALDs(?)だったが、中年の人、年配の人、一人静かに離れたところに立っている人・・など、要するに年代を超えて安保法案に反対する人が集まっていたのだ。

若い人のスピーチは新鮮でなかなかいいものだなと思った。
シュプレヒコールはとてもリズミカルで、「アベは、やめろ」「アベは、やめろ」が二拍子で繰り返されていたかと思うとそれがすっと「ア、ベ、は、や、め、ろ」の三拍子に変わったり、「集団的自衛権はいらない」は8拍、「集団的自衛権は許さない」だと9拍というふうに自由自在に拍子を取る。「自民党ってなんか感じ悪いよね」などという長い言葉もうまく9拍のリズムに乗って唱えてしまう。
すごく感心した。
(私の時代だと「○○、はんた〜い!」と生真面目で単調なシュプレヒコールばかりで、私はこのシュプレヒコールがとても苦手で、ほとんど声を出さなかった。)

共産党の「赤旗」の号外がもう配られていて、この日の大集会がいかにすごいものだったかを写真で見て震撼した。

あの集会を警察が3万と発表し、主宰者側は12万と発表し、自民党の幹部の誰かが「なぜこんなに違うんでしょうね〜」とせせら笑うような発言をしていたが、写真見てわからないのか、と思った。
競馬中継などで「今日は8万人の観衆です」だの「10万人もの人が・・」など言っているのを聞くと、「これだけの人が国会を取り囲んでくれたらな〜」など、時々ばかげた空想をしてしまう癖があるけど、
この日のこの写真の国会前の人の数は本当にすごかった。
「数は問題じゃない」などという人がいるけれど、あの写真はまぎれもなく10万以上でしょう。
あの中にいなくて良かった、と思ったほど。
いったん中に入ったら身動きもできないだろうし、大勢のけが人が出ても不思議ではない。
だからイラク戦争の時、各国で200万人だの100万人だの80万人などの戦争反対デモのニュースを聞いて驚いていたけれど、もっと驚くべきだったのだ・・と思った。
日本は道路も狭く、広場も狭く、何十万などという人が集まったら危険すぎてそんな集会はできないだろう。

あとは国会前のみならず、地方でも大集会が同時に起これば効果があるかもしれない。
地方でも反対の声はしっかりあがっているが、規模が小さく少人数集会が多いのでトータルとなると、政治家に見くびられてしまうのだろうか。

8月のある週末に長野に行ったとき、どこかで集会をやっていないかな〜と思い、ネットで調べたら、その日に所用で行く予定の中野市のバラ公園での集会というのを見つけた。
ちょうど良かったと思って急いで用事を済ませ1時間だけ参加したら、小さな可愛い公園で思った通りの少人数の集会。
ステージで歌う人に合わて歌を歌ったり、絵本の読み聞かせがあったり・・とても静かでなごやかな雰囲気だった。
小さな子供を連れたお母さん達が多かったから、あんな感じが合っているのだな、と思った。
驚いたのは中野市長さんからのメッセージが届いていたこと。
そして、そこでもらった9月6日の「歴史にマナブ、事実をマナブ〜歌い語り継ぐ平和へのメッセージ〜」という集会のチラシにも、後援が、中野市と市教育委員会となっていて、今どきこういう市町村があるのだ、と本当に驚いた。
信濃町でも平和を語り継ぐ会が、信濃町、信濃町教育委員会の後援で行われ、町長さんの挨拶もあったという。長野ではけっこうそういう自治体があるのだろうか。
(長野県は2014年7月の集団的自衛権の閣議決定に反対表明を出した自治体数が全国の中でも群をぬいて多かった。)

自民党は国民がいかに反対しようとお構いなく安保法案を通すと堂々と言っている。
違憲の法案を「国民を守るために必要」などと偉そうに言う。
憲法に抵触するような法案を、与党の議員数を武器にして通してしまうのか。

