SSブログ

「日の丸・君が代通達」の判決 [教育]

都教委の「日の丸・君が代通達」に対して、都立学校の職員らが「思想・良心の自由を保障した憲法19条に反する」として義務はないことを求めた訴訟の控訴審で、東京高裁は、東京地裁判決(2006年9月)を取り消し訴えを全面的に退けた。結局都教職員側の逆転敗訴。

理由として(新聞記事では)「従来、全国の公立高校の式典で広く実施されている」、「教職員は地方公務員である」「『国旗掲揚・国歌斉唱を指導する』と規定した学習指導要領の存在」とあった。

某紙の記事に
<東京都教育委員会の通達などを「合憲」とした東京高裁判決は、国旗と国歌に対して国民が抱く、普通の感覚に沿って検討した様子がうかがえる。>とあったのには仰天した。

「普通の感覚」とは一体何か。
普通とは多数の人が同じように持つ感覚という意味だろうか?そうだとしたら多数とはどのくらいの人のことを言うのだろうか??
もし10人に一人が違う考えを持っているとしたら、その一人は「普通ではない人」ということになるのだろうか。

今どき、全体主義国家ではあるまいに、「歌を歌うときに起立しなければ罰を与える」という方がよっぽどグロテスクだと私は感じる。
もう世間では忘れられているかもしれないけど、国旗国歌法はほんの11年前に作られ、そのときの国会の首相(小渕恵三)答弁は「強制するものではない」というものだった。

また同某紙記事には
<東京高裁判決は国旗国歌について「入学式などの出席者にとって、通常想定されかつ期待されるもの」と生徒や親族の心情に理解を示し、「スポーツ観戦では自国ないし他国の国旗掲揚や国歌斉唱に、観衆が起立することは一般的」とするなど、国民が抱く当たり前の感覚に触れた。1審判決が国旗と国歌は「軍国主義思想の精神的支柱」と断じたこととは見解を異にする。>とあった。

確かにスポーツの試合などでみんなで君が代を歌っている光景をニュースで見たりするけれど、そこで起立しない人が罰せられるということはあり得ないでしょう。
なぜか・・「それは個人の勝手」だからです。
もちろん、スポーツ観戦と入学式や卒業式は違う。スポーツは「戦い」を昇華した形のものであると思うので、そこには国旗掲揚だの国歌斉唱など国家意識を鼓舞する状況が生まれやすい。(だから私はスポーツはあまり楽しめないのです)

では入学式や卒業式はどうか。子供が学ぶのは国家のためではありません。結果としてその子供が将来より良い社会を築く一員となることはあるかもしれませんが、まず本人のために学ぶのだと思います。自分がたまたま生まれた社会(国)のために学ぶのではない。そうなると学校の入学式や卒業式(個人の門出を祝う場で)で国旗国歌を、強制したらすごく変ではないでしょうか?
それを不思議と思わない人というのは、公教育を「子供に学ばせてやっている」という傲慢なとらえ方をしているとしか思えません。

<強制>はまったくおかしな話です。
誰だって自分が属する場、職場やサークルで、何らかの(たとえば歌)の強制があったら、ものすごく不愉快だと思います。
こういうときに「いやならやめろ」という人が必ずいる。もともと強制したりされたりするのが好きな人というのはどこにでもいるものです。一方、強制されることに反発する人もいるのです。
ちょっと前まで「反骨精神」という言葉があって、それは人間としてプラスの側面を表していましたが、最近はそうでもなくなってきたようです。

みんな同じでないとダメ。突出するのはダメ。
そういうのはすごく重苦しい雰囲気だと思うけど、逆に、それが好きという人のほうが多いようです。だからたまに誰かが違うことを言うと、「少数派がまた何か言ってらぁ〜」と軽蔑されたりして・・。

某紙記事の締めくくりの文は
<高裁の逆転判断は、一般感覚に則した妥当な判断といえそうだ。>というものでした。
なるほど、東京高裁も最高裁も「一般の人」「普通の人」の感覚に沿って物事を判断しているようです。裁判官なんてえらそうだけれど実は大したことないんだな、と思います。「普通の人」が判決を出してもあまり変わらないということになるでしょう。
nice!(2)  コメント(6) 

nice! 2

コメント 6

ayu15

なんか同感ともおもうんですが・・。
何度も書いていますが、裁判は切り取られた事実についてのみ判断しますね。でも報道や世論ではそれが膨らんでしまいます。
判決文など読んでないので(長いし読んでられない)憶測ですが、訴えの内容かえたらまたちがうことに。

あくまで判決は「思想の自由などに反しない」であって国歌強制はいいことだなんていってないでしょう。反対する人がヒステリックなんて多分判決文にないでしょう。判決は一部教職員組合の非難なんてしてないかも?



