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2009年の終わりに〜教育の質について〜 [教育]

去年の年末は「教育」について書いたので、今年もその続きー私が<地に墜ちた>と感じている日本の教育はその後どうなったかーを考えてみた。断っておくけど、<地に墜ちた>と私が言うのは教育行政のことで、教員のことをさしているのではない。

前政府による教育基本法の改定の準備期間であった頃から、本来なら「教育の質」について問題にすべきことが、「教員の資質の問題」にすりかえられてしまった。いつの間にか、教育の質を上げるためには「教員の資質向上だ」と公然と言われるようになってしまった。政府主導でマスコミがそう取り上げるから、おそらく世論(人々の意識)もそうなったのだろう。

いつから「教員の質の低下」ということがこれほど言われるようになったのだろう。おそらく急に文科省が日本の小中学生の学力低下を言いだした頃に、その責任の所在として教員の質低下ということが持ち出されるようになったのだろう。
そういう世論をつくったうえで、教育基本法改定も強行された。(当然のことだが反対したのは一部の人たちだけだった。)
正規職員ではない一年契約の非常勤職員を増やし、その不満の矛先を鈍らせるかのように、さらにもっと身分不安定な時間給の臨時職員を置くようになったのも、この教育基本法改悪の数年前からだったと思う。

授業時間確保などという言葉が盛んに言われ始め、まるで教員がわざと授業を少なめにやっていたと言わんばかりの宣伝もされた。いろいろな学校行事(文化祭やら運動会やら林間学校やら)や、試験準備や成績処理、学校運営に要する時間を、授業を行っていないと言いだした。
もともと授業の時間などただの目安でしかないものを、どこかの誰かが「授業時間確保!」などわめき立てているだけなのである。
夏休みなどの研修期間はもっとも批判対象になって、教員は職員室に閉じこもって研修せよ、ということになった。教育はこれで「学問」の世界から遠くなった。

教員は疲弊し、当然ながら授業の質も低下し、プロとしての誇りも教員免許更新制などというばかげた制度で奪われ、副校長、主幹、などがおかれ、学問の場にもっとも大切な自由な雰囲気もなくなった。かれら管理職は授業をしないから、平の教員の授業持ち時間数はまったく減らず(平の教員こそが教育を担っているのです)、逆に余計な仕事ばかり増やすことになる。
不必要なところに部署や職務をつくるということこそは、政府が四苦八苦して削ろうとしているムダの正体だと私は思っている。いったん、ある部署が新しくつくられ、もっともらしい名称が付けられ、人が配置されると、それはどんどん不要な仕事を生み出していく。仕事をしないと存在価値を問われるから、自らの存在理由の証明のために次から次に不要な仕事をつくり、予算を浪費し、回りの人の時間までを浪費していく。
こんな風にして、教員が物言う力もなくなり、世論は教員の質低下を責め立てる。これで期は熟した。巧妙に教育基本法は改悪、教育界は政治に息の根を止められた。

全国学力テストが抽出校のみに縮小したこと、教育免許更新制が廃止されること・・事態はすこ〜し上向いてきたかもしれない。それでもまだまだ道は遠い。
民主党は教員免許制の廃止の変わりに教員養成6年にすると言う。こんなことをしたらかつての薬学部のように志願者が減ってしまい、質の低下をくい止めることにはならない、という意見もある。6年がいいかどうかは別として、これもまた教育問題の本質からはずれている感じを受ける。

この間、朝日新聞のオピニオンという紙面で「教員の質」に関して、K塾の元理事という丹羽健夫氏の意見を読んだが、私はとてもまともな意見だと思った。
何かと引き合いに出されるフィンランドは、教員養成6年生なのだが、これをそのままマネをしても教員の質は上がりませんよ、その前にもっとやることがあるでしょ、と丹羽氏は警告している。ただ6年間養成を取り入れたところで教員志願者は逆に減ってしまい、教員の質を上げることにはならない、それよりも今の教員の過酷な労働状況を何とかせよ、教員に十分な研修時間を与えよ、そのために人員を確保せよ、と氏は述べている。
で、まずやるべきことは、
1,一クラスの人数をせめてOECD平均並みにするため教員の数を増やす
2,正規採用を増やし、臨時採用を極力減らす、
3,教員を雑務から解放するため、事務スタッフを増員する。

そういうことをして初めて6年制の導入などを考えればいい、と氏は述べている。(塾関係者からこういう意見が出ていることに驚いたことを付け加えておきたい。)

こういうことはもうさんざん教員サイドや教育学者から言い尽くされてきたことだが、いまだにもってこのわかりやすい方法が実践されないのは単に予算の問題だけとは思えない。予算がなくて十分な教育が行えないことを認識しているならば、「教員の資質向上」のために免許更新制だ、全国学力テストで競争だ、などという考え方は生まれないはずだ。

最近、フィンランド関係の本を読んだが、日本とフィンランドの決定的違いは、教員という仕事が専門職として魅力あるかどうかにあるようだ。
フィンランドはクラスの人数は少ない、授業時間も決して多くはない。教員は十分に子どもに手をかけられる、雑務があまりない(清掃すらない)、研修もしっかり保障されている。これなら教員志願者が多いのもうなずける。時間をかけて優秀な教員を養成することにも意味がある。だが日本は、教員になると思うように授業準備をする時間もない、研修や研究の時間もないという状況だ。