世論と深く関わるメディアは、それに真っ向から反対しないのか。
違憲法案が決まってしまうという大事な局面で、政治から距離を少し置いて無難にやり過ごそうというのか。





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安保法案反対集会〜国会議事堂前 [社会]

昨日、国会議事堂前の安保反対集会に行ってきた。
どうせたいした人数は集まらないだろうと思ったけれど(教育基本法改悪のときの憂鬱な経験をどうしても思い出してしまう)、友人が、それならそれであきらめがつく、と言うので、それもそうだと思い議事堂まで行った。
この目で見て、あきらめるために集会に行った。

7時前に着いて辺りを見回して、相変わらず年のいった人(私も入る)ばかりだな、と思った。
国会周辺はいつもながら暗くてよく人の顔が見えない。そこに来ている人の数より機動隊の車のほうが目立っている。
7時頃になるとだんだん人が集まり始めて歩道もいっぱいになった。

スピーチとシュプレヒコールが始まると、若者が多いことがようやくわかってきた。自分の回りの声がみな若い、というのは不思議な感覚で、また感動的だった。

こんな法案が通って戦争でも始まったら悲惨な目にあうのは若い人たち、そしてその子供たちなのだ。

「戦争するな」「未来を守れ」「子供を守れ」「アベはやめろ」・・のシュプレヒコールは、実に自然に耳に響いてきた。
がんばってね、心の中でエールを送った。

集まった人は1万5千人くらいと聞いた。この10倍集まればな〜と思ったが、若い人たちが一生懸命に自分の気持ちを表現していることは、ひとすじの光明のように感じた。


安保法案反対のために国会に行ったのだけど、議事堂周辺では「原発再稼働反対」の集会ががんばっていて、今、この国は「原発再稼働」「安保法案」「沖縄の新基地問題」と、せっぱつまった問題を3つ同時に抱えていて、その上、表現の自由の弾圧や、新国立競技場の問題・・、一体、どうなるのだろう。これらの深刻な問題の根っこがすべて一つの処にあるいう状況がすさまじい。


*15日には国会前に集まった人数は6万と聞いた。
この日は私は都合がつかず行かなかったが、参加した友人から、近寄れないくらいすごい人、とメールが来た。いったん中に入ってしまうと抜け出せないと。。
国会前に行くときは、水、おにぎり、懐中電灯、タオルをしっかり持っていくようにしよう。

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安保法案討論に思う [社会]

国会中継や党首討論をたまに見ると本当に頭が痛くなる。
本音はどうなのかを常に探って聞いていなければならないから疲れる。
誠実さが一向に感じられない「国民の命、暮らし、幸福に暮らす権利を守る」という言葉が繰り返されるのを聞いて不快になる。


国会では政府の安保法案の不備を民主党が(維新は問題外として)細部にわたって追求していたが、肝心の「平和憲法を守ることが大切だ」という主張が抜けているように感じた。
「違憲だ」と言うだけでは、「憲法を変えてからやれ」という主張につながるだけで、憲法9条の意味の大切さを伝えてはいない。
そういう主張の方が世間の多くの人の支持を受けやすく、採決を遅らせるためには「手続き論」「法制不備論」で勝負するのが効果的だからだろうか。

それにしてもほとんどの政治家が憲法9条の重みを感じていないように見えるのはどうしたことだ。
確かに、「戦後70年の平和」な期間の中で、憲法違反と言われながらも、自衛隊がつくられ、その活動範囲も次第に広がり・・ということが強引に進められてきた。
「それでも平和を保てた、だからこれで良かったんだ」という考え方の延長線上に「集団的自衛権」もあるのだろう。
憲法9条の重みなどすっぽり抜け落ちた考えだ。


昨日のNHKスペシャルの党代表者の討論では、高村副総裁が吐き捨てるように、「日米安保のおかげで戦後70年の平和が保てたのじゃないか」と平然と述べるのを聞いて唖然とした。数秒間の沈黙があった。
「何を言うか!」「勝手な決めつけをするんじゃない!」と怒鳴り声が出るべき発言だったと思うが・・。

