2016年から2017年へ 〜 『差別』〜 [社会]
人間の悪徳の中で「差別」という感情・行動がもっとも酷いものではないかと思う。
泥棒や、場合によっては人殺しよりも酷いことだという気がする。
もっとも、差別と人殺しは一体になっていることが多いが。
「差別」の感情は多かれ少なかれどんな人間にもあるものだと思う。
そういう感情を自分の内に見いだしたとき、「あ、これはまずい」「こういう考えは捨てなければならない」と自分で自分を戒める。それを『正義』(社会の中で生きる人間にとって正しい在り方)と言うのではないか。
『差別感情』を抑えられなくなったらアウトなのだが、抑えるつもりもなくしたような人間が増えてしまったのは何故だろう?
人種や民族の違い、社会的地位があるかないか、金があるかないか・・こんなことで人は優越感を持ち、他人を見下し侮蔑するのだ。
未熟な子供の世界では、自分より弱そうと思っただけでいじめ行動が出る。
途方もない富や社会的名声を持ってしまった人間を私は本能的に信用できない。
富や名声は、社会があればこそ生まれるもので、自分で勝ち得たものであるように見えながら、本当は社会を構成している大勢の人たちのおかげなのである。
他人がいなくては金持ちになりようもなく、莫大なお金を持って無人島に行っても、助けてくれる人がいなければどうにもならない。
人は金のあるなしに関わりなく、他人に頼り頼られながら生きていくしかない。
だから、人の労働や仕事に、大事なもの、大事でないもの、はないのである。
なくてもいい仕事と言ったら、たとえばカジノだとか、歓楽街だとかに関わる仕事を思いつく。
これだって、立派な仕事だ、経済効果もある、などもっともらしく言う人はいるだろう。それは屁理屈というもので、実際は、職業に貴賎はあると私は思ってきた。
普段からそんな風に考えているので、2016年は(2016年も、と言うべきか)、ニュースを見てもただただ不快で耐えられなかった。
テレビを見て、「こんな人、本来なら大勢の人を前にして演説なんかをするべき人間じゃないのにな〜」などと思う事がしょっちゅうだった。
人の醜い部分を隠そうともしなくなったらもう終わり。
人の最も醜い『差別感情』をむきだしにしたら、もう人間失格。
『差別』をなくすことが『正義』というものなのだと思う。
とうてい国の代表にはなれないような利己的な資質の持ち主が選挙で選ばれてしまっている。経済利益だけしか考えないような人間の回りに、同じような人間が集まって力を持っていく。そして自分たちの経済利益に反するような人の集団を排除しようとする。
『正義』のないところに私が望む政治というものはない。
私が政治家に望むことは、
「公平であること」「平和な社会をつくること」
「国民の僕という意識を持つこと」ぐらいだが、
ところがたいていの政治家は私が望むこととは正反対の資質を持っているように見える。
政治は一部の人間の経済利益によって動かされ、
それ以外の政策は選挙で勝つための方便にすぎない。
そういうことは露骨に見えているが、
社会の雰囲気はかなりひどくなっていて、今のところそれが変わるという気配は感じられない。
社会を一応代表しているような立場の人が醜さをむき出しにして反省もしないから、それに続けとばかり、堂々と図々しく身勝手な利己主義・差別感をまき散らす人間が増える。
本当に迷惑なことだ。
正義感を持たない政治家が、自分のことを「国のリーダー」「ひとかどの人間」などと勘違いしてしまうのは、マスコミの責任が大きい。
本当なら、批判して軽蔑して無視すべきなのに、ちょっとだけ批判してそれでも期待しましょう的なニュアンスをまき散らしている。
マスコミの中にも自分で「社会をリードしている」などと思っている人間がいるだろうから、本当に仕方がない。
何もかもが仕方がないことだらけだ。
泥棒や、場合によっては人殺しよりも酷いことだという気がする。
もっとも、差別と人殺しは一体になっていることが多いが。
「差別」の感情は多かれ少なかれどんな人間にもあるものだと思う。
そういう感情を自分の内に見いだしたとき、「あ、これはまずい」「こういう考えは捨てなければならない」と自分で自分を戒める。それを『正義』(社会の中で生きる人間にとって正しい在り方)と言うのではないか。
『差別感情』を抑えられなくなったらアウトなのだが、抑えるつもりもなくしたような人間が増えてしまったのは何故だろう?