少なくとも学問が好きな人でなくては、教員という仕事は向かないだろう。
そして「学ぶこと」が好きな人が教員になって、学ぶ時間をまったく奪われてしまうとしたら、学校教育という場は、教える方にとっても教わる方にとっても不幸なものとなるだろう。「教育の質の低下」ではなく「教員の質の低下」などという言葉を平気で使う社会は、社会そのものの質が低下していて、しかもそのことを自覚していない社会ではないだろうか。

政権交代したとは言え、長い期間をかけて荒廃させられてきたものが、そう簡単に良い方向に向かうはずもないことはわかっている。それでも今後数年間に良い変化があることを期待したいものである。
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全国学力テスト(その2) [教育]

毎日新聞が教育問題でがんばっています。
「先生」シリーズ第2弾。前回は生徒指導がテーマでしたが、今回は「競争の現場から」というタイトルです。毎日新聞教育取材班は、現場に足を運び問題意識を持ってていねいにインタビューし、記事にしていることに好感が持てます。
この、問題意識を持って、という姿勢がかんじんなところで、毎日新聞の教育取材班は「教育」について誠実に考えていることを感じます。
どんなに良い記事が出ても、そういう声は無視されて、どんどん悪い方向に進んでいるのが現実なのですが、少なくとも共感者がいるということで気持ちが救われる教員もいるでしょう。一市民としては、今後もめげずに「教育問題」に取り組んでほしいと思います。

18日の「教育の森」という紙面では愛知県犬山市が学力テスト参加に転じた経緯について扱っていました。今日のNHKでは「今回初めて全国の小中学校が学力テストに参加となりました。」と、それが何?、それでどういうことを言いたいの?というような報道ぶりで、不毛な日本の教育を現しているかのようでした。
子供にテストについてどう思うか聞いたりして、芸のないこと・・。
どういう視点で、が抜けているため、ニュースとしてまったくくだらない報道になってしまうのだと思います。

さて犬山市の経緯を読んで見ると、教育長が持っていた「学力テストは必要ない」という理念はあっさり保護者のアンケートでくつがえされていました。
尾木直樹氏が「市民への十分な説明がなかったことも問題だったし、参加に転じた結論も、市長が主導した多数派工作に過ぎない。民主的に議論した結果ではないことが残念だ。」とのコメントを寄せていましたが、所詮、今の日本の社会では良い意味での民主的議論は望めない、という感じがします。

「学力テストは必要か」というアンケートがそもそも「教育の貧困」を物語っていると思います。「学力テスト」という言葉に保護者は弱い。「学力テスト」という言葉だけで、なにか子供の学力を上げるために大事なテストであるという安易なイメージがインプットされているのです。
何のために学力をあげるのか、どういう学力をあげるのか、誰の学力をあげるのか、をよく考えれば、アンケートもばかばかしいし、全国一斉テストもばかばかしい、ということは気付くはず。
この競争社会において全体の子供の学力(テスト力)をあげても何か意味がありますか。お宅のお子さんの学力テスト力だけあげようというのではありませんよ、と言いたくなる。
ほぼ全員の保護者がわが子が「学力テスト」に強くなって良い成績を取り、「良い高校」「良い大学」に入り、最終的に収入の多い「良い職業」に就くことを願っていると思います。きびしい競争社会ですから無理ありません。
中には「健康で他人に思いやりがある子供に育ってくれればいい」と仰る方もいますが、学力もついてくれればそれにこしたことはない、と思っていると思うので、すべての親はわが子の「学力テストに強い力」を育てることを願っていると言えるでしょう。
ところで、良心的な教員はみな、どの子にも何かしらの力をつけてやりたい、伸ばしてやりたい、と願っているのです。文科省の「学力をつける」という唱え文句も、一応は全員の生徒を対象としています。
でも全員がみな少しずつ学力テスト力をつけたら、また同じスタート地点ではありませんか。だから我が子の「学力テスト力」をつけさせたいのなら、全国一斉テストほど無意味なものはありません。我が子だけこっそり受けるようなテストでないなら、競争に勝つことはできません。(テストを受けることが学力テスト力をつける、という前提での話ですが。)

犬山市の保護者の方々は、自分の所だけやらないで損をするのがこわい、と思ったのではないでしょうか。とにかくみんな同じだと安心できるのです。個性は必要ないのです。

さて、ではみんな一斉にテストを受けない、という選択肢はなぜなかったのでしょう。
現場の教員は「全国一斉テスト」に学力アップの効果がないことは新任でもないかぎり、誰でも知っています。競争好きの教員ならこのようなテストで生徒にハッパをかけられる、と歓迎するかもしれません。(ハッパをかけるのが自己満足的に好き、という人はけっこう多いです。)でも、「教育において求めるべき学力とは何か」「善く生きる力とは何か」を常に考えている教員にとって、文科省の「全国学力テスト」など最初からまともに考える対象にもなりません。命令なので仕方なしにお付き合いしているだけです。
教育を専門職にしている者の言葉に耳を傾けないような教育行政はまったくもって不毛なのですが、この行政の力はどんどん巨大化していっています。
教員の声が届かず、我が子かわいさで思考がストップしてしまう親たちばかりのこの日本では「全国学力テスト」をもったいぶって今後もやり続けるしかないようです。(最近はどうも悲観的な『ブナの森』ですがご勘弁を。)
試験に出る問題を前もって一つ、二つ、他の教材にまぜて教えておくと、確実に学校平均点はアップしますよ。(一問2点としても全国順位はぐんと上がります。)
実際にこういうことをやっていた学校もあるようですしね。
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教員のSOS [教育]