政府が(一部の表舞台に立っている政治家だけが)この世の中を動かしていると思っているとしたら大間違いだ。
もちろん、政府の判断が社会を良くしたり悪くしたりする力を持つのは当然だ。それが権力というものだから。
でも無名の大多数の国民にもすごく大きな力はある。
政府が間違っているというときには、国民の力はそれを止めようとする大きなブレーキになっているはずだ。
戦後の日本政府が自衛隊をつくり、事実上の軍隊として装備や活動範囲の拡大を進める動きを示したときに、「憲法9条を守れ」という国民の声がどれほど大きな抑制力となったことか、と思う。

国民自身はそんな力があることを自覚していなくても、また、政治には関心を持てずどうでもいいと思っている人が多くても、「憲法が国民のものである」という大前提があるために、政治家はむやみやたらなことはできないのだ。

高村の「日米同盟のおかげで平和が続いてきた」という言葉には、「国民が憲法9条を持っているためにこれまで平和が続いてきたのだ」という言葉を返したい。

選挙の度に投票率の低さが問題になるが、
逆の見方をすれば、それだけ政治家は信用されていないということだ。自分たちの代表としてふさわしいと思われる政治家がいないということだ。

こういう投票率の低さでは、財界やマスコミを金で囲い込んだ政治家によって、悪政がますます進むかもしれない。
無関心な国民が多ければ何でもできる。
だが、それを「国民に全権委任された」と思うのはとんでもない間違いだ。
単なる政治家の奢り。
自己満足に浸って下手な踊りを踊っている滑稽な姿に見える。
政治家もそれがわかっているから、悪法を通すときには急ぐ。
自分が国民に信頼されているという自信があれば、反対意見にも自ずから耳を傾けるだろうと思う。

「人間同士の殺し合い、戦争をしないですむ方法」を考えることこそ、政治家にやってもらいたいことで、憲法9条は時代にそぐわないなどというのは浅はかな考えとしか言いようがない。



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日本国憲法第9条について思う(その2) [社会]

産経新聞は、

<憎しみの連鎖を断たねばならぬ、というご高説は一見もっともらしい。>

と、憎しみの連鎖を断つ、という考えをまっこうから馬鹿にした記事を書いた。

<仇をとってやらねばならぬ、というのは人間として当たり前の話である。>

仇をとる、などと普通の庶民が考えることだろうか。
この記事を書いた人がそう思ったのだろうか。
現政府は仇を討たなければ、と思うだろうか。

そして、
<第一、日本にとっての「悪夢」の始まりだ」と脅すならず者集団を放っておけば、第二、第三の後藤さんが明日にでも出てこよう。
日本国憲法には、「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信頼して、わが国の「安全と生存を保持しようと決意した」とある。

「イスラム国」のみならず、平和を愛していない諸国民がいかに多いことか。
この一点だけでも現行憲法の世界観が、薄っぺらく、自主独立の精神から遠く離れていることがよくわかる。>

これを書いた人は「平和を愛している人」と言えるだろうか。
平和を愛する人間なら、簡単に仇をとるなどと、言わないし思いつかないだろう。

<護憲論者のみなさんは、テロリストに「憲法を読んでね」とでも言うのだろうか。命の危険にさらされた日本人を救えないような憲法なんて、もういらない。>

<護憲論者のみなさんは・・>と人を馬鹿にしたえらそうな物言いには本当に驚く。
これが新聞記事だなんて、信じられない。
私のように、素人が一人で勝手に、細々と、そのときどきの感想を書きとめているブログではないのだ。

「護憲論者」と一括りにして、憲法にすがって生きている人、というイメージを作り出そうとしているように見える。
<「憲法を読んでね」とでも言うのだろうか。>とは、一体どの口が言える言葉だろう。