人種や民族の違い、社会的地位があるかないか、金があるかないか・・こんなことで人は優越感を持ち、他人を見下し侮蔑するのだ。
未熟な子供の世界では、自分より弱そうと思っただけでいじめ行動が出る。
途方もない富や社会的名声を持ってしまった人間を私は本能的に信用できない。
富や名声は、社会があればこそ生まれるもので、自分で勝ち得たものであるように見えながら、本当は社会を構成している大勢の人たちのおかげなのである。
他人がいなくては金持ちになりようもなく、莫大なお金を持って無人島に行っても、助けてくれる人がいなければどうにもならない。
人は金のあるなしに関わりなく、他人に頼り頼られながら生きていくしかない。
だから、人の労働や仕事に、大事なもの、大事でないもの、はないのである。
なくてもいい仕事と言ったら、たとえばカジノだとか、歓楽街だとかに関わる仕事を思いつく。
これだって、立派な仕事だ、経済効果もある、などもっともらしく言う人はいるだろう。それは屁理屈というもので、実際は、職業に貴賎はあると私は思ってきた。
普段からそんな風に考えているので、2016年は(2016年も、と言うべきか)、ニュースを見てもただただ不快で耐えられなかった。
テレビを見て、「こんな人、本来なら大勢の人を前にして演説なんかをするべき人間じゃないのにな〜」などと思う事がしょっちゅうだった。
人の醜い部分を隠そうともしなくなったらもう終わり。
人の最も醜い『差別感情』をむきだしにしたら、もう人間失格。
『差別』をなくすことが『正義』というものなのだと思う。
とうてい国の代表にはなれないような利己的な資質の持ち主が選挙で選ばれてしまっている。経済利益だけしか考えないような人間の回りに、同じような人間が集まって力を持っていく。そして自分たちの経済利益に反するような人の集団を排除しようとする。
『正義』のないところに私が望む政治というものはない。
私が政治家に望むことは、
「公平であること」「平和な社会をつくること」
「国民の僕という意識を持つこと」ぐらいだが、
ところがたいていの政治家は私が望むこととは正反対の資質を持っているように見える。
政治は一部の人間の経済利益によって動かされ、
それ以外の政策は選挙で勝つための方便にすぎない。
そういうことは露骨に見えているが、
社会の雰囲気はかなりひどくなっていて、今のところそれが変わるという気配は感じられない。
社会を一応代表しているような立場の人が醜さをむき出しにして反省もしないから、それに続けとばかり、堂々と図々しく身勝手な利己主義・差別感をまき散らす人間が増える。
本当に迷惑なことだ。
正義感を持たない政治家が、自分のことを「国のリーダー」「ひとかどの人間」などと勘違いしてしまうのは、マスコミの責任が大きい。
本当なら、批判して軽蔑して無視すべきなのに、ちょっとだけ批判してそれでも期待しましょう的なニュアンスをまき散らしている。
マスコミの中にも自分で「社会をリードしている」などと思っている人間がいるだろうから、本当に仕方がない。
何もかもが仕方がないことだらけだ。
2017-01-16 22:41
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コメント(2)
tamaraさん、お久しぶりです。
私は、政治は弱いもののためにこそあるべきだと思っていますが、現実はまったく逆になってしまっているように感じます。それどころか、差別意識を隠そうともせず、徒に憎悪の感情を煽ろうとするような人物が、「選ばれて」大国のリーダーになってしまう・・・どうにもやりきれない気持ちです。
先行きはとても不安ですが、「判断基準はFairかどうか」というフィンランドの人々のすばらしい価値観をいつも心に留めて、あきらめないでいたいです。
by jmh (2017-02-01 10:35)
jmhさん、ご無沙汰していました。
「差別意識」はもっとも恥ずべき感情である、というのは常識であって、そこから逸脱してしまう者も少数いる、というのがこれまでの社会の構図だと思ってきましたが、いつの間にかその常識がなくなりつつある感じがしますね。差別者が堂々と居直っている姿を見ることが多くなり情けないです。
がんばらないとなりませんね。
by tamara (2017-03-08 21:48)