東京都が、教員不足で地方から教員のなり手を募るためのバスツアーを行った様子をNHKニュースで報じていた。その様子はあまりもばかげて見えた。なぜ教員が足りなくなるのかということには全く触れず、団塊世代が退職するから、など理由にもならないことを言っていた。問題意識のない報道というのは見苦しい。バスツアーに乗り込んでいる若者があわれにも感じられた。
医師が足りない、介護士が足りない、教員が足りない・・と何度も何度も報道されているが、足りなくなった責任を問われるのは誰か、という点がすっぽり抜けているのはわざとだろうか。

毎日新聞でしばらく前に『先生〜生徒指導は今』というシリーズで公立小中学校の教員が直面している問題を連載していた。学校の荒れ、疲弊する教員、重圧に押しつぶされる教員の姿がかなり正確に誠実に報道されてた。心折れ定年前に辞めていく教員、自殺に追い込まれた新任教員のことなど、深刻な内容だった。
2月24日の「記者の目」はこのシリーズを担当した三木陽介氏の記事だった。
「教育取材担当になって以来、学校に足を運ぶたびに生徒指導に疲弊している先生達の姿を目の当たりにして、このままでいいのかと思っていた。先生が一人で対処する容量をはるかに超えているのに、そうした実態が学校の外に伝わっていないとも強く感じた。それが今回の連載をしようと思ったきっかけだ。」と三木氏は述べている。
その「記者の目」の中で「文科省の調査では教員の一日の平均勤務時間は10時間36分。このうち休憩はわずか14分」「先生達はもっとSOSを発信するべきだ」とあったが、今の学校は、市町村の教育委員会の姿勢や地域性で、その雰囲気は少しづつ異なるが、教員の忙しさがこの10年で以前に比べ数倍にもなったことだけは大げさではなく確かな事実だ。

さて、学校の教員は誰に対してSOS発信ができるのだろう。生徒の保護者だろうか。一般の人だろうか。政治家? 教育委員会?
無念なことに教員のSOSを受け止めてくれる場はないのである。公務員で一応身分も保障され、給料もある程度もらっている、となれば、他の誰が教員の悩みに耳を貸すだろう。(給料について言えば、30代で子供が2人いると生活保護の対象になる位のものだが)

私の知っている中学校ではこの3月に50代の教員が3人も(全校たった20人の教員のうちで)早期退職をするという。「もうこれ以上は耐えられない」と言う。3人ともベテランの教員である。
こんな先生に子供をまかせるなら安心、と思うような人達である。退職後、皆この不況時に新たに職探しをしなければならないのだが、それでもこのままでは心身が持たないと、退職の道を選んだのである。

教師集団という言葉があるが、今のような忙しさの中では教員は会話する時間もなく、孤立して一日に百数十人の生徒と向き合わなければならない。ベテランの教師でも、ふっと気付いたら「ご飯と味噌汁の味がわからなくなっていた」という事が起こりうる。真面目に生徒と向き合おうとする人ほど当然無理を積み重ねるから心が折れてしまう。
新任教員に至っては、相談したくとも相談する相手がいず(それぞれが忙しく話しをする暇がないせいで)、本当に気の毒というほかはない。希望に燃えて教員試験を受け、見事合格しても絶望の淵に立たされる新任は多い。繊細な心や自責の心を持った真面目な人ほど、絶望感も大きいだろう。

これでは教員のなり手がいないのも当然のことだ。新任もベテランも辞めていくのだから。
なぜ辞める教員が多いのか、そうならないためにどうすればいいか、という問題を全く棚上げして、「東京の学校見物ツアー」などというばかげたことを得意げに企画し、それを喜んでNHKが報道している。「学校ツアー」で一体何を見るのだろう。建物?それとも児童、生徒の様子? 
(東京都では教員は職員会議で意思表示の挙手、採決をしてはいけないということもちゃんと説明しただろうか?)