憲法はあくまでも人が決めた法規にすぎない。
今、憲法を変えようとする動きを封じて「憲法」を守ろうとしている人たちは、ただ「憲法」だからという単純な理由ではないと思う。

もちろん「憲法」を守るというのは、民主主義国家においてはもっとも大事なことである。
国の基盤をつくっている「憲法」を、少数者が自分の都合のために、真面目な議論もせず、ごまかしながら変えようとしたら、それは大問題である。
民主国家が崩壊することになる。
(現に、そういう事態が始まりつつある。)


だが、それとは別に、日本国憲法の示している国の在りようが、非常に優れたものだ、ということを多くの人が感じているから、「憲法」を大事にしようとしているのだ。

薄っぺらな世界観?
どっちが?

やられたらやり返す、というのが薄っぺらな世界観ではないとでも?

理想を持つ人々を馬鹿にする発言には本当に腹が立つ。
こういう記事を書いた人、また、こんな風に思う人に尋ねたい。
「どうやって仇を取るのですか?」と。

自衛隊を派遣して人質を救い出す、などと言う者がいるが、現地に行って一体何をやるというのだろう。何ができるのだろう。
途方もない話、「荒唐無稽」とはこのことだ、と私は思う。

平和な国際社会をめざすことを願って、「日本国憲法」を実際に多く人に(海外の人にも)よく読んでもらい、議論したり考えてもらうことは、本当に小さなことではあるが、平和への具体的な一つの運動になりうると思う。

(でも、「憲法」は立派でも、昨今の政府の動きを思うと、「日本にはこういう憲法があります」とは、恥ずかしくてとても言えませんね。悲しいけど・・。)

それにしても一新聞が(新聞といえばきちんとした組織があり、読者もいて、それなりに社会的な影響力というものをもっているだろうし、それを認識もしているだろうに)、こんなくだらないことを下品な口調で平気で書くようになったのか・・と何とも暗澹たる気持ちになる。



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日本国憲法9条の意義を思う [社会]

ここのところ社会の動きが慌ただしく、ニュースを追うだけで精一杯になっている。
日本の「平和」が危うい感じが日に日に強まる。
70年間続いた「平和」も現政府の手で、雪崩のようにくずれてしまうのだろうか。
10年先はわからない、とはよく言うことだが、この勢いだと1,2年先のこともおぼつかない気がする。

ISによる人質事件では、現政権がどんなに危険な方向に日本の社会を引っ張って行ってしまうのかを、まざまざと見るような思いがした。


2月5日の、衆院の「イスラム国」に対する非難決議文には怒りを覚えた。
決議文には、
<非道、卑劣極まりないテロ行為を行ったことを強く非難>
<テロ行為は、いかなる理由や目的によっても正当化されない>

と、当たり前のことが述べられていて、

<我が国および我が国国民は、テロリズムを断固として非難するとともに、決してテロを許さない姿勢を今後も堅持することをここに表明する。>
とある。


この決議文を見てまず感じたのは、こういう決議というのはどういう意味をもつのだろう、ということだ。
テロは許されない行為だ、とは、誰もが思うことだろうし、人の命をもてあそび殺すという残忍な行為を許せないというのは当たり前の感情だ。

ではどのようにして「許さない姿勢」を示していくのか。
そこがはっきりしない。
そこが、肝心なところではないのか。
この決議文にはその肝心なところが抜けている。

決議文には「我が国及び我が国国民は」という言葉(しつこく二度も繰り返し)が入っているので、<私の考え>も勝手にこの中に含まれていることになる。
それはとても理不尽なことだと感じる。
きちんと道筋が示されていないのに、どうやって意見を持てるだろう?


