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2011年を思う(1) [社会]

大変な年であった。
解決にほど遠く、「一年を振り返って」というようなまとめの感想はとても持てない。進行中の一つの点の上にいる。
原発事故というのは改めて言うまでもなく、決して起こしてはならないものだった。人の創りだした物に事故は必ずあるもの、であることを思えば、原発は持ってはならないものだったということだ。

土地が、水が、作物が放射能で汚染されていることをどう考えたらいいのだろう。人体に影響がない放射線の基準値が常に話題になった。
まず、情報開示すること。そして、正しい情報を得るために、細かくまんべんなく繰り返し放射線を測定すること。
これらのことは人々が安心する上で最低限のことである。
でも、とてもじゃないが十分に行われているとは思えず、それが「風評被害」なるものを作りだしている、という批判もよく言われる。

でもれだけなのだろうか。きちんと検査をして政府の示す許される基準値以下ならその食物は問題はないのだろうか。
私にはどうもそうは思えない。私たちが望むのは、放射線量が基準値より下回っていることではなく、ゼロであることだからだ。
放射能は自然界にだって存在する、と強調する人がいる。自然界に存在するものは仕方がないだろう。われわれ人間も自然の一部であるのだから。
だからと行って自然界にもともとあったわけではなく、人の手によって生み出された余計な放射性物質を、触ったり、口にしてもいい、などと考える人はいないだろう。
他に食べるものがないならばいざ知らず、他所から手に入るならば、放射線量ゼロのものを選ぶのが人情である。

被災農家を応援するために年寄りは進んで食べよう、ということも言われる。もっともだとは思うが、よく考えればこれも片手落ちのおかしな話だと思う。
<人類は大失敗をしてしまった。今後は一切こういうことがないようにする。核燃料を安全に処理するやり方がわからない以上(そんなものは永遠にないように思うが)、一切の原発は止め、廃炉にし管理をしていく。>
そういう風に国としてきちんと原発に決別するということならば、年を取ったものは放射性物質が多少入った物を口にすることをがまんし、子供や若者だけには安全な物を食べさせてやろう、ということにも道理はある。

ところが、これほどの惨状を目の当たりにしながら、原発にきっぱりと背を向けることもできないでいる。そうしたくない人たちがいる。
そうしたくない人たちが、「神経質になりすぎるな」「直接人体に影響があるわけではない」「基準以下だ」などと言っている。ばかばかしい話だ。

先日の毎日新聞に、原発事故の2週間、菅直人前首相の指示で、内閣府原子力委員長(近藤俊介氏)が「(原発事故の)最悪シナリオ」を作成し、菅前首相に提出していたという記事があった。1,3,4号機で相次いで水素爆発が起き、2号機も炉心溶融で放射性物質が放出されていた。「最悪シナリオ」は、1〜3号機のいずれかでさらに水素爆発が起き、余震も続き4号機の使用済み核燃料が全て溶融した、という仮定。
そうなった場合、原発から170km圏内がチェルノブイリ事故の強制移住基準に達する(土壌中のセシウムが1平方メートルあたり148万ベクレル以上)。そして東京都のほぼ全域や横浜市までふくめた250kmの範囲が避難が必要になると。
「避難対象は首都圏、千葉、埼玉、群馬、新潟までをふくめ3000万人になり、国として機能しなくなるかもしれないと思った」と菅直人が退任後の記者会見で証言したそうだ。

確かにこういうことも起こり得ただろう。そう考えると、福島第一原発の事故は、これまでに日本人が直面したことがない(想定外の)悲惨な事故であり、この事故の収束に一体何十年かかるか(そもそも収束とはどうなることか)、すでにどの位地球を汚染してしまったのか、これからさらに汚染が進むのか、全くわからない状態であるが、「これよりももっと大きな事故にもなり得た」あるいは、ほんの少しは「この規模で済んだのは不幸中の幸い」とでもいう見方もできるということなのだ。

もういい加減「地元住民」という考えはやめてほしい。人間にとって、自分の家族や身近な人たち、地域、は確かに一番大切なものであるが、これまで本当の意味で大事にされてきたとは思えない気がする。
「地域」「地元住民」という言葉は、いつも都合良く政治(経済)に利用されてきたのではないか。

原発問題もダムの問題も基地の問題も本当によく似ている。みんながそれを感じている。感じているなら「いい加減にしろ」と怒りの声を挙げられないか、と思うが、「生活」を持ち出されるともう何も言えない。「目先の利益にまどわされず環境を守り、善く生きる道を選ぼう」などと、なかなか他人に言えるものじゃない。

この間テレビで、自然保護を国の指針とした観光によって国の経済を成り立たせているアフリカの小さな国「セーシェル共和国」を紹介していた。インタビュアーがその国の大統領(?)に、東北大震災の復興についてアドヴァイスを求めたら、「あのような大災害から復興しようとしている日本の人々に敬意を表します。」との前置きの後、「このこと(災害)を機にし、国を守るためには、まず環境を守らなくてはならない、ということに気がつかれたらどうでしょうか。」と言われていた。
本当にそれがもっともシンプルで正しい考えだと感じる。


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shira

 地元住民とか地域とか、反対派とか推進派とか、子どもとか若者とか老人とか、そういう言い方を選んだ時点で「これはオレの問題じゃない」という部外者意識が出てきちゃうんですよね。すると物事に対して正面から受け止めようという気が失せる。放射能だって基地問題だってダムだって、全部「オレの問題」なんですけどね。そのくせちゃっかり国民とか国民的とか日本とかいう言葉で大衆性を得ようともするんですよ、メディアは。
by shira (2011-12-28 16:57) 

tamara

「人の問題」で済ませられるのなら、むしろよっぽど楽ですね。

今では、我々は、とてつもなく大きな<社会>という枠組みの中に生きているため、何もかもが自分にはねかえって来てしまいます。自分に関係のない問題はない、ことになります。
そういう大事な視点を無視した政治家の政策、それに追随した報道をするメディア・・ひどい話です。
by tamara (2011-12-28 18:03) 

ayu15

これは「うちの問題」です。若狭湾でおきたらうちは福島のようになるかも・・。
関電や政府に扱う能力あるのか疑問です。

うちは「北の国から」を書いたので気が向いたらどうぞ。

by ayu15 (2011-12-30 08:58) 

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