学校に関してはあまりにいろいろな話題が好き放題に報道されるため、一番深刻な問題の焦点はいつもベールにつつまれている。授業は増やしても教員数は増やさず、教員を忙殺させ追いつめている。臨時教職員という身分を新たにつくり出し教員希望者を安上がりに使っている。そのくせ、予算をさいて現場に不用な、授業をやらない管理職(副校長、主幹)を置いた。免許更新制度を作り、これ以上余裕のない教職員を意味のない研修に無理矢理に参加させる。不毛で有害な学力テストで金と労力を無駄遣いした。

教員の疲弊は教育の疲弊につながる。そして十分にていねいな教育を受けられなかった子供が大人になって理不尽な行動を取ると、「モンスターペアレント」などという下品な言葉を投げつける。(「モンスターペアレントの対策」などという研修もあるそうだから、いかに文科省のレベルが低いかよくわかる。)これほどまでに教育が踏みつけにされるとは想像もできなかった。
こういう教育界に見切りをつけ逃げ出す先生達に、これ以上「がんばってほしい」とは言えないのである。
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「学校給食を守る」その2 [教育]

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埼玉県鳩ヶ谷市では保護者、教育関係者が学校給食の民間委託に反対して、小さいながらも市民運動を継続しています。

詳しくは前の記事;http://tamara06.blog.so-net.ne.jp/2008-09-13

当局に説明会を開かせ、そこで納得できないとまた説明会を開いてほしいと300名の署名で要望書を出し、再度説明会を開かせるというがんばりよう。
おかしいなと思うことがあってもちょっと文句や愚痴を言うだけで、何事もすんなり「行政の言う通り」になってしまうのが昨今の社会です。あまりに問題が多すぎるから、一つのことに時間をさいていられない、というのも原因でしょう。

そういう中で鳩ヶ谷市には「鳩ヶ谷の給食を守る親の会」も発足しました。
22日日曜日は「鳩ヶ谷の給食を守る親の会」が中心となってパレードをしました。参加者は200名、家族連れが多く、子供たち(保育園児から高校生まで)の姿が目立ちました。中学生のときに「給食委員」だったから責任を感じて来たという高校生もいて、その純粋な責任感には泣かされます。学校給食の運営に学校の「給食委員」の生徒は何の関わりもないのですが、自分も何かしなければ、という心が、けなげです。

親子パレードは春の日だまりのようにのどかでした。
風船がプカプカたくさん浮かんで、お手製のプラカードもたくさんありました。ベビーカーに乗っていた子が「歩く」と言い出したり、道行く人とおしゃべりが始まったりするので、行進はとぎれたり、広がったり。
さすがおまわりさんも子供のことだと強く言えないようで、「なるべく間をあけないようにお願いします。」「広がらないようにしてください。」とニコニコして遠慮がちに注意していました。

道行く人も、かわいい子供が「きゅうしょく、まもってくださ〜い!」と声をあげるものだから「おや、何かしら。」と関心を持ってくれた様子でした。
TBSテレビも取材に来ていました。(3月8日午後1時に『噂の東京マガジン』という番組で放映予定だそうです。)
24日の朝日新聞の埼玉版には「給食民間委託撤回を」(鳩ヶ谷の保護者ら)という見出しで、給食民営化に反対する市民の様子が取り上げられました。
「保護者から撤回を求める声があがっている。食の安全への不安や職業安定法が禁じる偽装請け負いにあたる可能性を指摘、議会に自校直営方式の継続を訴える請願を出す。」、「親の会の柳代表は『給食は学校教育の一環。市の計画は拙速で不誠実だ。偽装請け負いの疑いが強いのに強行しようとしている。』と話している。」と報道されました。

行政が不合理なことを進めようとしたら、ストップの声を上げるということが、ごく当たり前になるともっと良い社会になると思います。
(3月議会で予算が決定されます。)
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日本の教育〜「教育理念」について [教育]

少し古いニュースだが、ある大学が他の大学の教育理念を丸写ししていたと報道されたことがあった。
教育理念などというもの、各学校によってそんなに大きなちがいはないとは思うが、なにも他校のまねをするほどのものではなく、職員みんなで考えたところで教育者であるならば誰もが理念を持っているだろうから、たいした労力はいらないはずで、なぜ他の大学のまる写しをしなければならないのか、サッパリわからなかった。

むしろいくら理念を掲げても、人件費、学校予算など、国や自治体からお金が回ってこないこと大問題なのだ。
ところで教育目標というものは各学校ごとに毎年度末に再確認されていると思う。毎年変わるものではないが少なくとも理念の意味するものを、教師集団がお互いの共通理解にする必要はある。ただし、大学ともなれば、(その大学の創始者の理念が受け継がれていく場合をのぞいては)本来、大学生が自分自身考えるべきもので、学校側が示すものではないと思う。そのくらいの自主性、自立性が大学生にあって当然と思う。

さて、中、高の教育目標や努力目標は以前と比べ、昔と比べ幼稚になってはきている所が多い。
20年前ぐらいから、高校の教育努力目標が「チャイム着席を守ろう」とか「掃除をしっかりやる」「挨拶をしっかりする」とか挙げている学校(進学校と言われている学校で)が出てきて、学問というのは崇高なものだ、と思っていた私はびっくり仰天した。こんなしょぼい目標を高校生に対して提示するなんて、日本の教育はどんどん後進したいるのか、と思った。
確かに学校によっては生活指導に追い回され、教師が十分に本来の教育活動に取り組めないでいる学校は多い。それでも「チャイム着席」などという些末な目標を挙げるというのは、そこの教師集団はどうなっているのだろう、と思う。生徒をばかにしている。
どこかの大学の教育理念をそっくり写したなどとあったら、もうその大学の存在価値はなくなったも同然だ。誇りも意地もないなんて・・。