「テロとの戦い」「テロには屈しない」という言葉には、<どのようにして>という一番肝心な所が抜け落ちている。

この決議は、自衛隊の活動範囲をどんどん拡大して、自国防衛という目的で(名目で)他国を攻撃できるようにする条件を整えるための意識づくりだ、という気がした。
そういう決議に「国民は」という言葉を使い、「私」も含まれてしまうのは心外だ。

テロを認める人は誰もいないので、こういう決議文はすんなり通っていく。
だが、「どのようにテロをなくしていくか」という点について具体的に何も示していない決議とは何だろう。
「テロが起きない社会をめざそう」という決議なら納得できる。
「断固許さない」では何の意味も持たない。なぜこんな決議文が採択されるのか不思議でならない。

人質事件において現政府は何をしたのかについては今でもはっきりわからず、「いろいろ交渉はした」という言葉のみ。


テロを起こすような集団は極悪人の集まりだから、交渉なんかしないで武力で撲滅するしかないのだ、ということなのだろう。
でもそれを明言しない。

そういうことを日本政府が明言した場合、「武力行使などしても根本的な解決にはならない」「武力を使えばさらに多くの人々の血を流すことになる」「戦争が何の罪もない人の命をどれほど奪うものか忘れたのか」という大合唱が起こる可能性もある。
うやむやにしておいた方が政府には都合が良いだろう。

「テロとの戦い」「テロには屈しない」という言葉が世間に通っているのは、武力行使という言葉を表に出さないからだろう。

武力に武力をもってしても何も解決にはならず、武力というものは、「人命尊重」からもっとも遠い所にあるものだということは、これまでの歴史や今日の国際情勢を見てもはっきりしていることだと思う。

決議文の
「このようなテロ行為は、いかなる理由や目的によっても正当化されないものである。」の
「テロ行為」を「武力行使」と言い換えたらいいのではないか。


武力に真の力などないことを常に忘れないようにしていないといけないのだと思う。
その道しるべとして日本国憲法9条がある。


憲法9条、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」を、国際社会に向けて発信できないものか。
(憲法を変えて他の国と同じようにしたい、と願うような政府には、思いつきもしないことだろうけれど)


「戦後の大改革」と称し、まがりなりにも70年間続いてきた庶民の「平和な生活」を少数の人たちが揺さぶることは許せないし、まったく理解しがたい。


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2014年衆院選について [社会]

衆院選の結果は大体予想通りだったので、さほどひどく落胆はしなかった。
投票率の低さも思った通りだった。
投票したい政党や政治家が見あたらなければ、人はわざわざ投票にはいかない。
今の政治にどのくらい危機感を持っているかどうかも人によってかなりの違いがある。
まして、今の政府の暴走を止めるために、良いとも思っていない政治家や政党に一票投じるべきだというような知恵を働かせて行動する人はそう多くはいないだろうと思う。(プロの政治家の集団である政党でさえ、結束すべき時に平気で野党同士、足の引っ張り合いをするくらいなのだから。)

今回の衆院選の投票率は戦後最低の52.6%。
そして投票した人の33%、つまり有権者の17%ほどが自民党を支持して、自公政権は安泰という結果になった。

それでも今回の投票結果には世の中の変化が多少現れていたと思う。

私のいる地域は自共対決になった。
私としては誰に投票するかあれこれ考えずにすむので楽だったが、掲示板に自民党と共産党のポスターだけが貼られているのはちょっと異様な眺めだった。
掲示板の前に立ち止まって2枚のポスターをしげしげと見ている人がいたりして、その光景もまた不思議な感じがあった。

結果は、自民党候補が128938票、共産党候補70074票。
敗れたとはいえ、共産党候補を支持した人が7万というのは、かなりのインパクトがあった。(7万人といえば小さな市の全人口を上回ってしまう数字だ。)

共産党の選挙応援活動をしていた人が、
「7万も支持してくれた人がいたのに驚いた。選挙運動の成果というのではなく、みんな自ら進んで票を入れてくれたという感じだ。逆に言えば、人々の生活は思った以上に深刻で悪くなっているということじゃないだろうか。」と言っていた。
私もそう思う。