うちがなんども最近取り上げている情報の一人歩きの例かもしれません。
by ayu15 (2011-01-31 10:09) 

shira

 この件について、強制賛成派が主張する理由はどれも最後には「普通」「当たり前」「当然」というところにあらかた落ち着いてます。ただその根拠がいつもかなりいい加減でして、他国の状況をロクに調べもせずに「国際社会の常識」と強弁してたりするんですね。さらに、被害妄想的な物言いも多くて、現場の教員が生徒に反日思想を吹き込んでるだの、無用の抵抗で教育現場を混乱させているだのと、見てもいないことを言いつのったり。
 判決は単に「この通達を違法とは断定できない」と言っているだけであって、「この通達は大変結構なものであり、どんどんやっていただきたい」とお墨付きを与えたわけじゃないんですよ。
 読売の社説にいささかの賛意を示すとすれば、「一般感覚」ってのは「別に関心ねえよ、こんなもん」というところじゃないですかね。そういう点では確かに一般感覚に則ったごくフツーの判決です。
by shira (2011-01-31 21:00) 

tamara

ayu15さん、shiraさん、
いつもコメントありがとうございます。判決は「この通達を違法とは断定できない」であって、強制がいいことだと言っているわけではない、というのはその通りだと思います。ただし現場に下りてくる段階では、「強制は正しい」となるのでしょうね。どうとでも取れるような判決というのは逆に悪質(判決の逃げ道をつくってあるという意味で)という気もしますねぇ。

shiraさんが言われるように、極端な強制賛成派は、かなり被害妄想的で、「平和」という言葉をきくだけで「偏向教育しているんじゃないか」と言い出したりしますから本当に困ったものです。
フツーの人はたいして日の丸・君が代問題に関心を持っていないのですから、本来、学校ごとに気楽にやればいいことなのです。「通達」に従わなかったとして「処分」するなどもってのほかだと思います。
by tamara (2011-01-31 23:17) 

solea01

「普通」「社会通念」「常識」という言葉はあいまいさもあります。権力者の側が使うとかなり恣意的な解釈をしてくる場合もありますね。立川の反戦ビラ事件でも一審は社会通念から見てビラまきを犯罪として処罰するのは行き過ぎ、という判断で無罪にしたけどこの論理自体には結構不安定な側面もある。逆に有罪とした高裁・最高裁は商業ビラが今でも自衛隊官舎に入り続けている問題は無視せざるえない論理破綻もあるんですけどね。
 この判決では「体制(多数派)に従え」という意味に「普通」が使われているようだ。しかし表現や思想信条の問題でそれはやはり思想統制以外のものではないだろう、と思います。
ところで久々にインフルエンザで苦しんでます。出勤も活動も安全宣言まで停止状態。外出から帰ったら手洗い、うがいの励行を。こいつにかかるとやっかいですよ。お気をつけください。
by solea01 (2011-02-01 13:41) 

tamara

確かに、同じ「普通」でも誰がどう使うかでその効果はかなり違ってきますね。ちゃんとした根拠がない場合に「普通は」と使われることが多いですが、私自身は、相手と議論する価値がないと感じるときにこの「普通」を使いたくなりますね。
「フツーの感覚なら、君が代を歌わないからといって処罰したりしないでしょ。フツーはそうでしょう。」という具合に!
権力を持ったものが「普通」と言ったら要注意ですね。
インフルエンザお大事に。今年は予防接種を受けました。(予防接種代はもっと安くないと問題です。)
by tamara (2011-02-01 23:17) 

ayu15

普通について書きました。

国歌についても。
by ayu15 (2011-02-07 10:17) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
民主党批判について「八百長」 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。