「学力をつける」などというのも教育理念のうちに入らない。学校は学ぶ所であるのは当たり前のことで、それは理念ではない。ところが、国が学校に求める課題が「国際学力テストでベスト3に入るぐらいの成績を取らせる」ことらしいので、教育理念などはどこかにいってしまい(言葉だけのものになって)「全国学力テストで学校ごとに競争させて学力テストに強い生徒にする」が一番の目標になってしまった。
何でも数値を出し、平均点を比べ、学力が全国何位だ、体力が全国何位だということがニュースとなって日本中をかけめぐる。

順位というのは日本人は大好きなようで、有名大学への合格者数なども毎年報道している雑誌もある。
「全国一の長寿県」というのも発表されているが、昨今の政策を考えると、これは「低い方が良い県」ということになるのかな、と思えてしまう。

教育とは何か、教育の充実とはどういうことか、について国民が関心を持つようになるといいのだが、厳しい競争社会の中にあっては、大抵の保護者は「有名校への進学を経て良い就職先にありつけること」という目の前にぶら下がった問題に振り回され、自分の子どもを通して「教育」について一番真剣に向き合え、考えることができるはずの時期はあっという間に過ぎ去ってしまう。
そのために「教育理念」の問題は常に世の中では置き去られたままである。
もっとも「政治理念」もはっきりしていないのだから無理はない話だ。


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小さな「市民運動」 [教育]

学校給食の民営化について取り上げたので、その後の状況報告です。
前回の記事はこちら
   http://tamara06.blog.so-net.ne.jp/2008-09-13

この小さな市民運動はその後も続き、市民サイドで教育委員会の説明会を開催しました。6万人の市で「学校給食」というマイナーな問題に、市のコミュニティセンターの会議室に夜7時すぎに180名も市民が集まりました。その後学校でも(二校で)説明会もありました。
市の方針と同調している教育委員会は、納得できる説明がまったくできず、どっちの言うことが正しいのかなと半信半疑で参加した市民の怒りまで買って「やはり行政の方がおかしいのだ」と確信を持った方が多かったそうです。

「民営化」によって市の財政負担は減らないこと、県職または市職の栄養士さんを民間業者指導に使うことは「偽装請け負い」になること(労働局で確認した結果)など、おかしな点がたくさんあり、それに対して当局は何の弁明もできませんでした。
今まで「民営化反対運動」に懐疑的だった人からも教育委員会と行政を激しく批判する意見がばんばん出て、これまで運動を続けてきた人達もおどろいたそうです。

さて「学校給食」など今の社会の深刻な問題に比べると、やはり優先順位として考えればかなり下のほうになるのかな、という感じはあります。
それを言うと、運動を中心になってやっている方が「市民運動をする」「できる」ということがこれからさまざまな運動につながっていくのだし、この問題に取り組むことで市民の横のつながりが生まれることが大事、と語っていました。

確かに鳩ヶ谷市は小さな市ですが、古くから市民運動の芽(根というべきか)が受け継がれているようで、学校においては、君が代の問題についても、保護者が「強制するのはおかしいじゃないか」と学校長に談判に行ったり、「習熟度別授業ではなく少人数学級実現を」を訴えて、教育委員会と対決したり、さまざまな運動がありました。国の「行政改革」という流れの中で(予算がないという理由で)、市民の大きな声もつぶされてきた昨今ですが、「反骨精神」はところどころで顔を見せています。
体罰やセクハラなどの問題も全国に先がけてマスコミを引き入れて戦ってきた歴史があります。

新しい世代に変わっても、そういう風土はまだなくなっていないようです。住宅地の開発で他所から入ってきた人達が多くなり、「市民運動」にも浮き沈みがありますが、まだ根は絶やされていないようで、例えば今回の「学校給食の民営化反対」にはじめて参加した人達が、運動の担い手になっていくかもしれません。

それにしてもどんな小さな運動でも、何かをするということは時間もエネルギーも費やすことになります。その結果がどうせダメだと予想されてしまう場合は余計に大変なものになりますが、今回は逆転も期待できそうな気配です。
井戸端会議的に政治参加ができるのも小さな市ならではでしょう。
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学校給食を守る [教育]

「汚染米事件」についてはもういろいろな所で猛批判が出ているので、それについての記事は省略する。「一生食べても害はない発言」にも驚かない。そういうことを思ったり言ったりやったりしている人種は世の中にかなりいるものなのだから。
今日書きたいのは「学校給食を守ろう会」のこと。
埼玉県鳩ヶ谷市では、教員、保護者が「給食を民間委託にしない運動」を頑張っている。近隣の市は給食を民間委託にしたところが増え始めた。評判はすこぶる悪い。理由は「おいしくなくなった」というものだ。なぜおいしくなくなるかを説明しておきたい。
その前に、「給食を民間委託させない運動」をしている方々は、誰のためにわざわざ自分の貴重な時間を費やしてこういう運動をしているか、ということに注目したい。