消費税が上がり物価が上がっても賃金は上がらない苦しい生活、将来に対する不安・・アベノミクスはこういうものは素通りしてしまっている。
世の中の嘆きの声には耳を塞ぎ、独断的な演説を続ける首相の姿には異常な感じを受ける。

選挙の翌々日(16日)の毎日新聞の一面見出しは「安倍首相、改憲へ『努力』」、17日の夕刊「高浜原発 新基準適合ー川内に続き2例目」、そして今日17日は「原発建て替え検討」
選挙が終わってさっそくの暴走開始。

改憲も原発再稼働も、国民の多数は支持していない。


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「集団的自衛権」がわからない [社会]

「集団的自衛権」という言葉にはほとほとうんざりでイヤになってしまう。
「集団的」という言葉は日本語の使い方としてどこか妙で、しかも「自衛権」というものが私にはよくわからない。国際法上で認められている権利であっても、「自衛」がそもそも具体的に何をすることなのかがわからない。

よく「泥棒が入ったらどうするのだ、入らないようにするだろう」「家族が殺されそうになったらどうするのか、ただ見ているのか」などと、飛躍した言い方をする人がいる。
泥棒が入らないように鍵をかけたり、留守にする時ちょっと近所に伝えておくなどの気を配ることと、国家の自衛、とはあまりにもかけはなれている。

国家などという大きな単位を守るとはどういうことになるのだろう。

世界には、法の裁きによる「死刑」を廃止している国がたくさんある。
人が人を殺してはならない、ということを前提にしているからこそ「死刑廃止」ということを国として法で定めることもできるのだ。

もちろん「正当防衛」というのはどんな場合にも起こりうることだ。でもそれは個人の場合であって、「国」という集合体は、別の次元であり、どう考えてもあてはまらない。
ベトナムと中国の関係悪化で、ベトナムでは反中デモが起き、その暴動で中国人2名の死者、多数の負傷者が出るいう事件があった。こういう場合、「家族が殺されるのを見ているのか」と言うような人は、中国人は同じ人数のベトナム人を殺し負傷させよ、というのだろうか?

軍隊を使って国を守るやり方=「自衛権」というものがわからない。
「外国から攻撃を受けたときにどうするのか」という人がいるが、「人間はむやみやたらに他人を攻撃したり、殺したりしない」ということが、今の人間社会の大前提になっているのではないだろうか。(もちろん、それからはずれてしまう悲しい出来事も多いことは確かだが。)

その大前提を捨てて「こんなことが起きると困るでしょ」「こいうときにこういう備えが必要ですよ」と盛んに主張しているのが安倍政権だ。

「自衛」とは、自分の国が外国人に殺されたら、同じ人数だけ、あるいはもっと多くの人を殺してやる、という態度をみせることですか?(軍隊というのはそういうことをするところでしょう。)
その場合、攻撃した国の人なら誰を殺すのでもかまわないのですか?

「やられっぱなしでいいのか!」といきまく人も多くいるが、暴力を暴力で抑えるという単純なやり方で、大きな集団である国と国の関係が修正できる、と本当に考えているのだろうか。

「平和」について特に大げさに叫ばなくても、私たちは、回りの人間が「平和に暮らしたい」という気持ちを持っていることを、当たり前のように信じて生きている。
人はケンカするより仲良くする方を好む、と思っているからこそ一緒の場所で生活できる。そうでなかったらとても人間の中で生きてはいけない。どこか人間のいない島にでも行って住まないことには・・。

私にはやはり「自衛」の意味がわからない。
そして、そこに「集団的」というさらにあいまいな言葉を付け加えるから、昔風に言うと「グレン隊」みたいなものをつくろうとしているように思える。

「そういうことをしたい(武力で他国を脅したい)」と想像したり空想したりするのは勝手だが、他人をまきこまないでね、と言いたい。

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