今のこんな不備だらけの政治の下、大変な状況の社会の中で、「学校給食を民間委託させない運動」だなんて、あまりにものん気に見えてしまうではないか。もっと悲惨で緊急を要する問題が世の中にはゴロゴロころがっている。それに比べたら「学校給食」の問題なんてママゴトみたいな話だ。
ところで「民間委託」といったら「行政改革」のキーワードの一つで、自治体の財政を逼迫させないために行うもの、と今だに一般に通る。
「行政改革」が失敗であって、あちこちに深刻なほころびが出てきていて、みな「行政改革」に少し疑問を持ち始めたと思うけど(そうであってほしい)、「学校給食」にまではなかなか焦点が当たらない。
今回の「汚染米事件」で「給食に使われていた」と大々的に報道されたので、「学校給食」にも少しは目を向けてもらえるかも知れない。それに、もともと根っこは同じ問題なのだから。

要するに「食」を粗悪、粗雑に扱っていいのか、という大問題である。
安全が疑われるようなものは言うに及ばず、「食」はただ腹が膨れればいいというものじゃないし、近頃「顔の見える野菜」などが喜ばれるようになっていることでもわかるように、作り手の心がこもっているものを我々は求める。贅沢である必要はないが、儲け主義の悪意に染まった物を口にする気にはなれない。
食べ物も、安全な水さえも十分にない国が多いことを思えば、少々不潔であっても量が少なくてもまずくても、不満は言えないようにも思うが、人為的な悪意のこもった粗悪品、有害品を食べることは御免こうむりたい。

「学校給食を民間委託させない運動」をしている人達は、給食がまずくなることを心配しているのではなく、「食」が粗末に扱われ何か不正不当なことが行われるのではないかを心配して「民間委託」に反対しているのだ。正当な理由で粗食になるならそれも仕方ないだろう。
ところがこの「給食の民間委託」には、正当な理由が見つからないようなのだ。

たとえば「民間委託」すると自治体の財政赤字が少しでもなくせる、と一般には思われているようだが、よく調べてみると、予算には何のメリットもないというのだ。給食は食材費用を「給食費」として児童・生徒側が払い、人件費や光熱費などは自治体が持っている。今の世のあおりで学校現場でも正規職員が減らされ非正規職員を雇っている。一つの学校に正規の職員が3人、パートの人が2人という割合のところが多い。従業員の数は不十分で熟達した調理員さん達の技術でなんとか補っている。

ところで「民間委託」にした場合、市は業者にかなりの「委託料」を支払うことになり、これが、人件費にほぼ匹敵する金額だそうだ。新しい業者にこれまでのような学校給食を求めれば、業者は当然人手を増やさなければならない。みんな低賃金のパート労働者でハードな仕事をすることになる。業者は儲けがないと困るので、最初のうちは質を落とさないようにやるが、そのうちに給食の質もどんどん落ちてきておいしくなくなるのである。そして委託料も次第に値上げがされ、結局市の財政の削減になどほとんどなっていない。

そのことが他市の給食の資料などで明らかになり、市議会でも「コスト削減のため」という言葉は記録に残らぬよう、一切使わなくなったそうだ。ただしうわさでは流しているため、かなりの人が「市の財政のためにはしょうがないでしょ。何を目くじら立てるのか。」と思うらしい。
市議会の最近の説明では「民間の活性化」ということに統一したようだ。正規職員を減らし、みな低賃金のパート職員にして、何が「民の活性化」か。

鳩ヶ谷市は小さな町で、学校ごとに食材を町の店から仕入れている。正真正銘「町の活性化」につながっているのである。しかも「自校直営」だから、生徒に給食を作っている調理員さんの顔が見える。「ごちそうさま、おいしかったです。」と言えるのである。
コスト削減にもならないことをこれほど熱心にやろうとしている本当の理由は「なにか利権がからんでいるのじゃないか。」と思うのも自然なことだ。
「学校給食を民間委託させない運動」をしている人達は、このごまかしに我慢がならず運動をしているのだ。6万市民で現在1万2千の署名が集まっているそうだ。

「学校の給食」なんて小さなこと、と見えるが、こういう小さな運動こそが社会の「食の安全を守る」ことに繋がっていくのかもしれない。単に「子供たちのため」だけの問題ではないのだ。なんでも人まかせではなく、少しでも身近な問題に関わっていくという姿勢でいないと、何されるかわからないものだと、今回の「汚染米事件」で改めて感じた次第。
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教員採用不祥事が示すもの [教育]

国の総理大臣が突然辞めても、われわれ庶民は全く困らない。生活に何の影響もない。
しかし国会でおかしな法案を通されると、かなり長い年数にわたり、福祉や教育、生活全般に対してはかりしれない悪影響を受けることになる。何もしなかった(あるいはできなかった)政治家はまだ良いほうかも知れない。勢いにまかせ世の中のおかしな流れを作った政治家は許せない。辞めてしまえばそのあげくの結果に対して責任を取るでもなく、涼しい顔して黙っているから腹が立つ。
よく考えてみると辞めて惜しまれるような政治家って今までどのくらいいたのだろうか。

ところで政治家が辞めても何も困らないが、教員が途中で辞めることになったら、生徒に対する影響は甚大である。教員でも管理職ならたいして問題ではない。世間をさわがし学校の評判に傷をつけるが学校の日常の授業には影響はない。直接生徒と接する平の教員が辞めると様々な支障が出る。まず生徒は今まで頼りにして慕っていた先生が悪者ということになったら、混乱し大人不信になるだろう。これはかなり長きにわたって子供の心を傷つけるだろう。

教員採用試験の不祥事をどう解決していくのか、良い考えは何も思い浮かばなかった。子供への影響を考えれば年度途中で不正採用の教員を辞めさせるわけにはいかないだろう、身分は臨時職員になってもこのまま続けてもらい再試験をしてもらうしかないだろう、不正合格者のために不合格になった人にはさかのぼってきちんとした処遇が必要だろう・・・など考えていたら、9月に採用取り消しか退職、というはっきりした処分となった。

教える側の不祥事は教わる児童、生徒にとっては悲惨である。誰もこんな経験を我が子にさせたいとは思わないだろう。取り繕いようもないことだ。
こうなってしまった以上、せめて、なぜこういう不正がこれほど多数あったのかを理解しておくことが大切だと思う。
私には、これは個人の悪徳の問題というよりは、不正採用が今の教育界のニーズだったのだと思える。縁故でや口利きによって採用しておけばあとあと楽なのである。自分の意見を言ったり、権利を主張したり、子供の立場になって物事を考えるような教員ではなく、常にお上(管理職や教育委員会)の言うことに従い、積極的にお上に意に沿って働く人材がほしいのである。

この不祥事で、はからずも教育界の姑息な体制がより明白になったが、それでも世間一般には、悪い校長と悪い教育委員がいて、不正採用された悪い教員がいる、ことだけ強調されて終わりそうだ。
根はもっと深く、教育基本法にまでかかわる問題なのである。

「教育は国民全体に対し直接に責任を負う」という重要項目を削って「行政が責任を負う」に変えてしまったのだから、教員一人一人の徳や熱意や責任より、行政(つまり人事権を持ったり、学校予算をにぎっているような所)が教育においては上になったのである。この教育基本法の改悪には20年にもわたる着々とした準備が進められていたにちがいない。教員の不正採用もその準備のほんの小さな部分だったのだと思う。

こうしてとんでもない法が決まってしまっても、責任を取らずにすむ政治家は何と図々しいことか。
頼むから福田政権よりももっとひどくなった、ということにだけはなりませんように・・。あの人は前の、またその前の人よりは何もしなかっただけ良かったのだから。
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「全国学力テスト」の報道 [教育]

新聞(朝日)に「全国学力テスト結果」についての記事が載っていて、またその理不尽さへの怒りが湧いてきてしまった。この不毛な「学力テスト」についての新聞の報道の不毛さも際だっている。
文科省は学力テストを勝手に始めておきながら反対意見が多かったためか「いたずらに競争に走らないよう、結果公表は慎重に」という態度を示しているが、このずる賢い立ち回りにはあきれる。

余計な「学力調査」を手間暇かけてやらせておいて、結果公表は慎重に、とはどういうつもりか。世のためにならなぬ悪いことをした場合、悪さばかりが目立ってもまずいと、急に別のことを主張するのは、政治家の常套手段で、どっちとも取れるようなあいまいな足場をつくり、今日はこういう顔を見せ、明日は別の顔を見せの繰り返しだ。選挙前ともなれば老若男女に受けがいいことを言い始めるから油断もすきもあったものではない。
お人好しの人なら「国民のことを考えてくれている」と勘違いをするのも無理はない。

マスコミも政治家にわをかけめちゃくちゃで、主張も天気のようにくるくる変わり、公正な立場での報道を、良い悪いのバランスを取ることと考え、すべて報道すればよしとしているようなところがある。
学力テストが現場で問題になっていて、平均点を公表することが過度の競争を生むという意見が多いのに、そういう意見を紙面に載せながら、しっかりと、最高点はどこ、最下位はどこ、とニュースにしているのだからどうしようもない。
その報道が大問題を生み出しているのでしょうに。

『どう活用 議論を』という小見出しで、お茶の水女子大の耳塚教授の「公開するのも一つの選択肢。ただ、公開するなら公開がどんな効果をもたらすか、公開した上でどんな改善策を準備しているか明示する必要がある。非公開の場合も教委が結果をどう使っているかを十分説明しなくてはならない。」という意見が紹介されていた。
まったく不愉快になる。どう活用するかを考えるのは、物事を始める前に考えるべきことである。何かが有効であるということが十分わかってから物事に着手する、というのが順番というものでしょう。後から「どう活用すべきか議論を」なんて本末転倒もきわまっている。

大体において現場の反対を押し切って始めたことを、なぜ政府に協力して「活用」しなくてはならないのか。悪法を積極的に活用する義務などどこにもない。始まった以上はまもなく終わるだろうことを期待して、じっとこれ以上の悪影響が広がらないよう、静かにやり過ごすしか手立てはないのだ。だまっていてもダメなものは終わるときもくるだろう。
「必修クラブ」も終わり、「5教科外選択の時間」も終わり「ゆとり教育」も終わった。何の反省もなく・・むしろ「良い点もあったのだが」とにおわせて正当化すらして。

物事を数値化してなにかをわかった気になるという幼稚さは、なんとかならないものだろうか。物を順番に並べたとき、すべて同じであるということはあり得ず、順番に並ぶべきはレジや切符売り場や電車に乗るときなどで、それ意外に順番の有効性はそうそうあるものではない。
生徒の試験の結果を並べてみせる見苦しさは古くから教育界にはあったが、いい加減その迷いから脱してほしい。
仰々しい「全国学力テスト」でわかったことが、テレビをたくさん見る子は読解力に劣る傾向がある、だそうで・・。このなんとも知的レベルの低い読みを見れば、さぞかし文科省およびその関係者はちゃんとした勉強をせず余計なことばかりやっていることがわかるというもの。

今年もすべての科目で全国の平均を下回ったことで、さる若い知事が「2年連続でこのざまは何だ。最悪だ。民間なら減給は当たり前。」と報道陣の前で教委と現場を激しく批判したそうだ。
どうしてこのような人が知事でいるのだろう?
「数値」と「金」でしか物事を判断できない人がなぜ知事になれるのだろう?
知事に選んでしまったのは他ならぬそこに住む人々、というのがなんともやりきれないです。
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夏休みを縮める理由 [教育]

小、中学校の夏休みを短縮する市や区が増えているそうだ。
朝日新聞(7月27日)によると、全国自治体の10%が1日〜7日間、夏休みを短縮して授業時間を増やしているという。
記事の中に、ある県教委担当者の「隣接する市町が短縮していれば『どうしてうちではしないのか』と追求される。そうやって広がっていったのでは」という話がのっていた。
公立の小、中学校の授業時間は、各学校に裁量権があるはずだが、実際には市教委が統率している場合が多い。「授業時間の確保をしっかりやってほしい」などの注文を学校長会議で伝え、学校長がそれに応えようとする。
こういうときに職員の意見は絶対に反映されないようになってきた。

授業時間確保など一体もともと誰が言い出したのか、全くよくわからないのである。戦後ずっと同じようにやってきた事がなぜ、変える必要が生じたか?誰がその必要を感じたのか?

保護者の意向は尊重されるべきだが、「夏休みを減らして授業日数を増やしてほしい」など考える保護者はどの位いるだろう。もちろん、共働きの家庭が多い中、子供の休みは短い方がいい、と感じる保護者は昔からいたと思う。が、それは学力問題とは関係のない発想だ。

「授業時間確保」という言葉は、「学力低下」の宣伝と同時に盛んに言われるようになったが、学力が本当に低下したのか、また、その理由は授業時間が足りないためか、ほとんどきちんと検証もされていないのだ。検証されていないのも道理で、こんなことは検証しようがないことだ。「学力」の定義からして、文科省の考えが良心的な教職員の考えと異なることは一目瞭然で、また、教育学に特に興味を持って学んだ人でなければ、簡単に意見を述べられないのが「学力とは何か」という問題だ。
しかし、教育が地にひきずり降ろされてしまったのが今の日本。

逆に考えればわかりやすいかもしれない。「夏休みを2,3日短くして授業をすると、学力は上がるのですか?」と。まさか2,3日授業を多くやっただけで学力が上がるなどと思う人はいまい。
それなのになぜこんな非科学的な理屈が通ってしまうのか。
「隣の市町がやると、うちではなぜやらない、と追求される」って、一体誰が追求するというのか。何にでも注文や要求をする人はいるけれど、何人かがあることを正しい理由もなく注文したからといって、それが「追求」されたことになるだろうか。

どう考えても、いないお化けを「出るぞ、出るぞ」と騒ぎ立てている類の話でしかない。それなのに10%もの市町で、「授業時間確保のために夏休みを短くすることが必要」と信じて学校を改革(しているつもり)をしていく理由は、一つだ。
市教委が権威を示すため。学校長が学校の長だぞという権威を示すため。
教職員はすべて上に従え、という雰囲気を強めるため。簡単に云うと、嫌がらせのため、ということだ。教育行政に教職員の口ははさませない、というデモンストレーションである。

うわべは「こどものため」という姿勢をよそおい、根本では「こどものため」という動機はみじんもないのだ。おおかた、夏休みに教職員がのんびりしているように見えるのがしゃくに障るのだろう。「先生はいいですねえ、夏休みがあって。」
(だったら、あなた教員になれば良かったじゃないですか。教員の仕事はものすごくハードで定年前退職が多く、10年以上も前、朝日新聞に『教職員の平均年齢は6才短い。女性教員の場合は10才短い』と発表されたのを読んで驚いたが、この2年間ほどで、59才〜64才で亡くなっている方が、私が知っている中だけで4,5人いるのだから、この調査は本当なのだろう。今はもっとひどくなっているにちがいない。)
世間のそういうやっかみや見当違いの平等感によって、またそれをうまく利用した行政によって、教職員の夏休みの自己研修権はなくなり、何にも研修するべき題材がない学校の職員室に教員はこもっていなければならなくなった。

ボロぞうきんのようにすり切れた教員に教わることで、どんな教育効果が期待できるだろうか。もちろん、国家(正しくはこれまでずっと政権をとってきた与党)にとってはその方が都合良いのにちがいない。
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